「ねえ、おにいさんはずっとこの街にいるの?」
「そう。十八歳からずっと歌舞伎町」
「一度も離れたことないんだ?」
「ないね」
「なんで?」
「なんでって……なんとなく」
いつか、あいつが歌舞伎町に戻ってくるかもしれないから――もちろん、今日会ったばかりの女にそんなことを言うつもりなどない。
もしかしたら自分がこのラーメン屋を引き継ぐことを決めた理由も、それなのかもしれない。
「ところで、おねえさんはどこの店の人?」
颯太に慎重に二口目を吸いつけて訊いた。
「Ranunculus」
その名称を聞いて、颯太は思わず息を止めた。
浜口竜也がオーナーをしているキャバクラ店の一つだ。Ranunculusはその昔はぼったくりのガールズバーで、何年か前に普通のキャバクラに生まれ変わったのだ。
昔は陰で汚い商売をする、小賢しい半グレの一人だった浜口も、今や歌舞伎町の成功者として、夜の街でその名を轟かせていた。
浜口はこの街でキャバクラやホストクラブを何店舗も手掛けていて、荒稼ぎしているのだ。
「と言っても、まだ働き始めたばかりなんだけどね」
「へえ。そうなんだ」
「おにいさん、今度お店に遊びに来てよ」
冗談じゃない。あの男の店に金を落とすなど、死んでもしたくない。
個人的な恨みがあるわけではないが、浜口もあの一件に関わっている一人なのだ。
浜口然り、あの当時――自分がヤクザの端くれだった頃――に知り合った連中とは、金輪際、関わり合いたくない。
女がスッと名刺を差し出してきた。
受け取り目を落とす。店名であるRanunculusの文字と、漢字で大きく《愛》と書かれている。
この女は愛という名前なのか。もっとも源氏名だろうが。
「悪いけど、遊びには行けねえよ」
颯太は名刺を胸ポケットにしまって言った。
「あら、どうして」
「ラーメン屋に夜の店で散財する甲斐性なんてないの。その日暮らしで精一杯さ」
「そっか。残念」
「それに、おれなんかが行かなくても、おねえさんならいくらでも稼げるだろう」
おそらくすぐに人気に火がつくはずだ。この女は美貌もさることながら、どこかミステリアスな雰囲気を纏っている。掴みどころのない美女というのは夜の街で一番モテるのだ。
「きっとおねえさんが店のナンバーワン、いや、歌舞伎町の女王になる日も近いさ。おれっちが太鼓判を押してやる」
颯太はカウンターから身を乗り出して言った。
すると、愛は一笑に付した。
「なんだよ。本気で言ってるんだぜ」
「あたしは、そんなものになりたくて歌舞伎町に戻ったわけじゃないの」
「でも稼ぎたいわけだろう?」
「ううん。お金なんかに興味ないもの」
その返答に颯太は鼻白んだ。金に興味のない女が夜の街で働くわけがない。
愛が煙草を灰皿に押しつけて消した。だがすぐに二本目の煙草に火を点けた。
どうやらまだ店に居座る気らしい。美人だからなんでも許されると思っているのだろうか。
「ねえ、歌舞伎町浄化作戦って、知ってる?」
愛が手の中の煙草の火種を見つめながら、そんなことを訊いてきた。
「まあ、聞いたことはあるけど」
その昔、歌舞伎町にあった違法な水商売や、反社会的な人間が一斉に検挙され、街から追い出されたらしい。この浄化作戦とやらが行われたのはちょうど颯太が生まれた頃くらいで、旗振り役は当時の都知事の石原慎太郎という男だと聞いている。
颯太がこれらのことを語ると、
「そう。あたしはそれをしたいの」
「違法な店を潰したいわけ?」
「というより、ゴミを排除して、この街を綺麗にしたいの」
「ゴミ?」
「そう。歌舞伎町に棲息するゴミ」
よくわからない返答に、颯太は中途半端に相槌を打った。
「なんでおねえさんがそんなことをするわけ?」
訊くと、愛は自ら吐き出した煙に目を細め、「この街が好きだから、かな」と、これまた要領の得ない答えを口にした。
やっぱり変な女だ。こいつは案外、イタいタイプの奴なのかもしれない。
愛の腕と手首をこっそり見る。注射痕やリストカットの傷痕は見当たらなかった。
「今、ヤバい女と思ってるでしょ」
愛が心を読んできたので動揺した。「んなこと思ってねえよ」と慌てて否定する。
「ま、別にどう思われてもいいけどね」
愛が煙草を消して、腰を上げた。ようやく帰るらしい。
「ねえ、またラーメン食べに来てもいい?」
「もちろん。毎日だって食べに来てよ」
颯太が大真面目にそう答えると、愛は薄く笑み、「ごちそうさま。お釣りは要らない」と、手の切れそうな一万円札をカウンターに置いた。
「お、おい。なんだよこれ。貰えねえよ」
「いいの。ご祝儀だから」
「ご祝儀?」
「そ。遠慮なく貰っといて」
愛は困惑する颯太に背を向け、すたすたと出入り口に向かった。
颯太は慌てて持っていた煙草を消し、カウンターを出て、愛のあとを追った。
愛はドアをスライドさせてから振り返り、「またね」と颯太に告げて、去って行った。
颯太は店先まで出て、「おーい。ほんとまた来てくれよな」と、ちいさくなっていく愛の背中に向けて叫んだ。
やがて愛が辻を曲がり、その姿が見えなくなった。
颯太は一万円札をひらひらさせながら店の中に戻り、カウンターのスツールに腰掛け、「いったい、なんのご祝儀だよ」と独り言ちた。
次に、愛から貰った名刺を胸ポケットから取り出し、改めて目を落とした。
愛か――とことんおかしな女だったな。
そういえば、女の客とこんなにおしゃべりをしたことはあったろうか。たぶん、初めてのことだ。
ただ、どこか懐かしいやりとりだった気もする。
はからずも、あいつ――七瀬の顔が頭に思い浮かんだ。
七瀬がこの街から消えて、すでに五年の時が過ぎていた。
七瀬のことを思い出さなかった日は、一日たりとてなかった。何をしていても、どんなに忙しい一日を送っていても、颯太の頭の片隅には常に七瀬がいた。
あいつは今、何をしているのだろう。どこで、どんな生活を送っているのだろう。
考えてもわかるわけはないのに、いつだって考えずにはいられなかった。
七瀬は自分が初めて、一目惚れをした女なのだ。
あれは颯太が内藤組の門を叩き、行儀見習いとして歌舞伎町で生活を始めて、二ヶ月が経った頃だった。お遣いで街中を歩いているときに、気だるそうに煙草を吹かす少女を見かけた。それが七瀬だった。
七瀬は特別な美人でもなく、身なりもひどくイモ臭かった。いかにも田舎から出てきた家出娘といった風貌だった。
だが、なぜか心惹かれる自分がいた。歌舞伎町にはそんな少女がごまんといたはずなのに、どういうわけか、颯太の目には七瀬がその他大勢とちがって映ったのだ。
とはいえ、すぐには声を掛けられなかった。七瀬は人を寄せつけないオーラのようなものを放っており、思い立ったらすぐに行動に移す颯太も、二の足を踏んだのだ。
そこで颯太はストーカーのごとく、彼女の行動を調べることにした。七瀬は当時流行っていたトー横キッズの一人で、大半の時間はゴジラヘッド近くの広場で、同世代の仲間たちとダベっていた。そんな彼女が一人でよく通っていたのが、このラーメン屋だったのである。
そこで颯太は彼女がやってくる時間帯を狙って、偶然を装い、この店に足を運んだ。そうして七瀬がラーメンに酢を垂らすのが好みであると知り、そのうち自分も真似をするようになった。
やがて初めてカウンターでとなりに座った日に、「あ、おれと一緒。ちょっと入れると美味いんだよな」と、勇気を出して声を掛けた。
以来、街で見かけるたびに口を利く間柄になった。交際を申し込まなかったのは、自分が女を作っているような身分ではないのと、単純にフラれるのが嫌だったからだ。
仮に思いの丈を告白したとしても、七瀬から快い返事が戻ってこないことは十分わかっていた。七瀬は男に、というより、他人に興味がないのだ。
誰に対しても心を開かない女、それが七瀬だった。
それでもいつか、そんな彼女と深く打ち解けたいと、颯太は願っていた。
そんな矢先、所属している組の若頭であり、もっとも慕っていた矢島から耳を疑う命令が下った。
――七瀬を山に埋めてこい。
これはのちに知ったことだが、矢島は七瀬に秘密裡に仕事を任せていたらしい。だが、七瀬が粗相をしたことで、矢島の怒りを買ったようだった。
颯太は足りない頭で必死に考えた。どうすれば七瀬を救い出すことができるのか。
矢島に頼み込んでも無意味だと思った。それこそ指を詰めて、土下座をしたところで、矢島が翻意してくれることはないだろう。
そこで颯太は、七瀬をこっそりと逃がす作戦を考えた。共に行動する兄貴たちの目を欺き、彼らに七瀬を始末したものと認識させるのだ。
この作戦は功を奏し、間一髪のところで七瀬を逃すことができた。
全身泥だらけの一糸纏わぬ姿で、よろよろとした足取りで森の中に分け入っていく七瀬の背中――これが颯太が見た、七瀬の最後の姿だった。
実はその翌日、颯太はかっぱらったバイクに跨がり、一人で改めて山を訪れていた。上手いこと逃したつもりであったが、彼女が途中で力尽き、山のどこかで野垂れ死んでいるのではないかと、不安に駆られたからだ。
だが幸いにも、颯太が七瀬を発見することはなかった。
そのかわり、自分たちが掘った穴から少し離れた場所で、辺り一帯が燃えたような痕跡を発見した。これはきっと彼女が暖を取るためにやったのだろうと颯太は考えた。七瀬との別れ際、彼女にジッポーを手渡していたのだ。
だからきっと、七瀬は生きている。颯太はそう自分に言い聞かせている。
そして、いつか必ず自分に会いにきてくれると、信じていた。
だからそれまでは、自分は歌舞伎町を離れることはできないのだ。
もしかしたら彼女は自分を恨んでいるかもしれない。
それでも、もう一度だけ、七瀬に会いたい。
どうしても、会いたい。
「七瀬……」
唇を微かに動かし、ふいにその名を呼んでみた。
すると、なぜか愛の顔が思い浮かび、颯太は肩を揺すって自嘲した。
似ても似つかない二人なのに。
そのとき扉が開き、「まだやってる?」と客が入ってきた。
「へい。いらっしゃい」
颯太は椅子を離れ、厨房の中に入った。