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5(承前)

「くれぐれも失礼のないようにね」と、歩きながら藤原が耳打ちしてくる。
 愛想笑いで返事をしつつマスクをつけた。このツラを世に晒したくない。
 藤原が池村の側近に声を掛け、その側近が池村に声を掛けた。
 すると池村が七瀬の目の前にやってきた。なるほど、近くで拝めばより一層、この男は香ばしい。
「あなたが酒井さかい七瀬さんですか。お噂はかねがね聞いておりますよ」
 酒井――そうか、たしかに自分はそんな姓をしていた。 
 スッと手を差し出され、やむをえず握手をする。その瞬間、シャッターがいっせいに切られた。
 フラッシュを浴びた瞬間、七瀬は反射的に振り払うようにして手を放してしまった。一瞬、池村は眉をひそめたものの、すぐにもとの笑みをたたえ、「酒井さんはご自身もトー横キッズでありながら、どうしてPYPの活動に参加しようと思い立たれたのでしょう」と優しげな口調で質問をしてきた。
「わたしもPYPのみなさんのように、誰かの役に立ちたいなって。そうすることができたら、わたしも生きている意味があるんじゃないかって、そんなふうに思ったんです」
 模範解答はこんなところだろう。ただ、言葉にすると反吐が出る。
 池村がジッと七瀬の目を覗き込んできた。この小娘、大嘘を吐かしやがって――彼の目はそう訴えていた。どうやら同類を見抜く力があるらしい。
「施しを受ける側から、与える側にですか。実に素晴らしいことだ。あなたはいつか必ず立派な社会人になる。わたしが太鼓判を押しますよ」
 鼻で笑ってしまいそうになった。人のことを言えた義理じゃないが、この男も大概だ。
「七瀬ちゃん、すごいじゃない。都知事のお墨付きをもらえるなんて」
 傍らにいる藤原が興奮気味に口を挟んだ。
「ときに酒井さん、わたしはトー横キッズはモラトリアムの真っ只中と位置付けているんだが、どうだろうか」
「モラトリアム?」 
「つまり、あなた方は大人になるための準備をしているということ。同世代の仲間たちと孤独や苦しみを分かち合うことで、心を育み、それぞれに成長している段階なのではと、そういう意味です」
 意味は理解したが、「さあ」と小首を傾げた。
「都知事、そうおっしゃられても当人たちに自覚はありませんよ」藤原が横やりを入れるように言い、「そりゃそうか」と池村が頭を掻いた。「いやはや、かたじけない」
 この茶番に周りがドッと沸いた。大人というのは実にくだらない。これが大人になるということなら死んでもなりたくない。
 その後もいくつかの質問を受け、七瀬は無難に返答した。「都知事、そろそろ」側近が池村に耳打ちしたところで、対面は終了となった。わずか数分だったが、結構な疲労感だった。
 とりあえず一服したい。ニコチン切れだ。
「おつかれさま。よかったわよ」藤原は七瀬の肩をポンと叩いてきた。「ただ、握手のときは少し感じが悪かった。都知事、もしかしたら気分を害したかもしれない。ボランティアとはいえ、うちのジャンパーを着ている以上、常に人目を気にして、誰に対しても感じよく振る舞ってちょうだい。とくにお偉いさんには」
 矢継ぎ早に言われ、「はい。気をつけます」と、しおらしく頭を下げておいた。
「よろしくね」
 藤原が去ると、入れ替わる形で辻がやってきた。
「ありがとう。助かったよ」
「どういたしまして。辻さん、約束守ってくださいね」
「う、うん。食事に連れて行けばいいんだろう」
「デートですよ、デート」
「……了解」
「さっそくこのあと行きましょっか」
「いや、今日は無理だよ。このあとだっていろいろとやることが――」
「じゃあ明日」
「明日もPYPの会議があって――」
「じゃあそのあと」
「……」
「約束ですからね」
 七瀬はそう言い残し、ゴジラヘッドの方へ歩き出した。人混みをすり抜け、群衆から離れたところで煙草を咥え、百円ライターで火を点けた。
 深々と吸い込み、夜空に向かって思いきり息を吐き出す。
 外気が冷えているので、それこそゴジラの吐く熱線のような濃密な白煙が出た。

 翌日の夕方過ぎ、七瀬は池袋北口の繁華街に立っていた。初めて訪れたが、この街もまたやたらと人が多い。ただし、約半数はチャイニーズのようだ。同じアジア人でも見分けがつくのだから不思議だ。 
 スマホを取り出し、時刻を確認する。あと数分で待ち合わせの時間になるが、辻篤郎はまだ到着していない。あのカモはちゃんと来るだろうか。まさかすっぽかされることはないだろうが。
 当初、歌舞伎町で密会するつもりだったのだが、辻が嫌がった。そこで矢島に相談を持ち掛けたところ、この場所がいいと助言を受けた。その理由はラブホテルが多いのと、タガが外れやすいからだと彼は言った。訪れてみてなるほど、わからなくもない。歌舞伎町とは雰囲気が異なるが、このエリアもまた、どこか扇情的な空気が流れている。
 ここで手の中のスマホが震えた。相手は愛莉衣だった。
〈彼、いったいどうしちゃったんだろう〉
 彼女は不安そうな声で謎の第一声を発した。詳しく聞けば、愛莉衣のお目当てのホストに朝からLINEで何度もメッセージを送っているのに、一向に既読がつかないのだという。
〈ふだんはマメに返してくれるのにさ〉
「さあ。誕生日だから忙しいんじゃん?」
 今日はそのホストの誕生日で、愛莉衣は彼に腕時計をプレゼントすることになっているのだ。
〈なのかなあ。だったらいいんだけど。とりあえず今からお店に行ってくるね。あ、このあとなあちゃんに写真送ってあげる〉
「写真?」
〈うん。今、美容室に行ってきたんだ。うちの頭マジヤバイよ。めっちゃ盛れてるから。ねえ、見たいでしょ〉
「見たい、見たい」力なく言い、「あたし今、人と待ち合わせてるんだよね。もうすぐ来ちゃうから」と、電話を切ろうとした。
〈誰と?〉
「辻さん」
〈え、ヤバ〉
「まあ、そういうわけだから」
 電話を切った。
 ほどなくして愛莉衣から鶏のトサカのような髪型をした自撮り画像が送られてきた。思わず吹き出してしまった。メイクが濃すぎて誰だかわからない。ただ、とても一生懸命なのは伝わってきた。愛莉衣にとって今日は大切な日なのだ。
 逆に七瀬は今日はメイクに気合いを極力控え目にした。愛莉衣とは逆で、より幼く見えるようにだ。もちろん、ロリコンの辻のためだ。
 七瀬がスマホに目を落としていると、「お待たせ」と知った声が降り掛かった。
 トレードマークの丸渕眼鏡がなければ誰だかわからなかったかもしれない。辻はニット帽を深々と被り、マスクをしていた。服装はグレーのパーカーの上に黒いダウンジャケットを羽織り、デニムに足元はスニーカー。絶対に七瀬と一緒にいるところを見られたくない。そんな意思が見てとれた。
「わざわざ着替えてきたんですか」
 彼は小ぶりなキャリーケースを転がしていた。きっとこの中にスーツや革靴が入っているのだ。
「うん。なんとなくそうしようかなって」
「とっても似合ってますよ。じゃ、行きましょうか」
 七瀬がサッと腕を組むと、彼は「わ」と声を発し、拒否する素振りを見せた。ただそれほど強い抵抗ではなかった。
 そのまま歩き出す。
「七瀬ちゃんは何が食べたいの」
 辻が引くキャリーケースがガラガラと音を立てている。
「辻さんと一緒ならなんでも。あ、でも個室があるとこがいいかな。辻さんと二人きりになりたいし」
 彼は最後の台詞は聞こえなかったかのように、「個室があるお店だと、居酒屋とかそういうところになっちゃうと思うけど」と、眼鏡の奥の目を瞬かせて言った。
「いいじゃないですか、居酒屋で」
「だって七瀬ちゃんはまだ……」
「もちろんわたしはお酒は飲みません。ね、そうしましょ」
 七瀬は一旦腕を解き、スマホを使って検索を掛けた。条件に合うところがいくつかヒットし、その中から適当な店を選んでナビに設定した。
「予約取らないで入れるかな」
 歩きながら辻がボヤいた。再び二人は腕を組んでいるが、今度はまったく拒否されなかった。むしろ七瀬が腕を入れやすいように、彼は肘を曲げてスペースを作ったくらいだ。
「平日ですし、きっと大丈夫ですよ。ところで辻さんってお酒飲むんですか」
「うん。人並みに。あんまり強くないんだけど」
「じゃあ辻さんは遠慮なく飲んでくださいね」
 そうして文化通り沿いにある居酒屋に入店した。適当に選んだのだが、ここが実におあつらえ向きな店だった。案内された半個室の座席がカップルシートだったのだ。
 辻は困惑していたが、七瀬が有無を言わさず彼を奥に押し込んだ。
「初デートに乾杯」
 ギュッと身体を密着させ、グラスをぶつけた。辻は生ビールで、七瀬はカルピスだ。
 彼は序盤こそ緊張していたものの、杯を重ねるごとに徐々にリラックスしていき、次第に自分がいかに優秀な人物なのかをアピールし始めた。どうやら簿記一級というものと、税理士の資格を持っていることが彼の最大の誇りのようだ。そうした保有資格と経歴がPYPの目に留まり、副代表と経理を兼任することになったのだと、彼は鼻の穴を広げて語っている。
 七瀬は男という生き物はみな同じだなと内心で苦笑しつつ、「へえ」「そうなんですか」「すごーい」この三つの単語を駆使して相槌を打ちつづけた。時折、目を潤ませて見つめることも忘れなかった。    
「ぼくがどれだけ尻拭いをしてあげているか、彼女ときたらまったくわかっていないんだ」
 終盤、辻は据わった目でブツブツと小言を漏らし始めた。彼女とは藤原悦子のことだ。
 彼が日頃から藤原に対しストレスを溜めているのをそばで見ていた七瀬は十分知っていた。藤原は二言目には「辻。やっといて」と顎で使うように言い、その度に彼は顔を歪ませている。この男は小心者だがプライドは高いのだ。
「わたし、実は藤原さんのこと、少し苦手なんです」
 七瀬は話を合わせるようにしてささやいた。
「どういうところが?」
「なんていうか、ちょっと傲慢っていうか、そういうふうに見えるときがあって、なんか苦手だなって。ほら、藤原さんは辻さんに対してあれこれ命令するじゃないですか。そのときの言い方とかもちょっとどうなんだろうって」
「七瀬ちゃんはすごいね。若いのによく人を見てる」辻が苦笑して肩を揺すった。「ここだけの話ね、彼女は金銭感覚がだいぶ狂っているんだよね。だから放っておいたらPYPなんてすぐに破産するよ」
「そうなんですか」
「うん。火を見るよりも明らかさ。だからぼくのような人間が――」
 やはり実質的にPYPの財布を握っているのはこの男のようだ。仮にPYPに表沙汰にできない金の動きがあるのだとしたら、当然、辻はそれを把握していることだろう。
 もっとも、そんなのは七瀬にはどうでもいいことだ。辻からパソコンとスマホを盗み出す――自分のミッションはこれだけだ。

 

(つづく)