向井千秋氏は、日本人女性初の宇宙飛行士になった。
 彼女をテレビで初めて見たときのことは、今でも鮮明に憶えている。
 そのとき私はまだ二十代半ばだった。
 今思えばこのときの私は、骨の髄までルッキズムに毒されていたと思う。向井氏のそれまでの凄まじい努力や成果よりも、外見に注目したのだった。
 髪型が昔の中学生みたいなショートカットで、そのうえ化粧っ気もなく日に焼けていた。それを見た私は、彼女をバランスの取れていない人だと即断したのである。
 その当時の私が考えていた「バランス」とは、仕事も一生懸命やるが外見も整えなければならないとする考えだった。女が化粧をするのは常識であって、髪型もお洒落でなければならないと信じていたのである。
 お節介な私は、今まで何度か知人や友人に忠告したことがある。
 ──最低でも眉毛くらい描いたらどうよ?
 ──お子さん、まだ小学生でしょう? だったら髪を染めた方がいいんじゃない? PTAに行ったとき、若いお母さんの中であなただけ白髪で老けて見えたら子供が可哀相じゃない?
 ──ファンデーションを塗りすぎだよ。もっと薄くして、塗ってるかどうかわからないくらいがちょうどいいのよ。
 ほんと、大きなお世話でした。
 いったいお前は何様なんだ、と過去の自分に言ってやりたい。
 だが、言い訳させてもらえるならば、それらは百パーセント善意から出たものだった。私なりの思いやりだったのである。だって私は、化粧やお洒落を「女の常識」であり、「女のたしなみ」であると捉えていたからだ。だから、そこから逸脱している友人に、「ご親切にも」意見したのだ。
 しかし、人生を振り返ってみれば、「着飾り」なんかのために、どれほどの時間とお金を無駄にしてきただろうと思う。
 歳を取って時間の大切さをしみじみと感じるようになり、ルッキズムの風潮の罪深さが、思っていた以上に人生を邪魔するものだったと気づいた。
 例えば、男は朝起きたら顔を洗って着替えて朝ごはんを食べて(または食べずに)昨日と同じか、それとも似たようなスーツを着てさっと家を出る。だが女は化粧をして髪型を整え、昨日と違う洋服を見繕ったりするから、家を出るまでに時間がかかるだけでなく、貴重な資源である脳ミソを朝から消費してしまう。
 私は何をするのも手早いので、これまであまり気にしてこなかった。それどころか、夏の暑い日にスーツを着てネクタイをしている男性を可哀相だと思ってきた。今はスーツを着て出勤する男性は減り、職種にもよるがラフな格好になった。とてもいいことだと思う。
 思えばクールビズという言葉が流行り、羽田孜元総理が半袖の背広を愛用するのを見たときは驚いた。夏の盛りでも、そこまでして男性はスーツを着用しなければならないのかと不思議に思ったものだ。
 しかし、世の人々の考えは少しずつ変わりつつある。
 地球温暖化や電力不足だけでなく、健康志向やセクハラなどの問題などもあって、服装に関しては良い流れになっている。
 私は札幌の仕事場と東京を行き来するときは、いつもスカイマークを利用するのだが、女性の客室乗務員がスカートではなくズボンを穿いていることに、ある日気がついた。足元を見るとパンプスではなかった。ズボンの裾に隠れてはっきり見えなかったが、黒い革靴か、それとも合皮の黒いウォーキングシューズのいずれかに見えた。
 それを見て、他人事ながら安心感がひろがった。女であれば、タイトスカートとハイヒールがどれほど労働に適していないかを知っている。それも飛行機内の、あんなに狭い通路を行き来して仕事をするのだ。
 逆に、タイトスカートとハイヒールを長年に亘って強制してきたことが、今では信じられない思いがする。服装を「強制」しようとする感覚に、腹が立つというよりも、意味がわからず唖然としてしまう。
 外国でも女性の服装に対する縛りはなくなりつつあるようだ。イギリスでは、大手会計事務所の受付係がフラットシューズを履いて出勤したことを理由に解雇されたことがあった。そんなに昔のことではない。二〇一六年のことだ。こういった場合、泣き寝入りしないで訴えを起こす女性が増えているから、どんどん服装の縛りがなくなっていく。喜ばしいことだ。
 いつだったか、ツアーガイドの若い女性がハイヒールを履いて案内してくれたことがあった。山道や階段もあったから、やんわり指摘すると、「私は全然平気ですよ」と自慢げに言って、わざわざ走って見せてくれた。
 そうじゃないんですよ。若い時は誰だってヒールで走れるんですよ。歳を取ってから苦労することになるんです。
 外反母趾のせいで足が痛み出したのは中高年になってからで、若いときには気づかなかった。自分の足の形を見て、「ほんの少し外反母趾かもね。でも世間で騒いでいるほどではないから関係ない」と、私はずっと思ってきた。
 だが五十代の頃から痛み出し、ためしに同世代の友人知人に尋ねてみると、みんな一斉に「履く靴がない」「何を履いても痛い」と言ったのだ。往生際が悪いのだが、まだその年齢の頃は、スニーカー一択といったところまではお洒落をあきらめきれなかった。どうにかして、「お洒落だけれども痛くない靴」を探そうとした。デパートでシューフィッターに計測してもらって高価なパンプスを買ったこともあった。だがダメだった。そんなことを何度か繰り返した末に、やっとあきらめがつき、ウォーキングシューズとサンダル以外は履かなくなった。
 足の健康を思うと、ヒールの高い靴など履かない方がいいのは一目瞭然だ。私が若い頃は、たいていの日本人女性の足に合わないような幅の狭い靴しか売っていなかった。それを思うと靴メーカーの責任も重い。洋服と違って、「お直し」ができないのだ。
 それでも背を高く見せたいと思う人がいるのならば、全体が厚底になっているスニーカーを履けばよいと思う。まっ、これも大きなお世話ですが。
 話のついでに、歳を取るにつれて感じ方が変わってきたことを羅列してみようと思う。
 私もあの時代のご多分に漏れず、若い頃は背中まで髪を伸ばしていた。流行っていたから、私の周りの女性も同じような髪型をしている人が多かった。だが歳を取ると、それが「不必要なもの」としか思えなくなった。転んだ拍子にエスカレーターやエレベーターの隙間に巻き込まれないかと心配になる。つい先日も酔っぱらった男性がエスカレーターの隙間にネクタイを吸い込まれて死亡した。ネクタイも不要だ。
 厚化粧している人を見ると、気持ち悪いと思うようになった。特に真っ赤な口紅をぬらぬらと光らせている人とは一緒にご飯を食べられなくなった。
 公共の場でいちゃつくカップルを見ると、ぞっとするようになった。老人になれば、それらを「微笑ましいもの」「懐かしい姿」として、温かい目で見守るものだとずっと思ってきた。だが実際は違った。獣臭のようなものを感じてしまい、思わず目を背けてしまうようになった。 
 こう考えてくると、私はたぶん、八十代や九十代の人々の気持ちや考え方は、まったくわかっていないのだろうと思う。
 最後に、私の提言を書かせてもらいたい。
 テレビのアナウンサーは俳優ではないのだから、外見の良し悪しを考慮に入れずに選考してもらいたいと思う。NHKのニュース番組にしても、昭和時代そのままに、中高年のオジサンと若い美女の組み合わせがほとんどだ。
 そういった男女の組み合わせを、幼い子供たちも日々目にすることになるから、その影響力は計り知れない。こういった細かなことも、女性の生きにくさを助長していることに気づいてもらいたい。

 

(第21回へつづく)