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後編

1 2024年4月12日

「あい、お待ち!」
 と威勢のいい声を発して、湯気立ったラーメンを二つ、ドンと音を立ててカウンターに置いた。
 二人連れの酔いどれ客はそれぞれにラーメンを引き寄せ、一人は割り箸を手にし、もう一人はレンゲを手に取ってスープをすすった。
「やっぱシメにはこれだよなあ」と、赤ら顔の中の目を細めて言う。
 その言葉を聞けて、店主の平岡颯太は満足だった。一日の疲れが吹き飛びはしないまでも、小さなエネルギーチャージにはなる。
 颯太が歌舞伎町でラーメン屋を始めたのは今からちょうど三年前、二〇二一年の春のことだ。始めたといっても自ら開業したわけではなく、前任者から店を引き継いだ形だった。つまり颯太は二代目である。
 初代の大将がその前年から世界中で猛威をふるった新型コロナウイルスに感染しぽっくりと亡くなってしまい、店の常連客だった颯太が通夜に顔を出したところ、遺族から二代目の話を持ちかけられたというのが経緯だった。颯太は大将の生前、「大将が死んじまったらおれっちが後を継いでやるよ」などと冗談めかして口にしていたことがあり、それを大将は「後継ができた」と、家族にうれしそうに語っていたのだという。要するに、ただの軽口を真剣に取られてしまったのである。
 まさに降って湧いたような話であったが、颯太はこの申し出を二つ返事で承諾した。神仏ごととはまるで縁遠い自分であるが、なぜかこのときは神が導いてくれたような、そんな運命めいたものを感じたのだ。
 もっとも、最初は苦労の連続だった。それまでの颯太は料理はおろか、インスタントラーメンすらまともに作ったことがなかったのである。
 大将の残したレシピ通りに作っているのに、常連客たちからは「味が落ちた」「不味い」と苦言を呈され、颯太は悔し涙を流す毎日だった。
 それでも心が折れなかったのは、自分の作ったラーメンをどうしても食べさせたい人がいたからだ。
「にしても、まさか総理が殺されちまうだなんてなあ」
 客の一人が箸を止め、嘆くように言った。
「ああ。こんなのジョン・F・ケネディ以来だろう」
 と、相方の男が応じる。
 やれやれ、またこの話か、と颯太は手を動かしながら苦笑した。
 今、日本中がこの話題で持ちきりなのだから、仕方ないこととはいえ、毎日毎日こうして同じ話を聞かされている――勝手に盗み聞きしているだけなのだが――と、うんざりする。《総理暗殺の話題は禁止》と店の中に貼り紙をしたいくらいである。
 元東京都知事であり、現内閣総理大臣であった池村大蔵が殺されたのは先週末のことだ。場所は西新宿にある都庁前で、池村総理は街頭演説中に何者かにライフルで頭を撃ち抜かれ、即死したのである。
 この白昼の惨劇は日本中に、いや、全世界に衝撃を与えた。なにせ現職の内閣総理大臣が多くのメディア、国民の目の前で殺害されたのである。
「いったいどこのどいつが犯人なんだろうな」
「やっぱり過激派とか、そっちの方の奴らなんじゃねえか」
「おれは外国人テロリストの仕業じゃねえかと思うけどな。中国とかロシアとかのさ。もしくは北朝鮮の秘密工作員」
「工作員ねえ。まあ、なんにしても、実行犯は殺しのプロにはちがいねえだろうな」
「そりゃそうだ。スナイパーライフルなんて素人が扱えるシロモノじゃねえだろう」
 そう、犯人は未だ捕まっていないのである。専門家の話では、池村総理は五百メートル以上離れた場所から狙撃されたとのことだ。
「おれ思うんだけどよ、そのうちきっと犯人は死体で見つかるぜ。水死体とか、首吊り死体とかでさ。ただ、そいつは本物の犯人じゃねえんだ」
「スケートゴープってやつか」
「スケープゴートな」
「ああ、そっちの方ね」
「そっちしかねえんだよ」
「けど、そんな映画みてえな陰謀があるもんかねえ」
「あるだろう。だっておまえ、知ってるか? オズワルドだって、実際はやってねえって話じゃねえか」
「誰だ、そのオズワルドってのは」
「ダメだこりゃ。話にならねえ」
 こんなふうに国民たちは、全国津々浦々でこの事件をああだこうだと議論しているのだろう。
 あまり大きな声じゃ言えないが、颯太は興味がなかった。政治のことなんてちんぷんかんぷんだし、池村大蔵のことだって、嫌みなツラをしたおっさんくらいにしか思っていなかった。だから彼の政治的主張も、行っていた政策もまったく知らない。
 ただ、もし仮に、この不景気の責任の一端が総理にあったのだとしたら、この死は天罰だったのだと思う。
 多くの国民は賃金が上がらないことを嘆いているし、その煽りをラーメン屋も受けている。一杯七百五十円のラーメンが贅沢品になってしまう世の中は、誰がどう考えてもまちがっている。
 それからやや時が経ち、壁掛けの時計の長針と短針が仲良く真上を向いて重なったとき、出入り口の扉がガラガラと音を立てて開いた。
「へい、いらっしゃ――」 
 颯太は言葉を途切らせてしまった。
 暖簾を潜って現れたのが、息を呑むほど美しい女だったからだ。年齢は二十歳過ぎくらいだろうか、身なりは夜の女のそれで、ただ一目で只者じゃないとわかる風貌だった。
 客たちも全員が箸を止めて、突然現れた美女に目が釘付けになった。
 女はそんな男たちの視線をよそに、カウンターの端にサッと腰を掛け、「ラーメンと餃子」と慣れた口調で注文をした。初めて見る顔なのに、まるで常連客のような口ぶりだった。 
「あ、あいよ」
 と、颯太は我に返って言い、作業に取り掛かった。
 鉄板に油を塗り、火を点ける。鉄板が温まったところで、作り置きしている餃子を五つ縦に並べて置き、湯をバシャと浴びせた。ジュワーと音を立てて水が弾け、それを封じ込めるように蓋を被せた。
 つづいて自家製の手揉み麺をてぼと呼ばれるざるに放り込み、タイマーをセットした。麺が茹で上がるまでにスープ作りに取り掛かる。
 慣れた作業だったが、颯太はそわそわして落ち着かなかった。女がカウンターに頬杖を突き、観察するような目で、颯太の一挙手一投足を見つめているからだ。
「どこの店の女だろうな」
「さあ。たまんねえな」
 と、爪楊枝を咥えた男たちが女の方をチラチラと見て、ささやき合っている。すでに食べ終えているのに、中々席を立とうとしないのがおかしい。
 そんな彼らもやがてお代を置いて、名残惜しそうに店を出て行くと、店内には女だけが残った。
 颯太は餃子にほんのりと焼き色が付いたのを確認してから、それをフライ返しに載せて皿に移し、「お先に餃子どうぞ」と女に差し出した。
 女は割り箸を割り、餃子をつまんでかじりついた。
「うん。美味しい」とつぶやく。
 それは独り言のようであったので、颯太は鶏のように顎をひょいと突き出すだけの反応にとどめておいた。
「瓶ビール、もらおうかしら」
「あいよ」
 颯太は冷蔵庫から瓶ビールを取り出し、女の目の前で栓を抜いて差し出した。
 すると女が手の中のグラスを揺らし、「注いでくれないの?」と、口元に微笑を浮かべて言った。
「え、ああ」
 颯太は瓶ビールを両手で持ち、女がやや傾けたグラスにゆっくりとビールを注いだ。
「指、ないんだね」
 女が颯太の手を見つめ、ふいに言った。
 欠けた小指が目に入ったのだろう。颯太の左手の小指は欠損しているのだ。
 ただ、こんなふうに他人にストレートに指摘されたのは初めてのことだったので、颯太はどう返答していいものかわからず、結果、ビールを溢れさせるという失態をした。
「す、すんません」
 慌てて布巾でカウンターを拭く。
 女はそんな颯太を見て、おかしそうに肩を揺すっている。なんだかからかわれているような気分だった。
「で、どうしたの、その指」
「昔ちょっと」と、言葉を濁す。
「ふうん」
 と、女は意味深に目を細める。
 この小指は五年前、任侠の世界から足を洗うと決めたときに自ら詰めた。詰めろ、と組から命令されたわけではなかったし、そもそも正式に盃を交わしていないような小僧の身分であったのだが、自分の中でどうしてもケジメをつけたかった。
 ただ、今でも後悔しているのが、根元からごっそり切り落としてしまったことだ。ふつうは第一関節から先を落とすもの、という極道の常識を颯太は知らなかった。そんなことすら知らないほど、当時の自分はひよっこだったのだ。
 ここでタイマーが鳴った。颯太はてぼを手に取り、頭上に持ち上げて、床に向けて思い切り振り落とした。そうして湯切りをして、麺を器に移し、盛り付けを行った。
「お兄さん、元ヤクザ?」女がビールで唇を湿らせて言った。
「まあ、そうっスね」颯太は手を動かしながら素っ気なく答える。
「どうしてやめたの」
「どうして……」
「訊かれたくない?」
「いや、別に」
「じゃあ教えてよ」
 なんだこの女、と思った。
「向いてなかったから。ただそれだけ」
 あっちもタメ口なのだから、こっちも敬語を使うのはやめた。それに、この女は明らかに自分よりも歳下だろう。
「どうぞ」
 ラーメンを差し出した。
 すると女は麺をすするでも、スープを飲むでもなく、真っ先に酢を手に取り、ぐるっと一周させて丼に垂らした。
 颯太は女の顔をまじまじと見た。
「ラーメンにお酢がそんなにめずらしい?」
「いや、ちょっと懐かしくて」
「懐かしいって、何?」
 颯太は鼻の頭を指でぽりぽりと掻いたあと、「いや、なんでも」とはぐらかした。
 それから女はズズッと大きな音を立ててラーメンをすすった。見た目に似つかわしくない豪快な食べっぷりだ。
「お味はいかがっスか」
 颯太が訊ねると、女は器に目を落としたまま、一言「感動」と言った。
「感動?」
「うん。昔とおんなじ味だったから」
「昔って、お客さん、前にうちに来たことあんの」
「あるよ、何度も」
「マジ?」
「うん。前の大将のときね」
「ってことは、お客さん、歌舞伎町は久しぶり?」
「そ。五年ぶりくらいかな」
 五年前となると、この女は十代の小娘だったはずだ。人のことを言えた義理じゃないが、そんなに若くして歌舞伎町を彷徨うろついていたのだとしたら、この女は不良娘だったのだろう。
 それから女は無言でラーメンをすすりつづけ、あっという間に平らげた。すでに餃子も皿から綺麗に消えている。そこらの男よりよっぽど早食いだ。
「ごちそうさま。この店、今も煙草吸える?」
「ああ、吸えるよ」
 颯太は灰皿を差し出した。
 女がポーチから煙草の箱を取り出す。その銘柄がハイライトだったので驚いた。
 偶然とはいえ、これもまた、あいつと同じだ。
 女はマッチを擦って、煙草に火を点けた。
「歌舞伎町もずいぶん変わったね」
 女が紫煙を燻らせて言った。
「そうかい? 毎日いるとあんまり変化がわかんねえけど」
「五年前は歌舞伎町タワーなんてなかったもん」
「まあ、たしかに――あのさ、一本、貰ってもいい?」
 颯太が言うと、女がハイライトの箱を差し出してきた。そこから煙草を一本抜き取り、チャッカマンで火を点けた。
 一口吸い込んでむせた。久しぶりのニコチンに肺がびっくりしたのだ。
 咳が収まったところで、
「煙草って、こんな感じだったかな。めちゃくちゃきついわ」
「禁煙中だったの?」
「うん。それこそ五年ぶり」
 そもそもどうして煙草など求めたのだろうか。この五年間、一度も吸いたいなどと思わなかったのに。
 颯太は自分の取った行動が不可解だった。

 

(つづく)