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第四話 永遠の縁日(承前)


 陸と並んで夕食のテーブルにつき、母親から味噌汁のお椀を受け取った。
「まったく、急に出かけるなんて心配するでしょ? 大地君のおたくにもご迷惑じゃないの。まさかこんな夕飯どきに上がりこんだりしてないよね」
「ちょっと話して帰ってきただけだって。ね、陸?」
 隣の陸を見て、ぎょっとする。
 どうしてそんなにニヤニヤしてるの?
 空斗が知るかぎり、最近はむっとした表情のままで、母親にも常につっかかるような態度だったのに。
「陸?」
「あ、ああ。ちなみにオレ、明日は家族で行くことにしたから。ちょっとだせえけど」
「あら、そうなの? よかったわね、空斗」
 兄弟の向かいに腰かけた母親が微笑む。のんきな顔を見るかぎり、やっぱり大地たち一家の転勤のことはまだ知らないらしい。
 陸はどうなんだろう。
 やけに機嫌がよさそうなのに、好物のハンバーグにはあまり手をつけていない。
「オレ、ちょっと腹いっぱいだからもういらない。明日、夏祭りでいっぱい食うし」
「バカね。あとからお腹がすくに決まってるでしょう。今ちゃんと食べなさい」
 母親の声にも振り返らず、陸はとっとと二階へ上がっていく。
「まったく」
 母親がため息をこぼしたつぎの瞬間、テーブルにあったスマートフォンが震えだした。
「あら、お父さんだ。もしかして、お父さんもごはんを食べないって今ごろ言うんじゃないでしょうね。もしもし?」
 母親がテーブルから離れてキッチンのほうで父親と話しだした。
 結局ひとりになり、ハンバーグを食べながらそっと手首の裏を確認する。光る棒の一本が先ほどよりさらに薄くなり、かなり集中しなければ見えなくなっていた。
 明日は、大地と遊べる最後の日だ。
 つきんと胸の奥が痛む。
 それでも、笑って楽しもう。何も知らないふりをして、手を振って別れよう。それが大地の望みだから。
 かたく胸に誓った空斗の耳に、しかし、信じられない声が飛びこんできた。
「それじゃ、明日は休日出勤するの? 夏祭りは?」
 ――え? こんどはお父さん?
「そう。仕方ないね。ええ、ええ、わかった。それじゃ気をつけて」
 母親が電話を切ってすぐに、詰めよった。
「ねえ、まさか明日、お父さんが来られないなんて言わないよね」
「それが――」
 母親が気まずそうにうなずく。
「嘘でしょ。せっかく陸が来てくれることになったのに。ちょっと電話を貸して。ぼく、お父さんと話してみるから」
「やめなさいよ。もう電車に乗ってるころだから」
 母親より一瞬早くスマホに手を伸ばし、さっと奪いとる。
 すぐに電話を折り返した。
『どうした、帰りに何か買ってほしいものでもあるのか?』
「お母さんじゃないよ、ぼくだよ、空斗。明日は会社に行かないで。夏祭りは家族みんなで行く行事でしょ」
『空斗か。いやあ、どうしても仕事が終わらなくてさ。ごめんな』
「ほんとに悪いと思うなら行かないで。いつも言ってるじゃん。ぼくたちに付き合ってもらえるのもあとちょっとだって。その大事な時間を会社なんかのために使ってもいいの」
『う。や、やけに今日は口が達者だな。でもおまえは陸といっしょに子どもたちだけで行くんだろ』
「やっぱりみんなで行くことにしたんだ。ぼく、お父さんとお母さんと陸と、大地の家族とみんなで行きたいんだよ。こんなチャンス、もう二度と――」
 こみあげてくるものがあって黙ると、スマートフォンの向こうから小さなため息が聞こえた。
『――夏祭りは五時待ち合わせだっけ?』
「うん。いっしょに行ってくれるの?」
『じゃあ、もうちょい会社でがんばってから帰るか』
「ありがとう、お父さん。死ぬ気でやればなんとかなるよ」
 父親がよく兄弟に向かってかける言葉をそっくりそのまま返す。スマホの向こうで父親が頭をかいているのが、なぜかはっきりとわかった。

 

 

 翌日、目を覚ますと前回と同じくよく晴れていた。夏祭りの開催を知らせる花火の乾いた音が、窓の向こうからパン、パン、と二回鳴る。
 ぜったいに最高の一日にしてみせる。
 手首に光るラスト一本の棒を前に誓う。そのためにいくつかのルールを空斗なりにつくった。
 まず第一に、転勤について知っているという事実を、ぜったいに悟られない。
 大地の行きたい出店をたくさんまわる。
 最後まで泣かない。
 どれも、最高の一日にするのに大事なことばかりだ。
 窓を開けると、ほんの少し涼しくなった風が吹きこんでくる。
 大きく伸びをしたひょうしに、空も昨日より少し高いことに気がついた。
「空斗、そろそろ朝ごはんを食べないと、練習に遅れるよ」
 階下から、母親が呼んでいる。
 身じたくをして朝ごはんを食べ、野球の練習に出て、そのあとはいよいよ夏祭りだ。
 手首を確認してみると、光の棒はまだ強く輝いている。 
 気合いを入れて握りこぶしを空につきあげようとしたのに、あまり手首に力が入らなかった。
 そういえば昨日の練習、けっこうキツかったもんな。
 身づくろいを終えてダイニングに顔を出すと、テーブルにオムレツが載っていた。いつもはスクランブルエッグだけれど、特別な日にだけ母親がつくってくれる空斗の大好物だ。
「やった。夏祭り最高。あれ、陸とお父さんは?」
「今日は練習試合だからって、陸はもうサッカーに出かけたよ。お父さんはまだ寝てる。今日の夏祭りに行くために、昨日、終電ぎりぎりまで残業してくれたんだからね。あとでありがとうって言っときなさいよ」
「うん、わかった」
 張り切ってオムレツを食べようとしたのに、いよいよだと思うと、胸がいっぱいであまり食欲がわかない。
「牛乳だけでいいや」
「え、どうしたの? 具合でも悪い?」
「まさか。ちょっとまだお腹がすいてないだけ」
 心配そうにのぞきこんでくる母親に牛乳を飲み干してみせ、部屋に戻ってユニフォームに着替えた。スポーツバッグに荷物をつめこんで、前のめりになって階段を降りる。
 けれど、やけに時間がかかったのはなぜだろう。
 階段の下では、母親が待ち受けている。右手に持っているのは――体温計だった。
「どうしてそんなもの持ってるの?」
「だって、空斗がオムレツを食べないなんておかしいでしょ」
「別に具合なんて悪くないってば」
 それでも念のため、と食い下がる母親に押されて、体温計の先端を腋下に固定した。
 測定完了を知らせる音のあと、少し緊張しながら取りだす。結果は――三六度八分。
「ほら、平熱でしょ」
「でも少し高いわね。練習、無理しないで。少しでも具合悪かったら帰っておいで」
「わかった」
 念のため休もうか迷ったけれど、夏祭りだけではなく、大地といっしょに野球の練習ができるのも今日で最後だ。
「ふんっ」
 気合いを入れて、玄関を出る。
 腹筋に力を入れて自転車にまたがり、練習場へと漕ぎだした。
 風が少し涼しい。セミの声もかなり少なくて、心細くなる。それでも、入道雲はまだ元気に空を泳いでいる。空気はうんざりするほど湿っているし、道ばたからは草いきれがむっと香ってくる。
 ぼくたちの夏は、まだ終わってない。

 

(第25回につづく)