先日、帰省したときにショックを受けたことを書こうと思う。
「入れ歯を作り直したら、五千円も取られたのよ。いくらなんでも高すぎるよね」
 実家の近所に住む八十代の女性がそう言ったのだ。
「えっ、五千円、ですか?」
 安さにびっくりして、私は思わず聞き返していた。
 五万円の間違いでは?
 いや、それでも安すぎる。
 この人、いま確か「五千」と言った。五千って……まさか五千万円の誤りではないだろうから、だったら五十万円と間違えたのか。しかし、何度聞いても五千円だと言うし、周りの人たちも「五千円は高いよね」と頷き合っている。
 何年か前、歯のクリーニングをしてもらいに近所の歯科医院に行ったら、虫歯が見つかってしまい、治療してセラミックの被せものをしてもらった。そのとき七万円も支払ったのだ。もちろん一本の値段である。
 だが、この女性は総入れ歯の話をしている。
 私の場合は一本七万円もしたのに、総入れ歯でたったの五千円て、いったいどういうこと?
 彼女と私の間には、保険料が一割負担か三割負担かという年齢による差がある。そして、セラミックは保険がきかない。が、それを考慮したって雲泥の差ではないか。
 いろいろと話を聞いていくと、どうやら田舎ではプラスチックの入れ歯を作ってくれるらしいことがわかってきた。……たぶん。
 なぜ「たぶん」かというと、「それはプラスチックでできてるんですか?」と問うても、八十代女性は「さあ?」と首を傾げるばかりだからだ。
 だが、都心の歯医者にかかっている人の多くは、治療の際にどんな材質を使ったかを知っている。というのも、こと細かに歯科医が説明するからだ。都心において、説明しない不親切な歯科医はいまや生き残れなくなっている。
 帰省して同級生に会うと、思わずまじまじと歯を見てしまうことがある。
 にこっと笑ったときに銀歯がちらりと覗くからだ。
 私はよく引っ越しをするので、そのたびに歯科医を変えている。だがどの歯医者でも共通して言えることは、上の奥歯以外は決して銀歯を入れてくれないことだ。
 大きな口を開けて笑ったときでも絶対に見えない場所は上の奥歯しかないからだ。下の歯は笑ったときに奥の奥まで一瞬にして見えてしまうから、銀歯の対象外となる。
 歯科医が「当院では銀歯は入れられません」とはっきり言うわけではない。
 だけど──。
「笑ったら銀歯が丸見えですけど、いいんですか? 本当に?」
「銀はいつかそのうち溶け出しますけど、どうします?」
「プラスチックは割れやすいですし、年月を経ると変色しますけど、いいんですか?」
 そう言って、迫ってくるのだ。
 だけど、そんなこと言われましてもね、一本七万円だなんて……。
 いくらなんでも高すぎるよねえ。
「で、どうします?」と、歯科医がまたもや迫ってくる。
 歯科医はいつも忙しそうだ。だから、ここで迷っていると迷惑をかける。予約制なのに、待合室に二人も待っているのをさっき見たところだ。
 早く決めなきゃ。
 ああ、でも七万円もするのに、この場で決めろって言われたってさ。
 どうする? 自分。
 そして私の脳みそは、目まぐるしく回転する。
 世の中には百万円もする高級ブランドのバッグを買う人がいるらしい。金持ちならわかるけど、そうではない人も意外と買っていると聞いたことがある。
 洋服だってそうだ。しまむらで買う人もいるけど、デパートで五万円くらいするワンピースを「色違いも頂くわ」などと言って、パパっと二枚も買う人を見たことがある。大金持ちかもしれないが、それほどでもない場合があることも知っている。
 そんなのを買うくらいなら、歯にお金をかけた方がいいんじゃない?
 だって、いくら高級なワンピースを着て高級なバッグを持っていても、笑ったときに銀歯がずらりと見えたら、印象はどうなる?
 価値あるお金の使い方って、私にとってどっちだ?
 高級な洋服やバッグなどもともと買う気もないのだから、そもそも比べる意味はないのだが、断われない雰囲気の中で、セラミックを選ぶ自分を正当化しようと必死だった。どう考えたってセラミックを選ぶことが、口の中の健康を保つには正しい選択に思えた。
 だけど、やっぱり高すぎる。
 頭の中で七万円ものゴーサインが出るのは、私の場合は家電製品を買うときくらいだ。
 でも、決意しよう。だってそれしかない。
「えっと、あのう、だったら、そのセラミック? とかいうのでお願いします」
 迷った末にそう言うと、歯科医は弾けるような笑顔を見せた。
 まるで純真な少年のような顔つきだった。歯科医は常にマスクをしているが、目だけでもその有頂天の雰囲気が伝わってきた。
 そんな笑顔を見せられた途端、もしかして私は騙されているのではないかと疑い始めた。
 また心の中がぐるぐるし始める。
 言っておくが、私は「審美歯科」というような高級な歯科医院に行ったことはない。
 都心には歯科医院がたくさんある。コンビニより多いというのは、今や有名だ。それもあって、引っ越すたびに、どこの歯科医にかかればいいのか迷うので、町内会長さんなどに尋ねることにしている。
 ──どこの歯医者さんが最も手先が器用ですか?
 すると、みんな迷う余地なく速攻で答えてくれるのだった。やはりみんな痛いのが嫌で、慎重に選んでいるのだろう。
 とはいえ、いつの日か、万が一、私が総入れ歯になる日が来るとしたら、そのときは帰省して田舎の歯医者で診てもらおうと決めた。
 年齢とともに歯茎が痩せ細って入れ歯が合わなくなると聞いた。だけど、新しく作り直したところで五千円で済むのならば、そのたびに作り直したって安い。全部で二十八本としたら、一本が百八十円弱という安さなのだ。
 少子高齢化で、私が後期高齢者になる頃には一割負担ではなくなっている可能性は高い。だが、十割負担としても五万円で済む。
 いやいや、そういう話じゃないんですよ。
 世間でもさんざん言われていますけどね、要はセラミックも保険適用してほしいってことなんですよ。
 だってプラスチックは割れやすいし変色するし、銀は溶けてくるって脅されて、いったい、どうしろって言うんです?
 そのうえセラミックだって境目に虫歯ができることもあるから、一生ものじゃないんですってよ。
 そして麻酔のこと──
 最近は、治療の際に歯科医に尋ねられることが増えた。
 ──麻酔しますか? どうします?
 初めて聞かれたときは、それをなぜ患者の判断に委ねるのかと驚いたものだ。
 だけど最近は、「麻酔は結構です」と答えるようになった。
 私には正確な虫歯の大きさも位置もわからないし、治療の過程も見えない。だが、上から覗いている歯科医にはそれらがはっきり見えている。
 見えている側が尋ねるのは、どう見ても麻酔が必要ないからだろう。
 だけど、世の中には痛みに弱い人や、機械音が響くだけで怖くなる人や、沁みることに耐えられない人などが少なくない。あとでクレームが来たり、SNSに「あそこの歯医者は痛い」などと書き込まれたら商売あがったりだ。だから一応は尋ねてみるのだろうと、最近は理解している。
 とにもかくにも、歯のクリーニングだけは面倒くさがらずに行こうと思います。

 

(第6回へつづく)