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 父のそうした行為が終わったのは七瀬が十三歳のときだ。理由は七瀬に初めての彼氏ができたからだった。彼は隣町の中学校に通う一つ年上の不良で、街で声を掛けられた日に交際を始め、その日にセックスをした。
 七瀬が父親から性虐待を受けていたことを打ち明けると、彼氏は仲間と共に七瀬の自宅に乗り込み、父親をリンチした。顔を腫らし、血を流して命乞いをする父親を見て、七瀬は形容し難い複雑な感情に囚われた。今でもあの感情の正体がなんだったのか謎なのだが、少なくとも胸がすくような思いでなかったことはたしかだ。
 ただ、彼氏がそうした行動に出てくれたこと自体は素直にうれしかった。自分のために身体を張ってくれたこの少年を愛してみようと思った。
 だが、その数週間後、いつものように彼氏の自宅に呼び出されると、そこには彼の不良仲間たちが大勢で待ち構えていた。そして代わるがわる犯された。
 以後、こんなことが頻繁にあった。
 いつしか七瀬は地元で有名なさせ子になった。男からは求められつづけ、女からは狙われつづけた。自分の彼氏と寝た女として憎悪を向けられたのだ。そうした女たちの手によって刻まれたカッターの傷跡は今も内腿にしっかりと残っている。
 こうして七瀬は地元に居られなくなり、中学を卒業と同時に家を出た。本当に卒業式を終えたその日に着のみ着のまま、制服姿で電車に飛び乗ったのだ。
 向かう先は決めていなかった。ただ、気がついたら新宿駅のホームに立っていた。それまで新宿はおろか、東京にすら足を踏み入れたことがないというのに、どういうわけかこの街を選んでいた。
 もしかしたらネットの情報などで、歌舞伎町が来るもの拒まずの街だという刷り込みがなされていたからなのかもしれない。
 いずれにせよ、この歓楽街に来たことは正解だった。ぐるぐると目まぐるしく回るこの街の中にいると、心が麻痺して何も感じなくなる。過去も未来も、いろんなことがどうでもよくなる。
 たぶん、自分は一生、歌舞伎町を離れられない。永久にこの街でしか暮らせない。理屈ではなく、本能がそう悟っていた。
 いつしかこの街を去るときが訪れたとしても、また必ずここに舞い戻ってくる――七瀬はそんな気がしている。
 区役所通りに入り、風林会館の方へ向かって歩いてゆくと、これから出勤するのであろうキャバ嬢とすれ違った。彼女はスマホを耳に当て、「お願ーい。遊びに来てェ」と猫撫で声で営業電話をしていた。
 七瀬はパパ活に嫌気が差した二ヶ月ほど前、愛莉衣の身分証を持参してキャバクラの面接を受けてみた。だが、他人の身分証だとすぐに見破られ、あっけなく落とされてしまった。「今の歌舞伎町に十五歳を働かせてくれるキャバはないと思うよ」と面接を担当した男は苦笑していた。この街にも意外とお堅いところがあるのだと知らされた出来事だった。
 ふと、歌舞伎町二丁目から男たちの「えいえいおー」という掛け声が聞こえてきた。きっとホストたちが気合いを入れているのだろう。
 このように二丁目からは毎晩いろんな声が聞こえてくる。笑い声、泣き声、怒声、嬌声、様々な種類の声があちこちから上がっていた。
 歌舞伎町は花道通りを境に新宿側の一丁目と、新大久保側の二丁目に真っ二つに分かれていた。前者は一般客向けの飲食店などが並ぶ健全なところで、後者は水商売や裏稼業の人間が跋扈する危ない区域だ。
 風林会館を過ぎたところで、「お、七瀬じゃねえか」と、親しげに声を掛けてきたのはジャージ姿にサンダル履きの颯太そうただった。
 彼は三つ年上の十八歳で、歌舞伎町に拠点を構える任侠団体・内藤組の構成員――といえば聞こえはいいが、実際は盃ももらっていないただの部屋住みだった。要するに試用期間中の身で一番下っ端だ。もっとも本人は一端のつもりでいる。
「そんなおめかししてどこ行くんだ」
 七瀬は無視して通り過ぎようとした。すると案の定、颯太が横に並んできた。
「おいコラ。シカトしてんじゃねえよ」
「今どきおめかしなんて言う人としゃべりたくない」
 颯太は若い癖に古風な言葉を使いたがる。たぶんそれがかっこいいと思っているのだ。
「じゃあメイクばっちりでどこ行くんだ?」
「なんであんたに教えないといけないの」
 颯太が舌打ちする。「相変わらず可愛くねえ女だな。調子こいてるとテゴメにしちまうぞ」
「あ、矢島やじまさん」
 七瀬が遠くを指差して、彼が恐れている兄貴分の名前を口に出した。
 直後、颯太が目の色を変え、弾かれたように姿勢を正した。
「ウソー。あたし矢島さんの顔なんて知らないし」
 颯太が目を剥き、「このアマ、極道をからかいやがって」と歯軋りした。
 七瀬はあははと笑った。
 彼と親しくなったのは二ヶ月前、きっかけはラーメンだった。七瀬は歌舞伎町にやってきて以来、とあるラーメン屋がお気に入りで、ちょくちょく通っていたのだが、そこで頻繁に見かける少年がいた。剃り込みの入ったパンチパーマと、それに似つかわしくない童顔の持ち主こそが颯太だった。
 もっとも会話を交わすことはなかったのだが、ある日、カウンター席でとなりになり、そこで七瀬が出されたラーメンに酢を垂らすと、「あ、おれと一緒。ちょっと入れると美味いんだよな」と、颯太は馴れ馴れしく声を掛けてきた。
 これを皮切りに彼は自分のことをあれこれと語った。
 颯太は茨城の出身で、地元の暴走族で特攻隊長をしていて、少年院に二回入ったことがあると自慢げに言い、「で、今はこっちよ」と人差し指で頬を切った。それがおぼこい少年にあまりに似つかわしくなくて、七瀬は笑いを堪えきれず、吹き出してしまった。そしてこれに怒った颯太がまたおかしくて、七瀬は腹を抱えて笑い転げた。あまりに笑いが止まらず、ラーメンの麺が伸びてしまったほどだ。
 七瀬が新宿区役所の辻を右折しようとすると、颯太が眉間に皺を寄せ、「おい、あんまりそっちの通りに近づくな」と制止してきた。
「なんで」
「黒人だよ」
 七瀬が小首を傾げる。
「おまえは知らねえと思うけど、あいつら、誰彼見境なくコカインを売りつけてくんだよ。おまえみたいなガキにもな」
「へえ。怖」
 と、口にしたものの、東通りや桜通りをうろついてる黒人連中がコカインを売り捌いていることなど、颯太に言われるまでもなくみんな知っている。
 もっといえばそれが彼らの副業であることも知っている。彼らの本業はキャッチだ。もっとも案内される店は漏れなくぼったくりのフィリピンパブらしいのだが。
 ちなみに彼らのメインターゲットは日本人ではなく、外国人観光客だった。その手口はえげつなく、中にはドリンクスパイキングをはたらく者もいるという噂だ。ドリンクスパイキングとは客の飲み物に薬物を混ぜ、昏睡させた上で金品や所持品を奪う行為である。
「つーわけで気をつけろ。おまえみたいな世間知らずはあっという間にヤク漬けにされちまうぞ。最悪、どこかの国に連れ去られて売られちまうぞ」
 世間知らず――たしかにそうだろう。だからこそ歌舞伎町に染まるのが早かったのかもしれない。
「うちの組じゃ、あいつらをこのままのさばらしといていいのかって兄貴衆たちが鼻息を荒くしてるから、そのうち戦争になるかもな」
「別に放っておけばいいじゃん」
「馬鹿野郎。天下の歌舞伎町で外人どもに好き勝手させておいたら地元ヤクザの沽券に関わるだろう」
「じゃあやっつけたら」
「簡単に言うな。いきなりドンパチが始まっちまったらどうすんだ」
「別にいいじゃん。始まっても」
「これだからお子ちゃまは」と颯太が小馬鹿にしたようにかぶりを振る。「暴走族の抗争とはわけがちがうんだぞ。大人がコトを構えるには段階ってもんが――」
「ビビってるんだ」
「殺すぞ。おれはいつでもどこでもやってやるさ。けど、組織に属している以上、上からの命令がないと動け――」
 顔を赤くした颯太の話を右から左に聞き流し、適当なタイミングで「またね」と言って別れた。
 彼が離れていくのを確認してから、七瀬は東通りに足を踏み入れた。
 そこには肌の黒い男たちがたくさんいた。その中から顔見知りのガーナ人、コディを探す。
 いた。ビルの壁に背中をもたれて仲間たちと談笑している。彼は大柄な黒人たちの中でも頭一つ抜けているので見つけるのは容易だ。前に身長を訊ねたら二メートル四センチだと言っていた。
 コディも七瀬に気づいたようで、仲間の輪を離れ、こちらに歩み寄ってきた。
「ナナセ。キョウモカワイイデスネ。ゴキゲンイカガデスカ」
「ありがと。元気」
 七瀬は手短に答え、鞄から封筒を取り出し、コディに差し出した。封筒を受け取ったコディは周囲をサッと確認してから、指で開いて中を確認する。そして納得したように頷いたあと、手のひらの半分ほどのサイズのチャック付きビニールパックを三つ手渡してきた。
 中には白い粉が入っている。七瀬はそれをすぐさま鞄の中に押し込んだ。
「イッパイヤッタラキケン。チョットズツ、チョットズツ、ツカッテクダサイ」
「あたしはやらない。これはただのお遣い。前にも言ったでしょ」
「ソウデスカ。ナニヨリデス。コレカラモテヲダサナイヨウニ」
 意外な言葉を発したコディの顔をまじまじと見る。真っ黒な顔に真っ白な白目。きっと闇に溶けた彼の姿はこの白目しか確認できないのだろう。
「コディって変なこと言うんだね」
「ドウシテデスカ」
「だって、いっぱい売れた方がいいじゃん。そうでしょ?」
 そう訊ねると、コディは白目と同様の白い歯を覗かせてから「キヲツケテ」と言い、踵を返して仲間たちのもとに戻った。  
 次に向かう先はゴールデン街の中にある寂れたスナックだ。ただ、区役所通りを使うとまた颯太と出くわしそうだったので、ぐるっと迂回をして靖国通りの方から入ることにした。なにより靖国通りを使えば人が多く、警察官の目を逃れやすい。
 そうしてゴールデン街の中に足を踏み入れた。おそらく世界を見渡しても――世界など知らないが――ここほど飲食店がすし詰めになっているエリアはないと思う。聞いた話によると、わずか五十メートル四方のこの敷地に三百近い飲食店が詰まっているらしい。これで商売が成り立つのだからわけがわからない。
 目的のスナック『きらり』の扉の前に立った。ドアノブには『準備中』の札が垂れ下がっている。この店がオープンするのは零時を過ぎてからだ。
 古びた木製の扉を拳でコン、コンと叩く。その数秒後、扉の向こうから「山」としゃがれた声が発せられた。これに対し、七瀬は「海」と答えた。
 するとガチャと施錠が解除される音が聞こえ、扉が開いた。その先から顔を覗かせたのは彫刻刀で彫ったような皺が刻まれた老婆のサチだ。年齢は知らないが、おそらく八十歳は越えている。
 中は相変わらず猫の額のような狭さだった。カウンターテーブルがあり、そこに五つのスツールがあるのみ、ほかに座れるところはない。カウンターの内側に二階に繋がる階段があるが、その先にあるのはサチが寝泊まりする部屋だ。この老婆はあの急勾配の階段を平気で上り下りする。

 

(つづく)