私の同級生の母親であるAさんが言った。
 ──当時は舅姑との同居で、たくさんの嫌な思いをしたが、そんなあれこれを娘や息子には言えない。墓場まで持っていくしかない。
 Aさんは八十代後半で、舅姑は既に他界している。
 時代背景もあるし、当時はどこの家でもそういったことは多々あったに違いない。家政婦のようにこき使われて苦労した女性も少なくないだろう。
 Aさんはこう考えたのではないか。
 ──「優しかったおじいちゃんとおばあちゃん」という子供たちの温かい思い出を壊すのはよくないことだ。
 Aさんを立派な人だと思う。自制心のある強い人だと思う。
 誰しも嫌な目に遭うと、誰かに聞いてもらいたくなるものだ。だが舅姑のこととなると、自分の子供に言うわけにはいかないと考え、遠くの友人に愚痴ることでストレスを軽減しようと試みる人もいるだろう。
 だが舅姑に会ったこともない他人に言ったところで、ストレスの軽減度はたかが知れている。できればよく知っている人に言いたいのだが、夫に言うわけにもいかず、子供にも言えないとなると、なかなかに苦しい。
 しかしAさんの場合、子供はもう六十代なのだ。子供たちにしても、それまでの人生で人間関係に日々苦労してきたことだろう。となれば、母親の若い頃の苦労話も、聞けば何かしら役立つことがあるのではないか。
 人には様々な顔がある。親きょうだいに見せる顔、配偶者に見せる顔、子供に見せる顔、友人に見せる顔、会社で見せる顔、通りすがりの人に見せる顔……そんな多面性があることも、大人になれば誰しも知っている。
 それどころか、娘自身も嫁の立場になり、当時の母親のことが理解できるようになっている場合もある。
 ──そんな祖父母の顔なんて知りたくない、信じたくない。
 中高年になってからでも、そう思う人もいるのだろうか。幼い日の懐かしい思い出が台無しになるからと。
 祖父母の別の顔を知ったことで、母親が自分に向けたストレスの理由がわかることもある。
 ──あの時期いつもお母さんがイライラしてたのは、そういう事情があったのね。だから私にストレスをぶつけていたんだね。何も私のことが嫌いだったからじゃなかったんだね。
 などと、納得がいくきっかけになることもあるだろう。
 息子にしてみれば、自分の妻がそういう目に遭わないよう配慮するきっかけになるかもしれない。
 それまで思ってもみなかった悪口を聞かされたことで、祖父母に失望したり、そんなことを今になって口にするなんてと、母親を軽蔑する単純な人もいるだろう。
 それはそれで仕方がないと思う。世の中には、人間の心の裏側まで敏感に察知できる人とできない人がいるものだ。
 しかしその一方で、冒頭のAさんのように墓場まで持っていって、子供たちの思い出を美しいままにしておくのも一理ある、とも思う。
 あんなに優しくしてもらって幸せだった日々が自分にもあったのだと、子供たちはつらい時に思い出して勇気づけられることもあるだろう。
 なんでも一長一短である。
 しかし、子供だってバカじゃない。母親が言う舅姑の悪口をみにするとは限らない。母親の言うことが、自分の知っている祖父母像とかけ離れているならば、母親の話はあくまでの母親の見方であって、真実はいくつもあることに気づくだろう。
 最近になって、もうひとつ気になることが増えた。
 ──あの人は決して他人を悪く言わない人だ。
 ──あの人が他人の悪口を言うのを一度も聞いたことがない。
 昨今は、こういったことが最大の誉め言葉になっている。
 悪口を言わないから善人かといえば、決してそんなことはない。善人と思われたいがために、本来なら言うべきこと──あの人は暴力的なところがあるから気をつけて──なども教えないとなると善人どころか悪人だ。傍観者は悪人である。
 もうひとつ思い出した。
 ──他人は変わらない。自分を変えていくしかない。
 この言葉は人づき合いにおいて、まるで常識のようにあちこちで言われるようになった。
 どうせ変わらないからあきらめるというものだ。
 だがしかし、その「他人」を自分に置き換えてみたらどうだろうか。
 あの人は何を言ってもどうせ変わらない、などと私なら思われたくない。おかしなところがあったら、はっきり忠告してもらいたい。
 何歳になっても成長したいと思う。

 

(第25回へつづく)