料理が上手い人と下手な人の差は、面倒だと思う境界線がどこにあるかによるのではないかと、若い頃から思ってきた。

 牛肉の塊をオーブンで焼くといったような豪華な料理のことではない。例えば青魚を焼いたとき、大根おろしがあれば美味しさが増すが、会社から帰ってきて疲れ果てているときは、ついつい「あーめんどくさい」と省略してしまう。

 大根をおろすのは結構な力仕事だ。かといって力を使わずに済むフードプロセッサーを使えば、きっと洗うときに「あーめんどくさい」となるだろうなあと想像した時点で嫌になったりする。

 葱 ねぎ生姜しようが茗荷みようがなどの薬味を添えれば美味しさが倍増する料理はたくさんある。できれば省略したくないのだが、薬味にしては高価すぎると感じることが増えた。値段を見てショックを受けて、スーパーの売り場の前で立ち尽くしてしまうこともある。

 年齢とともに手間のかかる料理を面倒だと思うことも増えてきた。

 揚げ物やポテトサラダなどは滅多に作らなくなった。出来合いのものを買ってくると、百パーセントの確率でがっかりするから、結局それらも買わなくなった。

 今は便利な調理器具が続々と誕生している。評判のものや著名人が薦めるものなどを買ってみたことも何回かある。だが、意外にも使い勝手が悪かったり、器具自体が私には重かったりして、買わなければよかったと思うものも多かった。

 仮に気に入ったとしても、洗うときに部品を分解しなければならないとなると、やはり「あーめんどくさい」となって使わなくなる。

 ところが性懲りもなく、つい先日、スープメーカーを買ってしまった。かぼちゃのポタージュを手間をかけずに作りたいと思ったからだ。

 届いた翌日は勇んでかぼちゃを買いに行ったのだが、季節がズレているのか、どう見ても美味しそうには見えなかった。だから八百屋とスーパーを三軒もハシゴした。だが良いかぼちゃとは巡り合えず、結局は買うのをあきらめて帰った。だからいまだにスープメーカーの出番はない。

 つい最近、九十歳の女性Aさんが夕食に招いてくれた。

 約束の時間に行くと、既にテーブルの上には、手作りの料理が所狭しと並んでいた。

――うわあ、すごいご馳走ですね。美味しそう。

――たいしたことないわよ。あり合わせだもの。

 そんな会話のあと、三十分近く遅れてAさんの若き日の同僚である八十七歳のBさんが現れた。

 玄関まで出迎えたAさんとの会話が、リビングにいた私のところまで聞こえてきた。

――Bさん、ずいぶん遅かったわね。待ちくたびれて、もう食べ始めちゃったわよ。

――遅くないわよ。五時半の約束でしょう。まだ時間があるわ。

――五時半じゃないわよ。五時って言ったはずよ。

――私は五時半って聞いたわ。本当よ。あなた絶対に五時半と言ったわよ。

 そんな押し問答が続いたあと、黙ったのはAさんの方だった。

 それらを聞きながら、こういう場合は私も引こうと決めた。

 私は時間厳守の人間であるつもりだから、自分に限って遅刻などしない、聞き間違いはない、相手が間違っている、などと思いがちだ。

 だけど、人間は間違うことがある。それは年齢とは関係ない。そして、音声録音でもしていない限り証拠はない。

 とはいえ、私の世代以下のほとんどがLINEなどでやり取りするから、聞き間違いは少なくなっているのだが。

 リビングに現れたのは、おしゃれな女性だった。ツイードのジャケットを羽織り、胸には何連にも重なったネックレス、そして指には大きなエメラルドの指輪を嵌めていた。

 そんなゴージャスなBさんは、テーブルを見るなり言った。

「私、こんなにたくさん食べられない。最近はお米も食べないし、そもそもずっと前から体調がよくないんだし」

 せっかくご馳走を用意してくれたのに、そんな言い方はないだろうと思った。だが、食べられなくて申し訳ない、きっと大量に残すだろうという予測から予防線を張ったのかもしれないと考え直した。

 それでもやはり、招待の電話があった時点で言うべきだったと思う。人を招く大変さは経験のある人でないとわからない。あれこれ気を遣って準備する段階で、既に疲れ果ててしまうこともあるくらいだ。

「食べられないほど多くないわよ」と、Aさんが言う。

「だって最近の私は、お腹が空いたらアイスクリームを食べてるのよ」

 Bさんは茶目っ気たっぷりな目で私を見てそう言った。

 同意を求めているのはわかったが、どう返事をすべきかわからず、私はわずかに微笑むだけだった。

「だって、もう歳だし、いつ死んでもおかしくないのよ。だったら残りの人生、好きな物を食べようと思ってるの」

 私の知り合いでも、寝たきりの母親に甘い物ばかり食べさせている例は少なくない。老い先短いのだし、この年齢まできたら、今さら健康に気をつけてどうなる、それよりも人生の最後を幸せな気分で過ごさせてあげたいという考えからだ。

 だが、Bさんは寝たきり老人ではない。八十七歳になっても、ばっちり化粧をして、栗色の髪をカールして、装いもこらして友人宅を訪問している。

 年齢とともに、それまでの習慣を少しずつやめていく人が多い。年賀状がいい例だ。

 体力や気力の衰えに合わせ、それまでの暮らしを削ぎ落し、肝心なことだけに絞って生活していくのはいいことなのかもしれない。

 しかしBさんを見ていると、削ぎ落す内容を間違う人もいるのだと気づいた。「老い先短いんだし、まっ、いいか」と、いったん自分に甘くなると、際限がなくなる人もいるらしい。

 毎日三食きちんと栄養バランスを考えて……とまできっちりやるのは厳しいが、ときどき生活を見直して心を引き締めた方がいいと思った。

 私も他人のことは言えない。

 まさに、人の振り見て我が振り直せ、である。

 その帰り、久しぶりに手の込んだ料理を作ってみようかと考えた。

 

(つづく)