第四話 永遠の縁日(承前)
目の前に、空斗を過去へと送りだしてくれた雅臣が、おとといと同じ袴姿で立っていた。
戻って、きた?
気が抜けたのか、こらえていた涙があとからあとからあふれ、気づけば声をあげて泣いていた。
雅臣が慌てて駆け寄ってくると手を伸ばし、ほんの少しためらったあと、空斗の頭へと乗せた。
「もしかして、夏祭りに行けなかったんですか」
こくりとうなずいて、しゃくりあげる。
「だから、時帰りなんてするものじゃないと言ったでしょう。さあ、こちらへ」
「違う。時帰り、してよかったんだ。夏祭りには行けなかったけど、ちゃんと――」
手を引かれて竹林を抜けながら、必死で伝えようとするのに、喉がひくついてもう声が出てこない。
宝物みたいな夜だった。あとから、何度も記憶を取りだして眺めたくなるような、そういう夜だった。
こよみ庵に連れていかれ、前と同じ席についた。
カウンターのすぐそばの席で、汀子がぐったりとテーブルに突っ伏している。
「おかえり、空斗君、しっかりお兄ちゃんが淹れてくれるお茶を飲んでね。疲れてるはずだから」
「ああ、うん」
時間はせいぜい十分ほどしかたたないと言われたけれど、本当なんだろうか。
リュックサックからスマートフォンを取り出して確認すると、言われていたとおり、過去へ出発したときからたったの十分しかたっていない。
いつの間にか雅臣がそばに立っていて、湯気のあがる湯飲みを出してくれた。
「ほうじ茶をどうぞ。時帰り後のふらつきなどが抑えられますから」
「え、ぼくぜんぜん平気だよ」
わずかに目を見開いたあと雅臣がうなずいて、メモを取りながら席につく。
「もしかして、高山病なんかといっしょで、子どもは時帰りに耐性があるのかもしれませんね。大人はふらふらとしてしまう人が多いんですよ」
自分もお茶を飲みながら、雅臣が尋ねてくる。
「これからいくつか質問をしたいのですが――もしも時帰りのことを思い出すのがつらいようならやめます。夏祭り、行けなかったんですよね」
「え、なにがあったのっ」
汀子がもう一度身を起こして小さく叫んだが、すぐにまた突っ伏してしまった。
さっきよりはさすがに落ち着いたのか、もう空斗の涙はおさまっている。深呼吸をして、今度はきちんと答えた。
「行けなかったのは本当だけど、約束をやぶったわけじゃない。ぼく、熱を出しちゃって家で寝てたんだ。そしたら大地が――友だちがお面を買ってお見舞いに来てくれて、二人でいっしょに部屋から花火も見て、ちゃんとお別れも言えたし。
だからぼく、時帰りをして本当によかったよ」
メモを取っていた雅臣の手がぴたりと止まる。
「そう、ですか」
そうつぶやいた表情は、驚くほど暗い。
「神主さんは時帰りに反対なんでしょう。あんなにすごいことなのに、どうして?」
「それは――」
瞳を揺らしたあと、雅臣が答えた。
「俺は、ある人を、とても大事な人を不幸にしてしまったからです。自分の欲を満たすために、その人を犠牲にしたんですよ」
はっと口に手をあて、雅臣が立ちあがった。
「よけいなことを言いました。さ、都内に住んでいるんですよね。そろそろここを出ないと帰るころには夜です」
すりすりと足元に妙な感触があって、「わっ」と声をあげると、タマが頭をこすりつけていた。さっさと出口へと向かう雅臣をタマが追いかけていく。そのしっぽを追いかけるように、空斗もあとにつづいた。
途中、よろよろと上半身を起こした汀子と目が合う。
「お姉さん、ありがとうございました」
「お友だちとちゃんとお別れできてよかったね。また遊びにきて」
「うん」
竹林を抜けるまで送ってくれた雅臣にも、きちんと頭を下げてお礼をした。雅臣は「どういたしまして」と答えたあと、ためらいがちに尋ねてくる。
「本当に、時帰りをしてよかったですか。いえ、言葉を替えます。よいことばかりでしたか」
突然の質問に、すぐにはどう答えていいかわからなかった。
よかったこともあれば、悪かったこともあったかもしれない。
実際、熱も出したし、夏祭りには行けなかった。離れるときは、胸が壊れるかと思うくらい悲しかった。
それから――夏祭りの約束を破ったときには受け取らなかったハガキの記憶が、新たによみがえってもきた。
ハガキには、こう書かれていた。
『空斗、げんきか? 俺は超げんき。新しい野球チーム、すっげえおもしろいやつばっかりで、親友もできた。大阪サイコー! また来年の夏に会おうな』
受け取ってハガキを読んだとき、うれしいはずなのに、胸がズキリと痛んで少し涙が出た。
あれは、よかったことなのかな。悪かったことなのかな。
少し考えたあと、自然と笑顔がこぼれていた。
ぼくのことを、だんだん思い出さなくなったら寂しいけど、大地が泣いてるより、笑ってるほうがやっぱりうれしい。
「うん、いいことばっかだったよ」
返事を聞いた雅臣の口元が、ようやくふっとゆるんだ。
「そうですか。それでは、お気をつけて」
「にゃあ」
タマも、お別れのあいさつのつもりか、高い声で鳴いてくれる。
ふと気になって、空斗は尋ねた。
「あのさ、神主さんは誰に会うために時帰りしたの」
空を雲が横切ったせいか、雅臣の瞳の色が少し濃くなった気がする。あまり答えたくなさそうにも見えた。
聞かないほうがよかったかな。
ほんのちょっと雅臣の口が動く。囁くような小さな答えを、風が空斗の耳もとまで運んできた。
「――母です」
大人のはずの相手が、なぜか同い年くらいの、いや、もっと小さな子どもに見える。
迷子になって、途方に暮れているような。
思わずかけよって雅臣の手を握った。細い指先が震えているのは、寒さのせいだけではないように思える。
さあっと風が吹き渡り、竹の葉たちがひそひそ話でもするように葉をこすらせていた。