パリオリンピックが終わってしまった。
 毎日見ていたので、楽しみがいきなり奪われたようで、しばらく腑抜けたようになった。
 それにしても、SNS上での選手に対する誹謗中傷はなんとかならないものか。匿名性とは、これほどまでに人間の醜さをさらけ出してしまうものなのだろうか。
 選手の態度が気に食わないだとか、失点して負けてしまったことなどに文句をつける人がいる。   
 ──これは誹謗中傷ではなくて批判ですから。
 ──批判ではなくて批評ですけどね。
 などと、まことしやかに言う人がいる。
 そんな言葉にごまかされる人がいると思っているのだろうか。誹謗中傷というものが、批判や批評とは全く別物であることは、ほとんどの人は直感的にわかると思う。
 ──あれは正義感から来るものですよ。
 そう言いきる人も少なくない。自分には信念があり、自分の考えこそが正義であると信じて疑わない。教え諭してやる、という上から目線だけならまだしも、成敗してやる、というような恐ろしさも感じることがある。
 こんなあれこれを聞くたびに、「話せばわかる」の限界を感じて絶望しそうになる。
 随分前のことだが、あるプロ野球選手が自宅で過ごす様子をテレビで放送していた。彼はリビングのソファに座り、自分が出た試合の録画を見ていた。バッターボックスに立ち、思いきりバットを振ったが、空振り三振に終わったとき、観客席から一斉にブーイングが起こった。
 そのとき彼は、テレビの中の観客に向かって叫んだ。
 ──だったら聞くけど、お前らなら打てんのか!
 その様子を見てスタジオではみんなが笑い、テレビの前の私も笑った。
 そして私は、彼のその言葉をとても新鮮に感じ、その後も長い間、心に残り続けた。
 私の小説に対する批判もときどき目にする。それが的を射ないものだった場合、私も心の中で叫ぶことにした。
 ──だったら聞くけど、あなたは五百枚もの長文を書けるのか!
 あくまで「長文」であって「心打つ小説」でないところが、我ながら小心者だと思う。
 だからオリンピック選手も言えばいいのだ。
 ──だったら聞くけど、あなたならあんなに速い球でも打ち返せたの?
 ──だったら聞くけど、あなたなら私よりもっと速く泳げるの?
 もちろんSNSで公開する必要はない。世の中いろいろな人がいるから、自宅で叫ぶか、誰かに言うにしても親しい人だけに留めましょう。
 いつ頃からか、トーンポリシングという言葉が使われるようになった。
 和訳すると「話し方警察」ともいうらしい。話し方のトーン(Tone)を取り締まる(Policing)という意味だ。
 元々は、発言の内容そのものではなく、その口調や顔つきがよくない、生意気だ、礼儀知らずだ、などと、ズレた論点で批判することを言うらしい。タチが悪いのは、それらが相手の発言を封じ込める意図で使われることだ。
 スウェーデンのグレタ・トゥーンべリさんが、初めて環境問題について訴えたときのことだ。
 ──その言い方がきつい。
 ──もっと言いようがあるだろう。
 ──あの目つきや口調から見て精神的に少しおかしいところがある。
 そう言って、世界中の大人たちが勇気ある少女を口々に批判した。
 生意気な女は許せないという、昔ながらの男たちの女への差別発言だと思っていたら、知人女性も全く同じように彼女を批判したので、本当に驚いたし、自分のことのように悔しくてたまらなかった。
 彼女はまだ十六歳だったし、聡明で正義感に燃える、私の好きなタイプの少女だった。
 彼女を批判した人々に私は聞いてみたい。
 ──あなたは十六歳のとき、あれほどの勇気がありましたか?
 ──あなたは十六歳のとき、もっと話し方がうまかったのですか?
 ──あなたは十六歳のとき、もっとにこやかに大人に気に入られる話し方ができましたか?
 この三点のうち、私は最初の「勇気」だけはあるが(私の場合は単に向こう見ずかもしれないが)、あとの二点はまるでダメだ。十六歳どころかオバサンになった今でも難しい。たぶん死ぬまでダメだろう。
 そもそも環境問題の話をするのに、「可愛らしい少女」を装う必要があるだろうか。もっと「恥ずかしそうに」「女の子らしく」「おしとやかに」「遠慮がちに」「環境大臣などの年上の男性を立てながら」「柔らかな言い方で」言えば人々は満足したのか。彼女は環境問題を放置する大人たちに心底怒っているのだ。
 私自身も自分に甘くて他人に厳しい傾向があると自覚している。そのことで日々反省したり、いやいや人間なんてみんなそんなもんでしょなどと開き直ったりすることもある。だが、世の中には私の想像を上回る厳しい考えを持つ人間がたくさんいることを知って、一種の安心感を得たほどだ。
 十代の頃に感じたことや考えたことは人間の本質を突いていると、私は若い頃から感じてきた。それが大人になるにしたがって、義理人情や経済や暮らしや自己愛や体裁で目が曇ってくる。
 だからこそ、十代の少年少女の意見を無視すべきではないと思うのだ。
 二十年後か三十年後か、それとももっと早い時期に、こう言って後悔するのではないか。
 ──あのときグレタ・トゥーンべリさんの言う通り、CO2の排出を徹底的に制限すべきだった。今では海や川の魚は一匹残らず死んだし、野菜は全く取れなくなり、地球上のほとんどの人間が死んでしまった。あのとき、どんなに生活が不便になろうとも、まるで原始時代かと思うような暮らしになろうとも、彼女の話に耳を傾けるべきだったのだ。だが、もう遅い。嗚呼!
 なんてことになるかもしれません。
 いや、冗談じゃなくて。

 

(第29回へつづく)