最近になって、ルッキズムについて考えるようになった。
 きっかけは、『脱コルセット:到来した想像』(イ・ミンギョン著)を読んだことだ。
 タイトルにある「コルセット」というのは、実際のコルセットのことではなく、化粧や洋服やハイヒールなど様々な女の「着飾り」全般を象徴した言葉だ。
 韓国の美容整形文化を馬鹿にしている日本人はいると思う。韓国女性はみんな同じ顔に見えるね、いくら何でもそこまでやるかね、などと言って嗤う。
 実は私もその一人だった。だが、この本を読んで、大きく考えが変わった。
 そもそも──
 どうして女は着飾るのか。
 どうして女は化粧をするのか。
 どうして女は美容整形に走るのか。
 その答は超簡単だ。女は外見で評価されるからだ。
 こんなことは大昔から周知の事実であって、この著作を読んだからといって、今さら驚くことではない。
 だが、想像していた以上に、女たちはルッキズムによって性格や人生までをも大きく歪められてきたことに思い至り、しばし考え込んでしまった。
 そういえば、つい先日もこんなことがあった。近所のカフェにパソコンを持ち込んで仕事をしていたときのことだ。大学生らしき男三人が店に入ってきて、私のすぐ隣のテーブルに陣取った。話し声が大きいので店中に彼らの声が響き、私は仕事に集中できなくなった。
「昨日の夜、お前、あれからどうした?」と、尋ねる声が聞こえてきた。
 それに答える声が聞こえないので、気になって顔を上げると、お前と呼ばれた男子学生はうつむいてコーヒーを飲んでいた。
「こいつ、例の女と二人で飲みに行ったんだよ。それも高級なとこ」と、隣の男子が代わりに答えた。
「うそっ、信じらんねえ。お前、あんなブスにおごってやったの?」
「ああいうのが好みとは知らなかったなあ」
「違うよ。成り行きで仕方がなかったんだよ」と、やっと彼は答えた。
「だよなあ。無駄遣いもほどほどにしろよ」
「わかってるよ。俺だって後悔してんだよ。ブスと結婚するくらいなら一生独身の方がましだよ」
「そんなの当たり前だろ」
 それらを聞きながら、私は他人事なのに深く傷つき、知らない間に息を止めていた。
 世の中は、こういった低レベルの連中がたくさんいるのだろうか。それともこれが男たちの本音なのか。
 恋愛においては、外見の良し悪しが大きな決め手となるのは男性も同じだ。だが男性は他の面でかなり挽回できる。性格や学歴や経済力や実家の立派さなどに魅力を感じる女もいる。
 男女問わず、美形であれば性格まで良さそうに見えるし、頭も良さそうに見える。例えば、頬杖をついて物憂い表情で窓の外を眺めている人がいたとする。美人であれば、あるいはイケメンであれば、何か難しいことを考えているのではないか、深く悩んでいるのではないか、などと思ってしまう。だが、不美人や非イケメンだったりしたら、「さっきからぼうっと呆けたような顔しやがって。怠けてないでさっさと仕事しろよ」などと言いたくなる。つまり、見た目が人格や能力の評価に直結してしまう側面もあるのだ。
 顔の良し悪しに関しては、女性の場合は目がぱっちりして鼻筋が通って……などと型がだいたい決まっている。だが男性の外見のカッコよさは、女よりバラエティに富んでいる。その証拠に、俳優であっても、綾野剛、高橋一生、田中圭、星野源、菅田将暉、小栗旬など、正統派イケメンでなくても、なぜか三枚目の役ではなく、恋愛ドラマで主役を張れる人は数えきれない。だが女優の場合はそうもいかない。
 身体つきにしても、男は細身であっても、がっちりしていても、それぞれに魅力があるとされる。だが女ががっちり体型だと、「俺よりガタイがいい」などと言ってからかう男がいる。背が高くて肩幅が広い女性を見ると、私などは立派な体型だと思って羨ましくなるし、生き物として上等に感じるのだが。
 つまり、世間の女に対する美の規範はとても狭いのだ。
 女の場合は、容姿の差が就職時における面接の合否に影響を与えることもある。そうなると、まさに死活問題であり、美容整形をしたくなる気持ちもわかるというものだ。
 仮に就職がうまくいったとしても、先進国の中で韓国や日本は男女の賃金格差がいまだ大きい国である。それを考えれば、働けど働けど女は貧困状態から脱することが難しい場合もあるだろう。そこで結婚して男に養ってもらおうと考えても、それこそまた外見の良さが最重要となってくる。
 そんな経験をするうち自己肯定感がどんどん低くなる。努力や能力が認められず、美人ばかりが持てはやされる職場は、令和になってもまだあるだろう。今に始まったことではなく、中高時代にも、「可愛い女子コンテスト」と称して、陰でこっそり女子を順位づけするような心ない男子に傷つけられた人もいるかもしれない。
 化粧をする年齢が年々下がっているのも気になる。今では小学生でもファッションの流行を追い、化粧までするようになった。最初は驚いたが、今では普通のことになりつつある。子供が子供でいられる年数がどんどん短くなっているが、それは大人になったとき、心理的にどんな影響を及ぼすのだろうか。
 なんでこうなるのかと言えば、子供たちは敏感に、「女は外見こそが最も大切」というメッセージを、世間やマスコミから強烈に受け取っているからだ。
 私が高校生だった頃、クラスで化粧をしている女子は一人もいなかった。色付きリップをつけたら目立ったほどだ。高校を卒業してから初めて化粧方法を覚えるのが一般的だった。
 今はドラッグストアに行けば安い化粧品が並べられているが、今思えば当時は異常なほど高かった。口紅やファンデーションやアイシャドウなどのメイクアップ商品だけでなく、化粧水などの基礎化粧品と言われるものも、それぞれ最低でも三千円前後はした。今とは貨幣価値が違うことを考えると、現在の私の肌感覚で言うなら三万円以上に感じる。貨幣価値が十倍になったわけではないが、「頑張って買う」、そして「高かったから最後の一滴まで使う」といった感覚からすると、私にとってはそれくらいの価値に感じられる。
 その当時から、原価はせいぜい七十円くらいなのに高すぎるという批判もあった。それを考えると、なんでこんなボロ儲けの商売が成り立つのかと、今更ながら不思議に思えてくる。
 一般の女性がこぞって買うようになったのが戦後からだとすれば、化粧品会社の歴史はそれほど古くはない。女が化粧するのは礼儀であり常識であるといった、今考えればわけのわからない世間の価値観に女たちが洗脳されていったのだろう。冷静に考えてみれば、顔中に添加物を塗りたくっているのと同じことなのだ。
 そういった外見至上主義の中で、自分を他の女と比較しては優越感に浸ったり、劣等感の塊になったりする。そんな暮らしをしていれば、性格や人格までをも容易に歪めてしまう。
 そんな中で、劣等感から抜け出すために美容整形して美女となり、自信を持って堂々と生きていくことを選ぶ女がいても不思議ではない。考えようによっては、うじうじと悩んでいるより積極的に生きることを選んだとも言える。
 そう考えていくと、美容整形する人を、いったい誰が批判できるだろうか。
 女を美容整形に走らせる本当の犯人は誰なのか。そのことを今一度じっくり考えてみたくなった。

 

(第20回へつづく)