六月の札幌は素晴らしい。
大通り公園のベンチに座って風に吹かれると、なんとも言えない爽やかな気分になる。
昼になると、ベーカリー「どんぐり」でサンドイッチを買ってきて、そよぐ木々の緑を眺めながら食べる。
それは至福のときとなり、あの人もこの人も、ああ見えて本当はいい人なのではないか、そして人生は本当に素晴らしい、などと大いなる錯覚をしそうになるほどだ。
そんな札幌旅行がきっかけで、当地にセカンドハウスを持つようになり、一年の三分の一以上を札幌で暮らすようになった。
東京での生活と違うところはたくさんあるが、まず筆頭に挙げられるのは冬の家屋の暖かさだ。築年数の古いマンションだが、断熱がしっかりしている。
──北海道の冬はストーブを焚いて部屋を暖めるから、家の中では半袖Tシャツ一枚で過ごせるのよ。
ずっと昔、知人がそう言っていたことがある。だが、そのときの私は半信半疑だった。
いくら何でも半袖Tシャツは言いすぎでしょうよ。
百歩譲ってそれが本当だったとしたら、燃料代がとんでもなく高くつくのではないか。
燃料代をケチらずに好きなだけ使っていいのなら、南極にいても暖かいと思いますけどね。
だが実際に暮らしてみると、どの部屋も二重サッシになっていて壁も厚いのか、ガスFFファンヒーターを点けるとすぐに部屋が暖まり、そのうち暑くなって洋服を一枚脱ぎ、二枚脱ぎ、本当に半袖Tシャツ一枚になってしまった。そして、それでも暑くて、とうとうストーブを消してしまったのだ。
聞けば、三重サッシの家も少なくないというから、昔聞いた知人の言葉は本当だったらしい。
最初のうちは、真冬を除いた季節を札幌で過ごそうと考えていた。特に、東京が梅雨で蒸したり、猛暑が続く真夏は助かるだろうと思った。涼しい札幌で過ごせば快適だし、仕事も捗るだろうと。
だが実際に暮らしてみると、真冬こそ札幌のマンションでぬくぬくしたいと思うようになっていった。
そして今年、北海道の夏は猛暑となった。
昨今は「地球温暖化」ではなく、「地球沸騰化」というらしい。
北海道では冷房のない家が多いと聞いていたが、私のマンションの部屋も、エアコンをつける仕様になっていなかった。どの部屋にもエアコン用の電源の差込口が見当たらないし、ベランダに置く室外機に配管をつなげる穴が部屋のどこにも見当たらない。
暑がりの私は家電店に相談に行き、マンションの理事会にも問い合わせて了承を得て、すぐにエアコンを設置する手配をした。
当日は、電気工事の若い男性がひとりで来訪した。玄関にある分電盤からベランダのあるリビングの窓際まで電気を延々と引っ張ってきた。そして、その電線を目隠しのカバーできれいに覆ってくれたお陰で、目立たずすっきりした仕上がりになった。
さっそく冷房を点けてみると、これも断熱構造のお陰なのか、すぐに部屋が冷えた。肌寒く感じてショールを羽織ってみたものの、それでも寒くて早々に冷房を切った。
寒冷地仕様のマンションだと、こんなにも節電になるらしい。東京の家は、真夏と真冬はエアコンを入れっぱなしなのだ。特に真夏ともなると、二十四時間つけっぱなしの日も多い。
そんな日々を送るうち、頭の中には様々な疑念が浮かんできた。
テレビでニュースを見るたびに、地球沸騰化を始めとして原発再稼働やらCO2削減などの言葉が頻繁に耳に飛び込んでくる。だったら、どの家も寒冷地仕様のマンションのように、断熱をしっかり施すところから始めればいいのではないか。
家を建てる設計段階で断熱を工夫すれば、冷暖房にかかる電気やガスの使用量は格段に少なくなるはずだ。私は建築の知識がないがゆえに、札幌に住むようになって初めてそのことに気がついた。だが、建築関係に携わっている人ならば、そんなことはきっと常識中の常識なのだろう。
それなのに、現実ではそうはなっていない。本州では、断熱がしっかりした家が少ないように思うのだ。第一の原因は価格の問題だろうと思うが、とはいえ田舎でときどき見かけるどっしりした注文建築の立派な家でも、冬は隙間風が入ってきて、まるで外にいるかのように寒い。
昔からの大きな家には、いわゆる「女中部屋」と言われる四畳半ほどの狭い部屋があることが多い。屋敷の中では、その部屋が最も暖房効率が良いので、住み込みの「女中さん」のいない現在では、冬になると、家族がこぞってその部屋を使いたがるのだと、友人から聞いたことがある。
今ちょうど執筆中の小説は、主人公が建築士を目指す話だ。それもあって、家の快適さについて思いを巡らせるようになった。
冬が寒いのは何も北海道だけではない。東北や北陸はもちろんのこと、私の実家のある兵庫県北部も冬は雪国に変貌する。私が高校時代は、大雪で交通機関が麻痺し、そのために休校になる日が頻繁にあった。もっと西の鳥取や島根だって、いや、九州の福岡でも毎年のように積雪量の多さがニュースになる。
そんなこんなで、街作りについても考えるようになった。
実家に帰ったときにいつも思うのは、町の中に緑がないことだ。見渡せば、四方八方が緑の山々に囲まれてはいるのだが、町の中はといえば、東京のようにしゃれた街路樹もないから、コンクリートの灰色の印象しかない。
東京はそんじょそこらの田舎町よりずっと緑が多いので、実家に帰ったときは、コンクリートジャングルというのは東京ではなくて田舎町を指す言葉ではないかと思うときがある。
札幌での暮らしの中で気づいたもう一つのいいところは、あちこちにベンチが置いてあることだ。散歩や買い物に疲れた人々が休憩している姿をよく見かける。若い人も意外と多い。
地下街を歩けば、「自由広場」的なテーブルと椅子が置いてあって、誰でも無料で利用できる。それは地上のビルの中にも多い。
最初の頃は、それらを喫茶店だと思っていた。というのも、そういった休憩場所はカフェに隣接していることが多いからだ。
東京都心には、無料で座れる椅子はない。ましてや喫茶店と間違ってしまうほどきちんと整備されて、テーブルと椅子が置かれた場所など、都心では図書館以外ではほとんど見たことがない。
札幌のそういった設備を知らなかった私は、そこで休憩する人々を見るたびにびっくりした。
──あの人ったら、飲み物も注文しないで座ってる。テーブルの上に自分のペットボトルを平然と置いたりして。これが東京だったら速攻で追い出されるよ。
などと思いながら、遠まきに見ていたのだ。
だって東京では座るところがないのだ。だから、こういった光景に慣れていなかった。東京では(いや、うちの田舎も同じだが)、ほんの少しでも座って休憩したいと思ったら、わざわざカフェに入らなければならない。
街中だけではなく、公園も同じようなものだ。新宿御苑に行ったとき、広大な苑内を歩き回って疲れたが、ベンチの数が少なすぎて座る場所すらなくて更に疲弊した。日陰もほとんどない。苑内にスターバックスカフェが一軒あることはあるが、いつも満席で、店の外には長い行列ができている。
カフェを作る敷地があるなら、ベンチとテーブルをたくさん置いて、屋根もつけてほしい。そして、飲み物などの自動販売機をずらりと揃えてくださいよ。
行政側は、日々の入場者数を把握しているであろうに、どうして少数の人しか利用できないカフェを作るのだろうか。真夏なら脱水症状を起こす人もいるのではないか。
そんな話をしていたら、札幌の知人は言った。
──だから言ったでしょう。東京なんて人間の住むところじゃないのよ。
そんなあ……。
東京ほど楽しい都市は、ほかにはないと思うんですよ。
だって都内をあちこち散策するだけでも、一生かかっても時間が足りないほどなんですから。