女子サッカー誕生秘話の特集番組を見た。
 NHKの新プロジェクトX~挑戦者たち~「なでしこの花咲く日まで~サッカー女子 不屈のバトンリレー~」だ。
 驚いたのは、女子サッカーが世界中で禁止されていた時代があったことだ。
 それほど昔の話ではない。イギリスでは一九七一年まで、ブラジルでは一九七九年まで、ドイツでは一九七〇年まで禁止されていたという。
 それも、世界大会やオリンピック種目として認められていなかったというだけの話ではない。女子がサッカーの練習をすること自体が「禁止」されていたのだ。その理由として、ドイツでは「女性らしい優雅さを失ってしまう」で、ブラジルでは「女性に適さない」というものだった。泥んこになって身体をぶつけ合うなんて、女がやるべきではないという考えだったらしい。
 それを知った途端、気持ちがどん底に落ち込んだ。
 男が牛耳る社会というのはこういうものなのだ。女のことまでこまごまと決めたがる。それも重大事項でも何でもない。生死にかかわることでもない。そして、男性の権利を侵すわけでもない。
 単にサッカーなのだ。球技なのだ。ボールを蹴るゲームなのだ。
 そんなことまでなぜ禁止するのか。
 女はこうあるべきと、なぜ男が決めるのか。
 エライ男たちは、いつの時代も女を管理したがる。彼らの心にあるのは非情で執拗な差別意識だけではない。本人たちは気づいていないだろうが、心の奥底には嗜虐趣味や性的嗜好が確固として存在している。それらを思うたびに、鳥肌が立つ思いがする。
 女を差別して見下しているのならば、その女という生物は「取るに足らないつまらないもの」にすぎないのではないか。ならば、そんな生物がどこで何をしようと放っておけばいいじゃないかと思う。それなのに、一部の男性たちは、どうしても自分たちの管理下に置きたがる。
 そんな気味の悪い時代を経て、女の分際でもサッカーをしてもよいと「許可」を与える国が増えていき、女子のサッカーチームが世界のあちこちで作られた。 
 そして二〇一一年のワールドカップだ。
 なでしこジャパンが優勝を果たした。あのときは感激し、テレビの前で歓声を上げたものだ。決勝戦で敗れたアメリカチームは日本チームを賞賛し、日本選手に握手やサインを求めた。そんな姿にスポーツマンシップを感じ、アメリカの女子選手のカッコよさに惚れ惚れしたものだ。
 つい先日、石破茂氏が総理大臣になった。
 党内選挙の前は選択的夫婦別姓に賛成していたはずなのに、総理に選ばれた途端、あやふやな発言に変化した。
 夫婦別姓はあくまでも選択制であるのに、なぜ反対するのかが私にはわからない。国会議員の年齢層はかなり高いから、封建主義的な考えの男性が多いのだろうが、ヨソの夫婦のことにまで口を出す意味がわからない。
 しつこいようだが、男尊女卑だとか、差別だとか言う前に、なぜ他人のことまで口を出したがるのかが、本当に私には理解不能なのだ。
 国民を「ごうの衆」と捉えていて、わしら国会議員が指導してやらねば日本はダメになるとでも思っているのだろうか。あんたたちより賢い人間は、日本中に吐いて捨てるほどいるんですが、と言いたくなる。
 そんなこんなで立腹したり、一人勝手に傷つき落ち込んだりしているときだった。間が悪いことに、撮りためておいた録画の中から、NHKの「ドキュランドへようこそ」を見てしまった。今回の内容は、「秘密の文字―中国 女書によしよの文化を伝えてー」というものだった。
 纏足てんそくで家から出られない女たちの悲痛な叫びを、女だけが知っている女書という文字を使って互いに手紙を交換し、慰め合った時代のドキュメンタリーだ。
 女から自由を奪い、あの手この手で自立を妨げようとする。日本も、先進国の中ではいまだに男女の賃金格差が是正されない。いったん勤めを辞めた女性はパート仕事にしか就けないことがほとんどで、経済的に自立できない構造になっている。
 昔から現在に至るまで、女が逃げないよう、家庭に縛りつけておけるようにと、一部の男たちの必死な姿が浮かび上がってくる。
 ということは、女たちが現状から逃げたいと思っている、逃げる機会を今か今かと窺っている、というのを男たちは重々承知しているということだ。それほどつらい立場に置かれていることをわかっているのだ。
 だが決して逃がさない。女ほど便利で重宝する奴隷は他に類を見ないからだ。
 そこに一部のエライ男性の、卑しい人間性を見てしまう。
 アンフェアが解消されるには、いったいあと何百年かかるのだろう。
 どうしようもなく気持ちが沈んできたので、今日はもう寝ることにした。

 

(第31回へつづく)