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後編2 2024年4月16日


 ホストクラブ『Dream Drop』が契約しているサロンでヘアーセットをしてもらっている間、西川裕隆ひろたかはスマホ画面に忙しなく指を滑らせ、LINEを送りまくっていた。送信相手は全員女で、自分の客だ。
「後ろはこんな感じでどう?」と中年のスタイリストが鏡越しに言った。
 彼女が持つ二つ折りのバックミラーには複雑に編み込まれた金色の後髪が映し出されている。
 トレードマークだからという理由で髪型をあまり変えないホストもいるが、裕隆は毎日ちがうスタイルに挑戦していた。客を楽しませる目的もあるが、それよりも裕隆自身が新たな自分と出会いたいのだ。
「うん。悪くないじゃん」
 裕隆は角度を変えてチェックしながら答え、すぐにまたスマホに目を落とした。ホストにオフの時間はない。
 その後、LINEが一段落したところで、「ユタカくん、最近調子いいみたいじゃない」と再びスタイリストが話しかけてきた。
 ユタカというのは裕隆の源氏名である。ただ、これはホストになってからつけたものではなく、それ以前から裕隆は周囲に対し、自らのことをユタカと名乗っていた。裕隆という字面も、読み方もダサいから嫌いなのだ。
「ついにお店のNo.3になったんでしょう」
「まあね。でも所詮、三番だから。まだまだこっからだよ」
「すごい向上心。そのうちNo.1になれるかもね」
「なるよ、必ず。店の、じゃなくて、歌舞伎町のNo.1ホストにね」
 そう告げると、スタイリストが「ふふふ」と笑ったので、イラッとした。
 歌舞伎町にはホストクラブが三百店舗近くあって、そこにおよそ七千人のホストが在籍していた。その中でトップを取るというのはたしかに至難の業だろう。だが、けっして叶わぬ夢ではないと裕隆は思っている。
 ヘアースタイリングを終え、裕隆は財布を出さずにサロンをあとにした。請求は『Dream Drop』に回されることになっている。もっともそれは裕隆が売れっ子になったからであって、そうではない二流ホストは自腹を切らなくてはならない。
 肩で風を切り、夕方前の花道通りを闊歩した。これから同伴の予定が入っていて、待ち合わせ場所であるゴジラヘッド下に向かっているのだ。道すがら、ビルの窓ガラスなど、自分の姿が少しでも反射して映るものはすべてに目をやった。正面、左右、どの角度から見ても自分はイケている。
 待ち合わせ場所には十分前に到着した。学生時代、遅刻魔だった自分からは考えられない。裕隆はホストになったことで、時間厳守の男に生まれ変わったのだ。
 もっとも裕隆の学生時代とは小学校までだ。中学校はいじめが原因で一年生からほとんど通っておらず、高校は来るもの拒まずの私立のバカ校に入ったものの、一ヶ月足らずで自主退学した。そのあと親に無理やり入学させられた通信制高校もすぐに辞めた。
 それからというもの、裕隆はここ歌舞伎町で暮らしている。始まりは今から六年ほど前のことだ。
 歌舞伎町には裕隆のように、学校や社会に馴染めなかった若者がわんさかいた。所謂、トー横キッズと呼ばれる少年少女たちで、裕隆はその一員になったのだ。
 ビルの壁に背中をもたせ、トー横広場の方に目をやった。今日も今日とて十代のガキ共が群れて騒いでいた。そう、あいつらこそかつての自分だ。
 彼らがあそこにいることに理由などない。生きる意味も、目的も、何もない。彼らはほかにいる場所もないし、やることもないし、できることもないから、ただここにいるだけなのだ。
 彼らを見ていると、憐れだなと思う一方、ふつふつと怒りが込み上げてくる。それはかつての自分に対しての怒りだ。
 弱者たちの群れの中に己の居場所を見出し、いつしかリーダーを気取って、イイ気になっていた。意味もなく騒いで、オーバードーズでぶっ飛んで、落ちて眠るだけ――そんな毎日に幸福を覚えていた自分は絵に描いたような愚か者だった。
 腕時計に目を落とした。先月、買ったばかりのHUBLOTウブロのゴールドでダイヤがちりばめられている。定価は国産の高級車が買えるほどだ――本物は。
 これは中国産のスーパーコピーだった。ただし、驚くほど精巧にできていて、まだ誰にも偽物だとバレていない。ホスト仲間たちにも本物だと言い張って、知人の成金社長からお下がりを貰い受けたということにしている。本当は客に買わせたことにしたいのだが、周囲の者は裕隆にそんな太客がいないことを知っているため、その手は使えない。
 やがて待ち合わせ時間になり、客がやってきた。名前を和美かずみといい、年齢は裕隆より一歳年上の二十四歳で、ホストクラブの客にしてはめずらしく、真面目かつ地味な見た目の女だ。彼女は千葉の松戸に住んでいて、仕事は教材販売の会社で派遣事務をしていると聞いている。二ヶ月前に新規客として初めて――ホストクラブ自体、初めてだったそうだ――店にやってきて、そこで裕隆が彼女のハートをがっちり掴み、以来、週に二回くらいのペースで店に通っていた。同伴するのは今日で三回目だ。
「遅えよ。おれを待たせるとはいい度胸じゃねえか」
 裕隆は冗談めかして凄み、和美の額に軽くデコピンをした。
「ごめん。家を出るのに手間取っちゃってて」
「行こうぜ」
 連れ立って、西武新宿駅の方へ向かった。
「飯、何食いたい?」
「ユタカと一緒ならなんでも」
「そう言うと思った。おまえさ、遠慮すんのがイイ女だと思ったら大まちがいだからな」
「だって本当にそうなんだもん。逆にユタカは何食べたいの?」
「おれはパスタだな。昼食ってないから腹減ってんだ」
 本当は金を使いたくないからだ。寿司や焼肉は出費がでかいので、ここぞというタイミングでしか連れて行かないことにしている。
 ホストクラブは基本的に、同伴やアフターで掛かる費用はすべてホスト側が持つのだ。ここがホストクラブとキャバクラの大きなちがいである。 
 駅前通りの安価なイタリアンチェーン店に入り、窓際の席で向かい合ってパスタを食べていたところ、和美が聞き捨てならない発言をして、裕隆はフォークを動かす手を止めた。
「それ、どういう意味だよ」
 今日で店に行くのは最後、と和美は言ったのだ。
「もう、貯金が尽きちゃって……」
「ああ、前にそろそろヤバいかもって言ってたもんな」
「うん。本当にすっからかんになっちゃったから、だから今夜は最後の晩餐ってやつ」
「ふうん。そっか」
 裕隆は鼻から息を漏らした。それからテーブルの下でこっそりスマホを操作し、知人の男に今すぐこの場に来るようにLINEでメッセージを送った。
「っつーかさ、和美はおれと会えなくなってもいいんだ?」
「それは……もちろん嫌だけど。けど、仕方ないじゃん」
「カケでも店には通えるぜ」
「……でも、わたし、支払う能力ないし。もしもカケを払えなかったら、ユタカに迷惑掛けちゃう。それだけは絶対に避けたいから」
 カケとは売掛金のことで、所謂ツケのことである。
 裕隆は窓の外に目をやって、「そんなもんか。和美がおれを想う気持ちって」と突き放すような台詞を吐いた。
「あーあ。ショックだわ」フォークをパスタの皿に雑に放る。「食欲失せちまった」
「わたしだって、ユタカに会いたいんだよ。気持ちわかってよ」
「じゃあ会いに来いよ」
「だって――」
「だってじゃねえ。何がなんでも会いに来い。地べたを這いつくばってでもな」
 ここで強く出られないような男はホストとしてセンスがないし、向いていない。とくに和美のようなタイプの女に優しくスマートな接客をしてはならないのだ。この子はまだ大学生だから、ふつうのOLだから、そんな客の背景を考えるような男は夜の世界で絶対に売れない。
「なあ和美。おまえ、おれと出会って人生変わったって言ってなかったか? 毎日が楽しくなったって言ってただろう。またつまらねえ人生に戻っていいのかよ」
 裕隆が前のめりで告げると、和美は目を潤ませた。
 そして、
「……じゃあ、消費者金融でお金借りる」
「バカかおまえ。んなもんに手ェ出すんじゃねえよ」
「だって、わたしの手取りって二十万ちょっとしかないんだもん。その中から家賃とか生活費とかそういうのを払ったら、手元に残るのなんて――」
「知らねえよそんなの。けど、消費者金融はやめとけ。そのうち必ず闇金に手ェ出すようになっから。そうなったら人生終わっちまうぞ。おれはそういう女をごまんと見てきたんだ」
 裕隆が身振り手振りで熱く言い聞かせていると、「あ、ユタカさん。こんちはっス」と迷彩柄のパーカーを着た若い男が声を掛けてきた。
「おお、トオルじゃねえか。久しぶりだな。何してんだ、こんなところで」
 もちろん偶然ではなく、今し方LINEでこの場に来いとメッセージを送った相手がトオルだ。
「何って、一人で飯食いに来ただけっスよ――すんません、デート中にお邪魔しちゃって」
 トオルは和美の方に丁寧に頭を下げてから去り、近くのカウンター席に座った。
「あいつはおれの可愛がってる後輩の一人なんだ」と、裕隆はトオルに向けて顎をしゃくる。「で、なんだっけ。そうそう、街金だ。いいか、おまえよくよく考えろよ。借りた金っつーのはいつか必ず――」
 裕隆は再び説教を始め、キリのいいところで腕時計に目を落とした。
「クソ、そろそろ出勤の時間だ」
「……ごめん。こんな話に時間使わせちゃって」
「まったくだよ。楽しく飯食いたかったのに」
「ほんと、ごめん。でも、ちょっぴりうれしかった。ユタカがわたしのためにこんなに真剣に怒ってくれて」
「たりめーだろ。おれにとっておまえは大事な女なんだから」
 本当は「大事な客」だが、そうとは口にしない。裕隆は基本的に色恋営業――ホストと客が擬似的な恋愛関係を持つこと――スタイルでやっている。
「けど和美、おまえ、今日は店来んなよ」
 裕隆が冷たくそう言い放つと、和美は伏せていた顔を上げ、「どうして」と眉を八の字にした。
「このまま店で遊んだって、幸せな気分になれねえだろう。とてもじゃないが最後の晩餐になんかならねえぞ。おれはそんなおまえから金を取りたくねえ――おいトオル」
 裕隆はカウンターでパスタを食べている後輩の背中に声を掛け、「ちょっとこっちに来てくれ」と手招きした。
 トオルはコップで口の中の物を流し込んでから早足でやって来た。
「こいつの名前は和美。おれの大事な女なんだ。今ちょっと悩んでることがあってさ、よかったら相談に乗ってやってくれ。おれは今から出勤なんだ」
「はい。わかりました」
「すまんな、忙しいところ」
「いえ、ユタカさんの頼みなら全然です」
「和美、そういうことだ。ちょっとトオルに相談してみろ。こいつは歌舞伎町が長いし、いろいろ詳しいから、いいアドバイスをくれると思うぜ。じゃあな。あとでLINEしろよ。絶対だぞ」
 裕隆は和美が頷くのをしっかり確認してから店を出た。
 路上に出たところで、薄暗くなってきた空に向かってセカンドバッグを軽く放り、「一丁上がり」とつぶやいた。
 トオルの職業はスカウトだった。和美のような女を口説き落とし、キャバクラ、おっパブ、デリヘル、ソープのいずれかに沈めるのが主な仕事だ。和美の容姿だと、キャバクラじゃ使い物にならないだろうから、おそらくは段階を踏まず、直でソープ行きになるだろう。
 たとえ和美が消費者金融で金を借りたとしても、そんなのは一時のあぶくぜにで返済に難儀することは目に見えている。そうなれば徐々に店を訪れる回数が減り、いつしか歌舞伎町からも消えることになる。
 そんな先細りの助言など裕隆はしない。それならば和美の収入をアップさせた方がこちらにとってよほど都合がいいのだ。昼の仕事を辞めさせ、ソープ一本でやらせれば器量のよくない和美でも月に百万は稼げるだろう。そしてそのほとんどは裕隆のためだけに使われるのだ。
 世の男たちは一瞬の快楽のために風俗嬢に金を落とし、風俗嬢たちは幻想の愛を求めてホストに万札を垂れ流し、そして彼女たちに寄生するようにスカウトたちはこぼれ汁を啜る。
 ピラミッドで表すと、上から順にホスト→スカウト→風俗嬢→一般男性となり、これが歌舞伎町の食物連鎖である。
 裕隆は長らくこの街で暮らしていて、その摂理を自然と悟り、そしてホストになることを決めたのだ。
 人生ってマジ最高だな――裕隆はしみじみと思い、ネオンの灯り出した街並みに目を細めた。
 そんな裕隆の前を大型トレーラーが派手なBGMを撒き散らして横切っていく。ボディには歌舞伎町を代表するホストたちの顔写真がでかでかと描かれていた。
 ぺッ。路上に唾を吐いた。
 いつか必ずおれもあそこに載ってやる――。

 

(つづく)