──この着物はね、清水の舞台から飛び降りるつもりで買ったのよ。だって、一生ものだもの。
 ──お客さま、このミンクのコートは一生ものでございますよ。この機会に、是非お買い求めくださいませ。
 ──常識的に言っても家具は一生ものよ。どうせ買うなら、いいものを揃えた方がいいに決まってるでしょう。
 そういった「一生もの」という言葉に惑わされ、高価なものを買ってしまって後悔した経験を持つ人は、少なくないと思う。
 倹約家の私でさえ、若い頃、高価な家具を「一生もの」だと信じて買ったことがある。
 だが、それらの家具は、引っ越すたびに少しずつ処分していき、今は一つも残っていない。大地震などを想定し、「もしも倒れたら危ない」と思ったり、天井との隙間に設置する突っ張り棒が、地震の揺れでいとも簡単に外れてしまう映像をテレビで見てしまったことも要因だ。それ以降は、自分の腰の位置より低い家具か、段ボール製の家具しか買わなくなった。
 さらに身に着けるものとなれば、「一生もの」であり続けることは難しい。年齢や環境とともに好みが変わっていくし、体形も変化するし、流行もある。
 幼稚園の頃だったか、近所の仕立て屋さんで、姉とお揃いの半袖ワンピースを作ってもらったことがあった。出来上がって着てみると、シャリ感のある生地が素肌に触れるのが不快だった。「着たくない」と母に言うのが子供心にも申し訳ない気がしたが、思いきって言ったのを憶えている。母がどう応えたかは憶えていないが、それ以降は一度も着ていない。
 そして六十歳を過ぎた今でも、シャリ感のある生地や、ごわごわした麻が苦手で、特に夏は綿百パーセントのものしか着ない。
 気づけば、何度も洗濯を繰り返して同じ服ばかり着ている。それは第一に、肌触りが良くて着心地がいいからだ。
 同じ服ばかり着てしまうもう一つの要因としては、それを着ているときの自分は、「他人から見て変ではない平凡な姿」だからだろうと思う。悪目立ちしていないと思えば落ち着いた気分でいられる。
 その一方で、ほとんど着ない服がある。気に入って長く着るかどうかは、「ものがいい」だとか「有名ブランドのもの」だとか「高かった」などは一切関係ないようだ。
 バッグを買うときも、店員さんに重量を尋ねるようになった。店員さんの「軽いですよ」は主観であって、私には重いことが多いからだ。それに、店内で持ってみると軽く感じる。中身が空っぽだからというだけでなく、長時間持ち続けるときの負担が実感できないからだ。
 親切な店員さんは、奥からデジタルのクッキングスケールみたいなハカリを出してきて測ってくれることが多い。私は三百五十グラム以上だと買わないと決めている。だから、ネットで買うときは、重量の記載がないバッグは絶対に買わない。
 旅行といえば、キャリーバッグは宿泊日数によって大中小と三種類も持っている。最初のうちは満足して三つとも頻繁に使っていたが、そのうち、もっと軽く、もっと車輪の動きがスムーズなものが欲しいと思うようになって買い替えた。
 それらも性能に十分満足して何年も使い続けていたが、ある日、布製の方がたくさんポケットがついていて便利だと気づいてしまった。いちいち空港で大開きしなくとも、傘やガイドブックなどはポケットからすぐに取り出せるし、ペットボトルも突っ込んでおける。そういえば、空港で見かける欧米人たちのキャリーバッグは、圧倒的に布製が多いのではなかったか。
 うーん、どうしよう。
 しばらく考えてから、またまた買い替えてしまった。使ってみると、思った以上に便利だったので、やっぱり満足している。
 そんなこんなで、いつの間にか「一生もの」という考え方が頭の中から消え去った。それどころか、「いいものを長く使う」という考えも消えた。買った時代には「いいもの」でも、何年か経つと新しい素材が開発され、さらに便利なものが出現するのだから仕方がない。
 だが、ここにきて考えた。
 もう六十歳を超えたんだから、さすがに今から買うものは一生ものになるのでは?
 だったらこれからは、そのことを肝に銘じて買いものに臨んだ方がいいのではないか。
 ちなみに、私は八十五歳までは生きるつもりだ。何の根拠もないのに八十五歳と決めている理由は、何歳でもいいから一応は決めておかないと、未来があまりにも漠然としていて気持ちが落ち着かないからだ。とはいえ、長生きする自信はまるでないので、単なる願望とも言えるのだが。
 私の周りの同世代の女性たちは、五十歳を過ぎたあたりから自分の老い先が短いことを俄然意識するようになっている。となると、習い事だったり映画館だったり旅行だったりと、人それぞれだが、急に出かける回数が増えてくる。
 残り少ない人生をどう楽しく有意義に過ごすべきか。
 健康寿命はあと何年残っているのか。
 思い残すことはないか。
 そうやって、常に残りの年数を逆算して暮らしているといっても過言ではない。私の周りの女性たちの全員が全員そうなのだから、人間とは昔からそういうものだったのかもしれない。
 しかし、まさかこういった冷静な気持ちで残りの年数を逆算して生きる境地に達するなんて、若い頃は想像もしていなかった。やはり、歳を取らなければわからないことがたくさんある。
 八十五歳まで生きるとなると、死ぬまであと二十年ちょっとだ。
 そうなると、「一生もの」だと意識していようがいまいが、「あら、死ぬまでコレ使ってたわ」と死ぬ直前に気づく代物が出てきそうだ。
 それはハンカチかもしれないし、大根おろし器かもしれない。
 二十代や三十代の人に、「これは一生ものですよ」などと勧める店員は疑ってみた方がいい。喪服でさえデザインの流行り廃りがある。とはいえ、私の喪服は姑のお下がりである。肩パット入りの古い型だが、着心地がいいので買い替える予定はない。
 振り返ってみると、いろいろな物を買って生きてきた。
 教材を買い揃えて通信教育に励んだこともあったが、途中で自分には向いていないとわかってやめたこともある。それらは高い授業料だったが、チャンスを得ようと挑戦した若い頃の自分が、愛おしく思えてくる。どうせダメなのだから最初からやらなければ良かった、などとは決して思わない。
 意外にも後悔はないのだった。
 冒頭に書いた家具にしても、三十数年前と今では貨幣価値が違うから、それほど高価だったとは思えなくなってきた。それに、あの当時は毎日素敵な家具を眺めて暮らしていたのだ。そんな情景が、懐かしい思い出となっている。
 えいやっと思いきった若き日の自分がいて、今日がある。
 そして、八十歳を過ぎても、きっと凝りもせず、洋服や家電や家具を買い替えているに違いない。

 

(第4回へつづく)