つい最近、齋藤孝著『「考えすぎて言葉が出ない」がなくなる』を読んだ。
 人とのコミュニケーションの取り方を指南したものだ。具体的な言葉まで細かに書かれていたから、それを真面目に実行すればきっと役立つ本なのだろう。
 だが私はあんたんたる気持ちになってしまった。円滑に人間関係を保つには、そこまで気を遣い、家でひとりで練習までして技術を身につけなければならないのかと溜め息が出てしまったからだ。他人とコミュニケーションを取るというのは、実は大変な労力を伴うことなのだと改めて認識する結果となった。
 いつだったか、体力にまるで自信のない者同士で、会話について話をしたことがあった。彼女は、「にこやかに相槌あいづちを打つだけでも、その日の体力を使い果たしてしまう」と言った。私は生まれて初めて自分と同類の人間を発見した思いで、嬉しくなったものだ。
 そして何年前くらいからか、私の周りでは不思議な現象が起こりつつある。一方的に自分のことばかり話す人間が急増したのだ。
 久しぶりに会ったというのに、顔を見た途端に自分のことを話し始め、私の近況を尋ねることさえない。口を挟む余地もないほどで、立て板に水とはこういうことかと思うほどだ。
 二時間以上、いや四時間近く一緒にいるときでさえ、会話の九割五分以上を相手がしゃべっている。カフェやレストランなどで二人だけで向き合っている場合がほとんどだから、目の前に座っている相手に相槌を打たないわけにはいかない。
 人の話を長時間に亘って聞くのは疲れるものだ。その内容が興味深いものであったり、あるいは深刻な悩み相談であったりするのなら話は別だが、そんなことは滅多にない。
 内容のほとんどが自慢話だからストレスが溜まる。話すときの様子からして、本人は自慢話だという自覚はなさそうだ。なるほど自慢というのは言い過ぎかもしれない。だが幸福話とは言えると思う。
 身も蓋もないが、彼女らの話の共通点を要約してみると、
 ──自分がいかに周りの人々から大切されているか。
 ──経済的に老後は安泰であること。
 ──幸福感溢れる「たわいもないエピソード」。
 だいたいがこんなところだ。 
 私にとって興味も関心もない話が続くと、頭の中では違うことを考え始める。だが、たまに「どう思う?」などと聞かれることがあるので気が抜けない。
 人間とは、それほどまでに他人から興味や関心を持たれていると思っているものなのだろうか。それとも、そこまでは考えず、ただ単に話を聞いてもらいたいのか。
 とはいえ、私も少しは賢くなったようで、「口を差し挟む余地がない」などと感じて遠慮する必要などないことに、ある日突然気がついたのであった。
 それ以来、相手が話している途中であっても、自分に話したいことがあれば割り込むことにした。それまでの話題とは全く異なる内容であっても構わないと自分で決めた。そうでもしなければ、最後まで一言もしゃべらず時間が過ぎてしまうからだ。そうなると、やはりいい気分ではないし、ストレスが溜まる。しかし、私が割り込んだところで、数分後にはまたしても相手に主導権を奪われてしまうのだが。
 十代の頃から、たわいもない話が苦手だった。どこのケーキ屋が美味しいだとか、どこのバッグが可愛いだとかいう話題で、延々と何時間も話せるのが不思議でたまらなかった。たまたまその話の輪に入る機会があっても死ぬほど退屈で、偶然を装って席を立ってしまうのが常だった。
 歳を取った今ならわかる。そういう人たちとはもともと合わなかったのだということ、そして、自分と話が合う同世代の女性は少数であるということに。
 会話の中に、興味のある話や、身になる話や、感動する話や、社会問題や、珍しい体験談など何か一つでもなければ、時間の無駄だと感じてしまう。他人の噂話でも構わないのだが、そこから何か得るものが一つは欲しい。
 私は貪欲なのだろうか。それとも単に貧乏性なだけなのか。
 様々なつき合いの中で、「すごい! この人たちは何でも知っている」と、会うたびに感心するのは、出版社の編集者の人たちだ。
 私が「○○の問題は~」だとか、「最近は○○が流行っていますよね」などと話を振ったとき、「○○ってどういう意味?」「どんな漢字を書くの?」などと問い返されることは、まずない。
 彼ら彼女らは、政治や経済、環境問題から芸能人のスキャンダルに至るまで詳細に知っている。だから小説のテーマについて話し合うときも、説明が要らないから話が早い。
 旅先で知り合った人との会話もまた独特なものだ。というのも、共通の知り合いがいないから、他人の噂話などは一切出てこない。そうなると、昨今のニュースや世間の風潮や映画や本の話題となるから、楽しい会話になることが多い。
 何年か前に、世界中でベストセラーになったレベッカ・ソルニット著『説教したがる男たち』を読んだ。この本がきっかけで、「マンスプレイニング」という造語が世界中に普及した。MANとEXPLAINから成る言葉だ。
 簡単に説明すると、尋ねてもいないのに女性に説明したがる男性が多いというものだ。つまり、「物知りの俺様が無知な女たちに説明してやっている」という、上から目線である。だが女たちはとっくに知っている事柄であることが多く、ウンザリしてしまう。
 私自身も、そういった場面を子供の頃から数えきれないほど見てきた。私より上の世代の女性の多くが、そういった男性の説明に、感心したような顔でいちいち頷くというサービスをやってのけたものだ。
 既知の事柄であっても、「すごいですね」「物知りですね」などと言って、仮に私が相手を持ち上げることがあるとしたら、営業職で客に物を売りつける場合か、さもなければ相手が子供の場合だけではないかと思う。
 だが、説明したがるのは実は男性だけではない。男性に負けず劣らず女性の中にも多く存在することに気がついた。前述の「立て板に水タイプの女性」の多くが、「説明したがる女たち」でもある。
 私の周りの人々に限ってのことかもしれないが、説明したがる内容には男女で違いがある。男性は知識をひけらかしたがるが、女性は人生論や人づき合いの極意を語りがたる。
 どちらにも共通しているのは、「俺の方が、私の方が、あなたよりよく知っている」という前提が心の中にあることだ。普段は、「私なんかどうせ」などと言っている人でも、みんな心の底には自惚うぬぼれが確固として存在する。
 そして、そんな自己愛は精神の安定を助けるのだろうし、悲しいかな、「相手より自分の方が上」という思いが、人間が生きていくうえで必要なことなのかもしれないと思う今日この頃である。

 

(第27回へつづく)