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この日は朝から師走の到来を思わせる冷たい風がヒュー、ヒューと吹いていた。日中は陽があったので長時間おもてにいても耐えられたのだが、こうして日没を迎えると手足がかじかみ、自然と背中が丸まった。
あと四日で十二月を迎える。
「んー。いい匂い」
七瀬と同じピンク色のジャンパーを着た愛莉衣――彼女は先週からPYPの活動に参加するようになった――が大鍋の中を覗き込み、満足そうに目を細めた。この臼のような巨大な鍋の中では大量のカレーが煮込まれている。これと同じものがこのテントの下に五つもある。
「ねえ、うちらヤバくない? 料理の才能あるよね」
「野菜の皮剥いただけじゃん」七瀬が鍋から放たれる湯気に手を当てて言った。「包丁すら握ってないのに」
七瀬と愛莉衣に与えられた仕事はジャガイモ、ニンジンの皮剥きで、この作業を先ほどまで二人でひたすら行っていた。掛かった時間は二時間を超えている。なぜこんなに時間を要したのかというと、カレーを約三百人分も用意せねばならなかったからだ。
もちろんふだんはこんなに作らない。作ってもせいぜい五十人分とかそこらだ。
今日は特別だった。PYPの活動を東京都知事である池村大蔵が視察に訪れるからである。それに合わせて関係者、メディアも多く集まることが予測されるため、それを見越して食事を用意しなくてはならなかったのだ。
「都知事をはじめ、関係各位、メディアの方々、ここを訪れたすべての人にトー横キッズと同じカレーを食べてもらうの。これがいかに大切なことか、みなまで言わなくてもわかるわね。配って回るくらいのつもりでいてちょうだい」
代表を務める藤原悦子は始動の挨拶の際、ビール瓶ケースの上に仁王立ちし、鼻の穴を膨らませてスタッフたちに言い聞かせていた。
「なあちゃんは池村都知事って人のこと知ってる? あたし、顔すらわかんないんだけど」
「口先だけのペテン師でしょ」
七瀬も知らないがそう答えた。
「そうなの?」
「うん。おでこに偽物のフダが貼られてるらしいよ」
「なにそれ」
そんなしょうもない会話を交わしていると、辻篤郎がやってきた。彼はコンビニの袋を両手に提げている。
「好きなのを一本どうぞ」袋の中にはペットボトルの飲料がたくさん入っていた。どれもホットだ。
「わー。うれしい。ありがとうございます」
七瀬が愛想良く言い、ココアのペットボトルを抜き取った。愛莉衣はお茶を選ぶ。
辻が離れたところで、「なんかさ、なあちゃんと辻さんって仲良いよね」と愛莉衣が頬を膨らませて言った。
「そう?」
「うん。ちょっと嫉妬」
「なんでよ」
「だってなあちゃん、うちの前であんな笑顔見せてくれないし。声もちょっと高くなってるし」
「まあ、ぶっちゃけタイプなんだよね」
「え、辻さんのことが? ウソでしょう? マジ?」
「うん。マジ」
辻の牙城はまだ崩せていなかった。矢島から与えられたタイムリミットはあと四日しかない。もっとも、それをさほど気にしているわけでもないのだが。
「なあちゃんっておじさん好きだったんだね。初めて知った」愛莉衣は本当になんでも信じる女だ。「けどさ、だとしたら脈ありまくりだと思うよ。だって辻さん、なあちゃんのこと絶対好きだもん」
愛莉衣に言われるまでもなく、そんなことは十分わかっている。最近ではボディタッチがやたら増えてきた。となり同士で作業しているとき、辻は痴漢のごとく、それとなく身体をくっつけてくる。
ただ、どうしても二人きりで会うことは断られてしまう。自分の立場を考えてのことだろうが、そろそろこっちもダルくなってきている。いっそのこと、ホテルなんかに誘わず、強奪してやろうかと思うほどだ。
ちなみに辻のスマートフォン及びパソコンのパスワードはすでに記憶している。使用しているときに盗み見したのだ。それほど七瀬と辻は常にそばにいる。
やがて、メディアの人間がぞろぞろと姿を現した。何事かと道行く人も足を止め、群がってくる。
あっという間にトー横広場は黒山の人だかりとなった。
顔を上気させた藤原がテント下にやってきた。「集合」と手を叩いて叫び、スタッフを集める。
「ちょっと作戦変更。この調子じゃカレーが足らなくなるかもしれない。スーツを着ている人とか、メディアのパスを首から下げている人を優先して。通行人なんかに先に配って、偉い人の手に行き渡らないなんて失態はありえないからね。じゃあみんな持ち場に戻って」
藤原が捲し立てるように言い、足早に去っていく。
「なんか、感じワル」と愛莉衣がつぶやく。
あれがあの女の本性なのだろう。トー横キッズのことなど、本心ではどうでもいいのだ。
藤原は今、ちょっとした有名人になっていた。PYPの代表として多くのメディアに取り上げられているからだ。彼女はいつだってマスコミに擦り寄り、カメラの前に立とうとする。
七瀬は遠くに目をやった。そこではユタカたちのグループがマスコミに囲まれていた。きっとトー横キッズとなった経緯や、現代の若者が抱える悩みなどを訊かれているのだろう。
「あの人たちのとこにもうちらの作ったカレーがいっちゃうんだよね」愛莉衣がポツリと言った。
ユタカたちのことだ。
「そりゃいくでしょ。トー横キッズのための炊き出しなんだから」
「そうだけど。なんかムカつく。なあちゃんもそう思うでしょ」
「別に」
「なあちゃんは心が広いね。うちはイヤ。無理」
「あたしはあいつらのことがどうでもいいだけ」
愛莉衣は今、仲間たち――主にユタカたちのグループ――からハブられていた。そして七瀬もまた、愛莉衣と口を利くという理由から同様の扱いを受けていた。
「うち、こうなってみて、あの人たちの本性がよくわかった」
「よかったじゃん」
愛莉衣が頷き、七瀬の手を取る。
「なあちゃんのありがたみもよくわかった。やっぱりうちの友達はなあちゃんだけ。一生、うちの友達でいてね」
その発言をスルーし、「金はあきらめるの?」と訊ねた。彼女が仲間に貸していた金はごく一部しか返ってきていないらしい。
「それなんだけど、どうしようかなってずっと考えてたんだ。もう彼の誕生日プレゼントは買うことができたし、今はそこまでお金に困ってるわけでもないし。だったらこのまま泣き寝入りしちゃおうかなって」
「うん」
「けど、それってやっぱり悔しいなって。だってうちが身体張って稼いだお金じゃん」
「うん」
「だからちゃんと返してもらうことにする。もう関係を修復する気もないけど、お金だけは何がなんでも取り返す。だから姿を見かけたらとことん付き纏うつもり」
「執念だね」
「そ。執念。意地。プライド」
愛莉衣は自分に言い聞かせるように言い、深く頷いた。
それからほどなくして、カレーの炊き出しがスタートした。七瀬は紙皿に盛ったカレーをトレーに載せ、人いきれの中を動き回った。そうしているとあっという間にトレーが空になった。みんな好き勝手に手を伸ばしてカレーを奪っていくのだ。七瀬はその度にテントに戻り、カレーを載せ、再び群集に飛び込んだ。
そんなことを繰り返していると、辺りが一際騒々しくなった。「おい、池村都知事だぞ」誰かが言った。
首を伸ばし、人と人の間から先を見る。そこには屈強なSPに囲まれた中年男がいた。
あのおっさんが東京都知事、池村大蔵――。
年齢は五十代半ばといったところだろうか。痩せぎすのキツネといった印象だ。
そしてサチの目はやっぱり正しいんだなと思った。
池村都知事の額に偽物の札は確認できなかったが、そのオーラは十分に放っていた。胡散臭さがここまで漂ってくるようだ。
今、池村都知事は目尻を下げ、地べたに座り込んでカレーを食べるトー横キッズたちに話し掛けている。距離は離れているがはっきり見えるのは照明が焚かれているからだ。その様子を多くのカメラが捉えていた。
「七瀬ちゃん、ちょっといい」
後ろから肩をトントンとやって話し掛けてきたのは辻篤郎だった。
「七瀬ちゃんが取材とかNGなのは聞いてるんだけど、あとでほんの少しだけ、池村都知事とお話ししてもらえないかな」
「あたしが?」眉をひそめた。
「トー横キッズがPYPのボランティア活動に参加しているっていう話を都知事が小耳に挟んだみたいなんだ。それで少しお話ししたいんだって」
「でも、それって当然カメラ向けられますよね? ごめんなさい。わたし、本当にそういうの苦手なんです」
そう断ったのだが、「そこをなんとかならないかな」と辻は食い下がってきた。
「じゃあ愛莉衣にお願いしてみたらどうですか? たぶん彼女だったら断らないと思いますよ」
「ぼくもそう思ったんだけど、藤原代表が七瀬ちゃんの方がいいって」
「どうしてですか」
「七瀬ちゃんの方が歴が長いし、それに――」辻が耳元に顔を近づけてきた。「七瀬ちゃんの方が見てくれがいいからって」
七瀬は照れたフリをした。内心は鼻白んでいる。ただ、これは渡りに船というやつかもしれない。
「頼むよ」辻が手を合わせる。「ね」
「じゃあ交換条件」七瀬は微笑んで言い、先ほど辻がしたように彼の耳元に顔を近づけ、「あたしとデートしてくださいね」と甘い声でささやいた。
辻は赤面し、目を泳がせている。
「じゃないと協力しませんよ」彼の袖口を掴んで迫った。
辻はなおも逡巡した様子を見せていたが、最後にはしぶしぶ承諾した。
内心、この男も大義名分を得たと思っているにちがいない。
七瀬はそれから藤原と合流し、彼女の誘導のもと、池田都知事のもとに向かった。