ふと気づけば、自分に向かって「大丈夫、大丈夫」と繰り返し呪文のように心の中で語りかけたり、「あなたはよく頑張ってるよ」と、自分で自分を慰めたりしている。
 そういったことが、最近まで長年に亘って続いてきた。ところがここにきて、その呪文に「気にしない、気にしない」が加わるようになった。
 今日もジムに行ってインストラクターの心を傷つけるようなことを言ってしまった。申し訳なさでいっぱいになり、帰り道に「気にしない、気にしない」を口の中で繰り返した。
 私が通うジムは女性限定で、インストラクターも全員が女性だ。
「その調子、いいですねえ。はい、一、二、三」などと言いながら、いつものように若いインストラクターが私の肩やお腹に手を置いた。
 今までずっと我慢してきたのだが、今日は思わず手を払いのけてしまった。びっくりして後退りするインストラクターに、私は慌てて言った。「ごめんね。申し訳ないんだけど、身体を触るのをやめてもらっていいかな」
 相手はすぐさま「わかりました」と言い、そのあとは掛け声だけとなった。実は、耳元での大きな掛け声も鬱陶しいし不要なのだが、それもやめてほしいとはさすがに言えなかった。
 手の角度が間違ってますよ、だとか、こうやった方が効果的ですよ、などという具体的な指導があるのであれば、必要に応じて身体に触ってもらっても全く構わない。だけど、必要もないのにべたべた触るのはやめてほしい。当たり前のことではないだろうか。
 インストラクターから指導も掛け声も取り上げてしまったら、彼女らの仕事がなくなる。そう考えて、じっと我慢している心優しき年配女性がたくさんいるのではないかと思う。
 マシンの使い方は一回教えてもらえばわかる。だからマシンだけがあればいい。インストラクターは要らない。そう思っている人は多いはずだ。だからこそ、今や無人の二十四時間フィットネスが流行っているのだ。私もその類いのジムを探したのだが、近所では良さそうなジムが見当たらなかった。
 私は悪目立ちしないように常日頃から気をつけてはいるのだが、こういったことで顔と名前を覚えられてしまうことが多い。インストラクターたちの間で、「あの人、感じ悪い」と、私について悪い評判を共有する可能性は高い。そういった目を向けられるのは嫌だが、とはいうものの、その引き換えとして、今後は誰も私に近寄ってこないという快適さを手に入れることができた。
 いきなり話が飛躍するが、今まで私はこうやって生きてきたんだなあと来し方を振り返って苦笑してしまう。失うものも多いが、得るものも多い。
 ……と、書けば何やらカッコいいが、単に向こう見ずで、先のことを計算できないだけだ。
 そして僭越ながら、不必要に身体を触られるのが嫌な年配女性が他にもたくさんいるのではないかと、インストラクターの人々が考えるきっかけになってくれればと願う。
 若い人は錯覚しているのではないか。老人はみんな寂しいのだと。
 知り合いの若い看護師に、こんな話を聞いたことがある。ある日、八十代の男性入院患者の背中をさすってあげようとしたら、「悪いけど、身体に触らないでほしい」と言われたらしい。彼女はそのことに、かなり驚いていた。さすってあげればきっと喜ぶに違いないという間違った思い込みがあったのだ。
 SNSが普及したからか、それとも情報が溢れているせいなのか、人間関係がどんどん複雑化してきているように思う。
 ──あっ、今の言い方、相手の気分を害したかも。
 そう思って後悔することは日常茶飯事で、毎日が反省の繰り返しだ。
 ──もしかしたら今の言い回し、下品な人間だと思われたかも。
 そう思うこともしょっちゅうだ(実際、下品な人間なのだから気にすること自体がおかしいのだが)。
 そして自分も含め、周りの人々にも寛容さがなくなったように思う。言い方を少し間違えただけで、人々は怒り、簡単に離れていくようになった。
 ハラスメントという言葉が広範囲で使われるようになった。最初はセクハラだけだったのが、パワハラ、マタハラ、モラハラ、カスハラなど、どんどん増えつつある。
 耐えるのはもう美徳ではない。おとなしく我慢していたら、感謝されるどころか、もっと舐められる。そんなことに、みんなが気づき始めた。そういった息苦しい空気の中で、どうしたら楽に暮らしていけるかのヒントを得る機会があった。
 拙著『あきらめません!』が文庫化するとき、文庫の帯に言葉をもらおうと、元安芸高田市長で都知事選に立候補した石丸伸二氏とズームで対談した。
 石丸氏のことを詳しく知っていたわけではないが、以前から「自分の人生をコレに使う」という彼の考え方に共感していた。
 つまり、日本をよりよくしていくために、自分の人生をどうやって消費していけばいいかを考えて生きるというものだ。自分の特性を最大限に生かして役立つ方法を模索している。
 それを知ったのがきっかけで、私も微力ながら「女性の地位向上に自分の人生を使おう」と考えるようになった。
 すると、驚いたことに生きるのがぐっと楽になった。
 その壮大な目的のために自分は生きているのだ。そう考えれば、日常の人間関係における行き違いなどは些末なことだと思えるようになった。
 日々の後悔や傷心や劣等感や優越感や焦心がぐんと減ったように思う。
 人間関係でつまずくたびに、壮大な人生の目的を思い出すようにすると、気持ちの切り替えが以前より少しばかり早くできるようになった気がする。

 

(第37回へつづく)