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第五話 だいすき(承前)


 美緒とは目を合わせず、竹林の外を眺めたまま、雅臣がぽつりとつぶやいた。
「ええ。今でもすべきではなかったと――」
「いいえ、後悔なんてしないでください」
 迷いのない否定とともに、美緒が首を横にふった。
「子どもといっしょにいられる時間が延びたことを、喜ばない母親なんていません。残されたどんな日にも、きっとお母様は神主さんから喜びだけを受け取っていたはずです」
 雅臣が、虚をつかれたように美緒を見つめた。
「そんなわけがない。あなたになにがわかるんですか。母は最後まで体がボロボロになっていった。それでも俺は、言えなかった。もうやめてくれと言えずに、母に苦しい治療をいつづけた。治療さえやめれば、もっと早く母さんは楽になれるとわかっていながら」
「お兄ちゃん」
 汀子が、まだ青い顔のまま身を起こす。
 気がつけば教也も、声をかけていた。
「もちろん、お母さまのお体が楽だったとは思いません。それでも、まだ幼い子どもといられる可能性があるとしたら、お母さまはきっと同じ道を選んだでしょう。そして、お母さまもご兄妹に願われているんじゃないでしょうか」
 雅臣の口元が、わずかに震える。
「なにを、ですか」
「あなたがたご兄妹が日々笑っていることをです。おふたりの笑顔を、お母さまはきっと心から望まれているはずです」
 教也が言い終えるのと同時に、タマが軽やかに膝に飛び乗ってきた。
「にゃあん」
 甘えるように教也の腹に頭をこすりつける姿に、雅臣が目を見開いている。
「この子がそんなになつくのは、珍しいですね」
「きっと、今の言葉をずっと神主さんに伝えたかったんですよ」
「にゃあん」
 今のはきっと肯定の声だ。
 観念したように、雅臣がつづける。
「笑うのは、キャラクターじゃないですが――考えてみます」
 目をすがめたまま、タマがもう一度「にゃあん」と鳴いた。

 竹林を抜け、バス通りへと向かう夫婦が、こちらを振りかえり振りかえりしながら戻っていく。
 見送りを終えて、雅臣はほうっと息を吐いた。
 笑ってほしいと、母さんは本当に思っているだろうか。
 いや、本当はわかっている。後悔して生きろなどと、あの人が思うはずがないと。
 ただ、病床の母の痩せ細った体が、苦しそうに笑う姿が、簡単にはまぶたの裏から消えてくれない。
 それでも――笑っていれば、いつかはこの想いも薄れていくのだろうか。過去のものにしていいと思えるだろうか。
 最後に一礼して竹林へと向かう雅臣を、まるで気の早い夏のようなまぶしい日差しが照らす。
 季節が、また変わるのか。
 過去にしがみついて、必死に時を止めようとしていた。心を後悔でいっぱいにしていた。占めていたこの想いが消えたとき、そこになにが残るのだろう。
 自問しながら、ふーっと息を吐き出す。
「お兄ちゃん」
 見れば、竹林の向こうで汀子が手を振っていた。
「にゃあん」
 タマも、汀子もおりますよ。
 とでも言うように、タマが足元にまとわりついてきた。
 汀子が手招きする。
「お抹茶でもいただこう。和菓子があまっちゃってるし。参拝が少ないせいでね」
「わかったよ」
 柔らかな風が境内を吹き抜け、竹林が笑うように葉をこすらせた。

 

(了)