先日、久しぶりに夕方のラッシュ時の電車に乗った。
 日中の閑散とした様子とは違い、会社員風の男女で改札は混雑していた。
 私は改札から何メートルか手前に並び、次々に改札の中に消えていく人々を何の気なしに眺めながら順番が来るのを待っていた。
 そのときだ。
 私だけがプラスチック製のSuicaのICカードを手にしているのに気がついた。
 改めて観察してみると、会社帰りと思われる人のほぼ全員が、スマートフォンを改札にかざして通過していく。
 もしかして、私は時代遅れの人間になりつつあるのか?
 そう思ったとき、背筋がぞわっとした。
 電車に乗ってから、すぐに交通系ICカードをスマホに取り込む方法を検索した。そして、帰宅後に早速やってみた。
 取り込むのは簡単だったが、どうやって使うのかがわからなかった。
 使うたびにスマホの電源を入れ、パスコードを入力して開錠し、そのうえウォレット画面を開いてICカードの図柄を画面に出さなければならないのだろうか。もしそうならば、人々は改札を通る何メートルか手間で準備を始めなければならないし、土壇場でまごまごしてしまう人もいるのではないか。だが、そんな人はひとりも見かけなかった。
 いったんスマホに取り込んでしまうと、それまで使っていたプラスチックのカードは無効になる。だから今後は、スマホで決済するしかなくなった。チャージしてみると、駅の自動機と同じで上限額が二万円だとわかった。
 翌日になって近所の業務スーパーに行き、チーズとナッツ類を買った。レジを通るとき、「スイカで払います」とレジ係に告げた。
 どこにスマホをかざせばいいのだろうとレジ周辺を見回していると、レジ係の若いお兄さんが「どうぞ」と言って、丸くて平べったい小さな装置を指差した。
 それは、今まで使っていたプラスチックのICカードの読み取り装置と同じものだった
 えっ、本当にこれなの? 今までと同じ機械でいいの?
 口には出さず、そこにスマホを置いてみたが、全く反応しない。
「えっと、すみません。これって、スマホのウォレットの画面を出さないとダメなんでしたっけ?」と尋ねてみた。
「……さあ」
 レジ係の若いお兄さんは素っ気ない。
 なんて冷たい人なんだろう。今に始まったことではないが、若者が年配者を馬鹿にする風潮はここかしこにある。若い頃の自分も確かにそういった面があった。自分が歳を取ってみると、それらを敏感に察して嫌な気持ちになることが日々増えていた。
 ふと背後の気配を察するに、私の後ろにも何人か並んでいる様子だ。
 だから慌ててスマホにパスコードを入力して素早くウォレット画面を出して再度タッチしてみたが、またもや無反応だった。
「なんでなんだろ」と思わずつぶやくと、お兄さんから「さあね」と、やる気のない声が返ってきた。二十代前半と思われる彼は、いかにも人生が嫌になっているといった感じがした(考えすぎかもしれないが)。
 だけど、助かったのは「早くやれよ」といった威圧的な雰囲気が全くないうえに、外見がアイドル系優男風だったから怖くなかったことだ。
 とはいえ、これ以上ぐずぐずしていたら迷惑をかける。だから現金で払ってしまおうと、バッグから急いで財布を取り出したとき、ハッと思い出した。
 ──iPhoneの場合は、上部にセンサーが搭載されています。
 昨夜ネットで検索したときに、そう書いてあったはず。 
 試しにスマホを少しずらして先端部分が装置の上に来るようにしてみると、ピッと鳴って瞬時に支払いが終了した。
「あ、鳴ったね」と、お兄さんが嬉しそうに言った。
 その声音で、彼は怒っているわけでもイライラしているわけでもないとわかった。人生に絶望しているがゆえに、全くやる気がなかっただけなのだ(私の勝手な想像)。そして、彼も使い方を知らなかったのだ。
 それでも帰り道は、さっきの自分の愚鈍さを思い出して落ち込みそうになった。
 ──大丈夫だよ、自分。今日もまたひとつ克服できたじゃないの。
 そう言って自分を励まし、誰も見ていないのをいいことに口角を上げて笑顔を作ってみた。
 だが本当の問題は、スマホに取り込んだICカードの使い方がよくわからないことだった。さっきのように、Suicaカードのペンギンの図柄をわざわざ画面に出しておかなければならないのだろうか。だとしたら面倒だ。
 その疑問を、翌日になってカフェで試してみた。すると、ICカードを画面に出しておかなくても反応することが判明した。そして更に、スマホの電源を入れておかなくてもいいかどうかを翌日になって電車に乗るときに試してみた。すると、電源さえも入れておく必要がないことが確認できた。
 いちいち試してみなくても、グーグルで検索すればすぐにわかると思っていた。だが、「ICカード画面を前もって出しておくこと」だとか、「電源だけは入れておかなくてはならない」などの記事が多くて、どれが正解なのかがわからなかったのだ。
 ひとつクリアできたと思ったら、たったこれだけのことでも達成感があった。
 今後もどんどん挑戦していかねばと心を新たにしたのでした。
 そこまでしなくても、周りの人に聞けば済む話じゃないかと言う人もいるだろう。だが同世代の知人の中では、こういうことに関しては私が最も詳しいので、尋ねる人がいないのだった。といって、若い人なら知っているかというと、意外とそうでもないこともあるし、なんといっても日々忙しいから時間を取らせたくない。
 パソコンや周辺機器を買いに大型電機店に行ったときも、私の隣に佇む娘をちらりと見て店員さんが言ったことがある。
 ──使い方でわからないことがあったら、娘さんに教えてもらってください。
 娘を見ると、苦笑いをしている。
 ──私よりお母さんの方が詳しいんですよ。
 顔にそう書いてあった。

 

(第7回へつづく)