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後編6 2024年9月7日 藤原悦子

「まあ、なんという……」
 扉の先には夕日に赤く染められた大都会が広がっていた。その圧巻の眺めに、藤原悦子は驚嘆を漏らさずにはいられなかった。
 この部屋の壁という壁は、まるでそこに何も存在しないかのような透明なガラス張りになっていて、東京の街並みから緩やかな曲線を描く地平線までも一望できるのだ。
 ここは歌舞伎町タワーの高層階に入っているホテルの最上級ペントハウスだった。その高さは地上から約二百メートル、部屋は四十八階と四十九階を跨ぐメゾネットタイプの吹き抜けになっており、中央に上下階を繋ぐ階段が設けられている。
「実に壮観ですなあ。お、都知事、あそこにスカイツリーが見えますよ」
 第一秘書が遠くを指さした。その先に目をやると、燃えた空に向かって毅然と聳えるスカイツリーがあった。宝石をちりばめたように、塔のてっぺんが色とりどりの光を放っている。
「おや、あちらには東京タワーが」
 これは第二秘書が言った。たしかに東京タワーも望めた。こちらはお馴染みのオレンジに発色していて、まるで都市の海原に立つ灯台のようだった。
「もう、あっぱれ。わたくし、深く感激致しました」
 悦子が後方にいる支配人に向けて告げると、「お気に召していただけたなら何よりでございます」と彼は恭しく腰を折った。
「今夜は本当にここに泊まらせていただいてよろしいのかしら?」
「もちろんでございます。どうぞご自由にお使いください。御用命の際はこちらの者になんなりと」
 支配人の紹介で、彼の斜め後ろにいたホテリエの女が一歩前に出て、胸に手を当てた。
 化粧の薄い、清楚な美人だった。若い女はイケ好かないが、さすがに世話係を変えてくれとも言えない。
「では遠慮なくそうさせていただくわ――ああ、よかった。わたし都知事になって」
 悦子の軽口にみなが盛大に笑った。
「ちなみにこの部屋はふつうに宿泊するとなると、一泊おいくらになるのかしら?」
 そう訊ねると、支配人は満面の笑みを保ったまま、「三百二十万円になります」と、あっさり答えた。
 悦子は嘆息し、かぶりを振った。
「もうやんなっちゃうわね。わたしの住んでいるマンションの家賃よりも高いじゃないの」
 もっとも、この目に映るものすべて、わたしのものなのだけど――。
 足元に広がるこの世界は、藤原悦子の権力と支配力の証。
 すべてがわたしの統治下にあり、わたしの意のままに動かせる。蟻のように小さく見える人々、彼らの一挙手一投足もまた、この指先一つでいかようにも操れる。
 そう思ったら、名状し難い感情が心の奥底から湧いてきた。
「都知事、いくつかお写真を撮らせていただいてもよろしいでしょうか」
 そう伺いを立ててきたのは専属のオフィシャルカメラマンで、この男は常に悦子に帯同している。
「ええ、よくってよ。ただ、化粧直しをさせてちょうだい」
 向かったドレッシングルームは、洗練されたデザインとシンプルな機能美が融合したモダンな空間だった。足元には高級感溢れるグレーのラグが敷かれ、歩くたびに柔らかな感触が足裏に伝わってきた。壁一面には、マットブラックのクローゼットが厳然と並んでいる。
 部屋の中央にある鏡台の前に座り、ヘアメイクから施しを受けていると、秘書の二人が並んでやってきた。
「都知事。明日のスケジュールをお伝えしてもよろしいでしょうか」
 第一秘書が伺いを立ててきて、悦子は額にファンデーションを当ててもらいながら、「どうぞ」と答えた。
「明日は早朝の五時にお迎えに上がりますので、まずはこちらでヘアメイクを行っていただき――」
「ちょっと待って。五時って、そんな早くから始動しなきゃならないわけ?」
 明日は歌舞伎町の納涼祭――それにかこつけて以前から関心のあったこのホテルに宿泊することにした――の日だった。納涼祭における悦子の役割はTOHOシネマズの広場、通称トー横広場に設けられた特設ステージに登壇し、そこに集まった人々に向けて祝辞を述べるというものだ。そして、その時間はたしか十時だったはずである。
「スピーチの内容確認、また動線の確認など、諸々の段取りのお時間を考慮しますと、それくらいから準備を始めていただくのがよろしいかと……」
「せめて五時半。あなた知ってるでしょう? 最近わたしが不眠に悩まされていることを」
「では、五時半にお迎えに上がります――きみ、すべての予定を三十分後ろ倒しにするように、各所に連絡を」
 第一秘書が第二秘書に指示を出し、第二秘書はノートパソコンを開いて、カタカタとキーボードを叩き始めた。
「つづけて」
「こちらでヘアメイクとお着替えを済ませていただいたあと、下の階のラウンジにて朝食となります。それから別室に移動していただき、式典の段取りの打ち合わせに入ります」
「さっきから段取り、段取りって言うけど、登壇して十分程度しゃべるだけでしょう」
「ええ、まあ」
「ちなみにその打ち合わせの時間はどれくらいで見てるの?」
「一時間確保してます」
「スピーチの雛形は?」
「原稿はすでにご用意しております」
「だったら打ち合わせの時間は半分でいい。ということで、お迎えは六時」
 悦子が決定事項のように告げると、鏡越しの第一秘書はこめかみを指でポリポリと掻いたあと、「かしこまりました――おい、そういうことだ」と、再び第二秘書に予定変更の指示を与えた。
「でもってその原稿、今ちょうだい」
 悦子が手を差し出すと、第一秘書が鞄から書類を取り出し、手渡してきた。
 ざっくりと目を通し、「てんでダメ。やり直し」と突き返した。
「再選後、わたしが大勢の人の前に立つのは初めてだってこと、あなたわかってるわよね?」
「もちろんでございます」
「だとしたら、東京に藤原悦子あり、ってことをもっともっと群衆にアピールしないと。明日はキー局のカメラも入るんだし、この機を逃す手はないでしょう」
「では、具体的にどの辺りを、どのように修正致しましょう?」
「総理暗殺のところ。この原稿ではさらっと触れている程度でしょう。まずはあの暗殺がいかに卑怯な蛮行であったかを改めて群衆に訴える。そうすれば自ずと、わたしが堂々とその場に立っている勇気を感じ取ってくれるはず。それでこそ悪に屈しない東京都知事をアピールできるってものじゃない」
 池村大蔵内閣総理大臣が暗殺されたのは今から約五ヶ月前だ。池村はここから目と鼻の先の都庁前で演説を行なっていた際、スナイパーライフルで頭を撃ち抜かれ、即死したのである。
 つまり、明日の悦子はそのときと似た状況下に置かれるということだ。
「おっしゃることはごもっともでございます。しかしながら、納涼祭という祭典の中でのスピーチということで、あまりそういった凄惨な事件を掘り起こしてしまいますと――」
「お祭りムードに水を差すって? 関係ない。明日は一にも二にも都民にこう思わせなきゃダメ。ああ、藤原都知事は自らの危険を顧みずに登壇してくれたのか、自分たちの投票はまちがっていなかったんだな、この人になら東京を任せても平気だ――ってね」
 いったい誰が、どんな目的のために、池村大蔵を狙い、そして殺害したのか。敵対する党の策略であるとか、外国人テロリストの仕業であるとか、はたまた後援についていた宗教団体の関与など、今もなお数々の憶測が飛び交っている。しかし、その真相は未だに闇の中だった。
 悦子は一刻も早く犯人の身柄を捕らえるよう、警視総監に幾度となく発破を掛けていた。
 総理を暗殺され、さらには犯人を逮捕できぬなど言語道断、国家の恥だ。当然、日本警察の威信は地に堕ちる。だからこそ彼らも血眼になって捜査しているにちがいないだろうが、事件から半年が経とうかという今になっても、目ぼしい容疑者すら捜査線上に浮かび上がってこないというのだから、悦子は怒りも呆れも通り越して、もはや奇妙な気分でいる。
 とはいえ、何がどうあっても、この事件を迷宮入りになどしてもらっては困る。
 そうでないと、わたしは永遠に枕を高くして寝られないのだから――。
「改めて訊くけど、登壇中、わたしの身の安全は保証されてるのよね」
「はい。厳重な警備態勢を敷いております。SPを至る場所に配置しており、死角はどこにもございません」
「それはステージ周辺のことでしょう。専門家の話じゃスナイパーライフルってのは、数キロ離れた場所からでもターゲットを狙撃できるそうじゃないの。そんな遠くから狙われたら防ぎようがないんじゃなくて?」
「その心配にも及びません。ご存知の通り、トー横広場はぐるりとビルが立ち並んでいるため、遠方射撃はまず不可能です。当然、周囲のビルの中にも警備を配置しておりますから、不審者は侵入することができません」
「じゃあここは?」
「ここと申しますと?」
「だから今いる歌舞伎町タワー。たとえばこの部屋からなら、足元のトー横広場が真上から見下ろせるでしょう。ちょっとベランダにでも出たら、変な話、撃ちたい放題じゃないの」
 そう告げると、第一秘書がきょとんとした顔つきになった。
「ええと、このお部屋にベランダはないかと思われますが」
「あら、そうなの」
「ええ、さすがにこの高さですから、開閉できる窓やベランダや備えられておりませんよ」
 第一秘書が口元を緩めて言った。小馬鹿にされたようで気分が悪かった。
「だとしても、ほかにも部屋はたくさんあるわけでしょう。そこもすべて調べたの?」
「いえ、調べてはおりませんが、おそらくはどこにもないかと」
「おそらくなんて、いい加減なことを言わないでちょうだい」
 悦子がぴしゃりと言いつけると、場の空気が凍りついた。
「これで明日、わたしが死んだらどうするの? あなたたち責任を取れるわけ? この命の重みをそこらの人間と同じにしないで」
 第一秘書が第二秘書に向けて顎をしゃくった。第二秘書がサッと席を外す。
 そしてすぐに戻ってきた第二秘書はこう報告した。
「ただいま支配人に確認したところ、すべての部屋に開閉できる窓やベランダはないとのことです」
「あらそう。でも警戒は怠らないで。いつも言ってるけど、細部まで抜かりなく」
「はい。かしこまりました」
「返事が小さい」
「かしこまりましたっ」
 第一秘書と第二秘書の大声が合わさって、ドレッシングルームにこだました。
 悦子は鼻息を漏らし、「ねえ、まだかかるの?」と、傍らに立つヘアメイクに訊ねた。
「あ、いえ、すでに終えています」
「だったら早く言いなさいよ」
 文句を浴びせて、席を離れた。
 リビングへ向かうと窓際に立つようにカメラマンから指示を受けた。日はすでに沈み切っていて、夜景がこれまた絶景だったが、先ほどのような感動は覚えなかった。
 今になってまた、不安がむくむくと膨らんできたせいである。
 明日は本当に大丈夫だろうか――。
 わたしの命は一〇〇%保証されているのだろうか――。
 実のところ、これこそが悦子が抱えている不眠の原因だった。
「では都知事、まずは正面からこちらを見てください」
 撮影が始まり、カシャ、カシャというシャッター音が広々とした空間に響く。その間、悦子は心ここに在らずの状態でポージングを取っていた。カメラは好物だが、いかんせん気分が乗らない。
 悦子の穏やかざる日々が始まったきっかけは、歌舞伎町を牛耳っていた内藤組の組長、矢島國彦の失踪である。
 その報告を耳にした当初、悦子は手放しでよろこんだ。この上ない吉報であると思った。
 矢島が消えたのは十中八九、内藤組が敵対していた誠心会の仕業であろう。連中があの厄介者を葬ってくれたにちがいない。安直にそう考えたのだ。
 だが時間を置いて、まったく別の考えが頭をもたげた。
 矢島は本当に誠心会にやられたのだろうか――。
 次に狙われるのは、もしやこのわたしではなかろうか――。
 悦子がその考えに至るには、小さな根拠があった。
 それは、ここ数ヶ月の間に、五年前のあの事件に関わった者ばかりが不幸な目に遭っているということだ。
 確実に殺害されたとわかっているのは池村大蔵だけだが、おそらくは浜口竜也も、矢島國彦もすでにこの世にいないだろう。これだけは悦子の中で不思議と確信に近い思いがあった。
 だからこそ、不安で不安でたまらないのだ。
「あのう、都知事、撮影は終わりましたが……」
 あの三人の男がこの短い期間に亡くなったのははたして偶然なのか。程度はちがえど、三者三様にキナ臭い人間だったので、その可能性もなくはない――が、限りなく低い。
 その一方、必然である可能性もまた否定できなかった。
 万が一、あの事件の復讐なのだとしたら、誰がそんなことをしているのか。あの少女の遺族か、恋人か。だが、あれは五年も前のことだ。今さらそんなことをする執念深い人間が存在するだろうか。

 

(つづく)