オリビア・ハッセーが起こした訴訟の内容を知り、衝撃を受けた。
 映画『ロミオとジュリエット』に出演したとき、ヌードになることを強要されたというのだ。ロミオ役のレナード・ホワイティングも同様に服を脱ぐよう強要されたとして、児童への性的虐待および搾取であったとし、映画会社パラマウントを相手に、五億ドル(約六六〇億円)超の訴訟を起こした。
 記事によると、撮影時のオリビアは十五歳で、ロミオ役のレナードは十六歳だったという。白人は私たちアジア人より大人びて見えることが多いから、まさか彼らがそんなに幼い年齢だったとは知らなかった。
 その映画は一九六八年に公開され、世界中で大ヒットした。私が観たのは公開から十年ほど経った大学生の頃で、名画座で見たのではないかと思う。シェイクスピアの悲劇だからと、真面目な心構えで観ていたので、突如として現れた一糸まとわぬ男女の絡みシーンに一瞬目を疑った。
 今のは、いったい何?
 純粋な若い男女の悲しい物語だと思って観ていたのに、いきなり生々しいグロテスクな映画に変貌してしまったように感じた。
 人によって感じ方は様々だろうが、少なくとも私は、彼らの初恋のドキドキ感やロマンチックさを全く感じ取れなくなってしまった。
 このストーリーに、なぜ裸のシーンが必要なのか。
 そのシーンがあまりに強烈で、それ以外がぼやけてしまった。
 あれから何十年も経ち、昨今は、昔の映画が自宅で簡単に見られるようになった。だが、この映画をもう一度観てみようと思ったことは一度もない。
 それどころか、訴訟記事を見るまで、この映画のことはすっかり忘れていた。だが、その後オリビア・ハッセーが、日本人歌手の布施明と結婚して男児をもうけたこともあり、なんとなく彼女には親しみを感じ続けていた。
 監督のフランコ・ゼフィレッリは、撮影前にオリビアに約束していたらしい。
 ──映画にヌードはなく、代わりに肌色の下着を着用して親密なシーンを撮影する。
 だが撮影日になると服を脱ぐようオリビアに強要したという。
 そして半世紀が経ち、主役の二人は七十歳を超えてやっと裁判に訴え出た。彼女は、映画公開以来五〇年もの間、精神的苦痛から逃れられなかったと訴えた。その心境を想像すると胸が詰まる。
 このことがきっかけとなり、過去に観た映画や雑誌での、様々なティーンエイジャーの女の子のヌードを次々に思い出してしまった。
 真っ先に頭に浮かんだのは、中学生の男女が入れ替わってしまう日本の映画だ。私が初めて見たのは公開から何年か経った二十代の頃だったと思うが、そのときも、かなりのショックを受けた。
 芸能界の事情や撮影現場の雰囲気など知る由もなかったので、二十代だった私は咄嗟に思った。
 ──そこまでして稼がなければならないほど家が貧乏なの?
 主役である女の子は十代半ばにして一家の大黒柱に違いないと、勝手に思い込んだ。だって、赤貧以外の理由で、女子中学生がヌードになるだろうか。
 ──それにしても可哀想すぎる。
 そう思ったのは、きっと女性だけではない。男性であっても良識のある人ならば、「痛々しくて見ていられない」と思わず目を背けたはず……と信じたかった。
 いたいけな女子中学生の裸を見て喜ぶのはいったい誰なのか。
 あれから何十年も経っているのに、ふと思い出すたび暗い気持ちになる。それはたぶん、観ている側の私も傷つき、その傷が今も癒えていないからだろう。
 面白いストーリーだったし、田舎町の美しい風景の中での思春期の瑞々しい感性がうまく描かれていたとは思う。だが、そういった側面があってもなお、ヌードのショックで、もやもやした気持ちの方が大きかった。
 これら以外にも、十代で裸になった芸能人は数えきれないほどいる。女性だけでなく男性も多い。
 だが今回のオリビア・ハッセーの訴訟で、赤貧ゆえという私の思い込みは間違っていたのではないかと思い始めた。
 撮影現場で、「これは芸術なんだ、リアリティが必要なんだ、そのためにはヌードになることに必然性がある」などと、土壇場になって言いくるめられたのではないかと推察した。
 真面目で責任感が強ければ断りにくい。見渡せば、周りは大人の男性ばかりで、今さら退けない状況にあると思って当然だろう。そして追い込まれた末に、抗議するのをあきらめてしまう。
 ある若い男性俳優が、女性雑誌でヌードになったことがあった。そのとき彼は、「脱ぐ気なんて全くなかったのに騙された」と憤慨していたのを思い出した。
 私は彼をテレビで見るたび、思慮深くて頭のいい人だなあと思っていたこともあり、そんな聡明な人でも騙され、断れない状況だと諦めてしまうのかと驚いたものだ。
 以降は私の想像だ。
 ──撮影が始まり、すぐに嵌められたことに気づき、「騙された!」と腹立たしく思ったが、反発しても時すでに遅しと悟った。というのも、絡む相手役である白人女性モデルが裸で待機していたし、スタジオのセットも用意万端整っていた。ここで断れば、スタッフ全員に迷惑がかかるだけでなく、「ドタキャンした」だとか「わがままな俳優」だとうわさが広がって、二度と仕事が来なくなるかもしれない。
 そう思って、渋々あきらめたのだろうと思う。
 監督という立場にある人は、強い権力を持っている。監督のトップダウンですべてが決まり、いちいち話し合って相手の了承を得ていたら撮影は進まないのかもしれない。現場では何十人、何百人が共同で仕事をしているのだ。
 だが、もうそれが許されない時代になりつつある。世界中で様々な訴訟が相次いでいる。
 ビジネスなのだ、儲かりさえすればいいのだ、赤字になったら困る。そう考えれば、ヒットを飛ばすことが最優先であるのはわかる。
 だが、監督の「売らんかな」の方法が、実際に商業ベースに乗るとは限らない。若い出演者のセンセーショナルな裸を見せれば、監督と同じ感性を持つ一部の人間のウケはいいに決まっている。だが、その他の人々にはそうではない。そういった安易な手法を軽蔑する人も少なくないのではないか。
 オリビア・ハッセーのような不幸な出来事をなくすためにはどうすればいいのか。
 ──自分の身を守るのは自分しかいない。
 未成年者に向かって、そんなことを言い放つ大人は冷たい人間だと思う。
 大人が倫理規定を作り、それを守れないのならば、監督の資格を剥奪する。それくらいの法律を作ってほしい。
 何かというと「表現の自由」を主張する人がいる。児童ポルノに関しても、そんなことを言う人がいるからびっくりする。
 表現の自由って、もっと高尚なものじゃないですか?
 キリシタンが迫害を受けた時代があった。共産主義者がアカと呼ばれて逮捕されたり拷問を受けて死んだ時代もあった。
 そういった、宗教や信条や主義主張は個人の自由であり、それを表現する自由もある。こういったことを「表現の自由」というのだと私は思っていたのだが。

 

(第3回へつづく)