第三話 高くついた買い言葉(承前)
三ヶ月検診は九時から、地下鉄で一駅の保健センターで行なわれる。あまり遅く出るとかなり待つことが予想され、睡眠時間を削っていつもより早い時間に洗濯や掃除を終えた。
ぐずる彩花のおむつを取り替え、バッグの中にはおもちゃ類や胸当てパッド、母子手帳類と細かな荷物を確認しながら詰めていく。
そして絶対に忘れてはいけないもの、レインコートとベビーカー用のレインカバー、そして交換用の紙おむつである。
時帰りする前の三ヶ月検診では、紙おむつを忘れるわ、天気予報にはなかった局地的な雨に襲われ、ふたりでずぶ濡れになって彩花が泣きじゃくるわ、地下鉄では周囲に眉をひそめられるわで、大変な目に遭った。
あと少しで支度をととのえ終わるというときに泣きだした彩花に授乳し、ついうとうとしてしまった。瞼を閉じてしまえば最低でも一時間のロスになるから、頬をつねってどうにか目を開けたまま耐える。
彩花をベビーカーに乗せ、葉桜の並木の下を歩く。春らしい陽気で、道路には木漏れ日が落ち、淡い葉陰が揺らめいている。心地よい風に、街ぜんたいがまどろんでいるようだった。
この風景を美しいと思えないのは、みずからの今の状態と、この茫洋とした外の様子がよく似ているからだ。こんなふうにつねにぼんやりしてしまい、意識がしゃっきりと目覚めてくれないのである。
見渡せば歩いている人はいくらでもいるのに、誰ひとり知り合いは見当たらない。同僚らしき男性と並び、ハイヒールで颯爽と歩く女性は美弥子と同い年くらいだった。
胸のうちがどんよりと濁っていく。地下鉄の駅へと向かうあいだ、果たして今日、時帰りした目的を果たせるのかと考え、どんどん自信を失っていった。手首を確認してみると、光る棒が一本、まだくっきりと残っている。
家族三人の平和を守るために、なんとしてでもやりとげなくては。
地下鉄の階段入り口から大回りしてエレベーターで改札まで降り、さらにまたエレベーターでホームへ降り立った。ちょうどスマートフォンにメッセージが届いている。
『美弥子さん、今日、三ヶ月検診に行くよね? 私もこれからなんだけど、よかったらいっしょに行かない?』
近所の児童館でママ友になった咲良だった。美弥子よりふたつ年上の二児のママで、上のお兄ちゃんは保育園に預けている。いつも身ぎれいにしており、ふたり目のせいか育児にも余裕が感じられた。
過去では億劫に感じて断ったことを思い出し、あえて誘いを受けることにした。
『うん、ぜひぜひ。私は今、地下鉄に乗ったところ』
絵文字つきで返事を送信しながら、すでに後悔してしまう。
咲良といっしょにいると、たったひとりの育児にさえ取り乱して日々必死になっている自分がみじめになるのだ。ただのひがみだと自覚できる理性は残っているだけに、つらい。
「がんばろ」
未来を変えるために来たのだから。こんな些細な変化が、実は望む未来へとつながっている、などという展開は、タイムトラベルものの定石だったはずだ。
外の世界を澄んだ瞳できょろきょろと見つめている彩花が、美弥子の声に反応したのかにっこりと笑う。
「ママ、がんばるからね」
もういちど告げて額をなでたあと、電車を降りて地上へと出る。駅から三分ほどの保健センターにたどりつくと、すでに咲良が入り口付近で待っていた。
「お疲れ~。この時期だと準備だけでひと苦労だよねえ」
苦笑する咲良は、今日も身ぎれいで隙がない。きっちりナチュラルメイクをしており、ヘアスタイルもきれいにポニーテールでまとめられている。ジェルネイルにまつエク。どちらも今の美弥子にはサロンに通っている余裕がない。そもそも美容院だって、出産前に行ったきりである。美弥子も、どうにか微笑んでみせた。
「ごめんね、待たせちゃった?」
「ううん、私たちもちょうど今着いたところ。って、このやりとり、つき合いたてのカップルみたいだよね」
笑う咲良は、やはりゆったりとしていて眩しかった。
彩花と同じ時期に生まれた爽鞠は、髪が生えたての頭に大きなリボンをして、落ち着いた様子で眠っていた。爽鞠がむずかっているところを、そういえばほとんど見たことがない。おそらく、むずかる前に咲良が対処できているのだろう。
「いこっか」
情けない自分を振り切るようにして咲良に声をかけ、ベビーカーを押して進む。
「あ――うん」
咲良も、少し遅れてついてきた。
今回は、身長や体重、首座りや股関節の様子など身体的な発育の様子や、声がけへの反応や目の動き、笑い声なども様子をみるらしい。
希望者は、今後はじまる離乳食の指導も受けられるということだった。
ベビーカーを置き場に預け、ふたりとも抱っこひもを装着して赤ん坊を前に抱える。
「ねえねえ、離乳食講習を受けると、ピション社の離乳食パウチセットが無料でもらえるんだって。よかったら並ばない?」
先ほど受付で配られた検診ガイドを読んで、咲良が瞳を輝かせた。
そういえば、前回は彩花がぐずる前に帰りたくて参加しなかったことを思い出す。
今回は、出席してみよう。
スマホを握る手にぐっと力をこめ、美弥子は笑顔で答えた。
「うん、もちろん。ピション社のってちょっと高いみたいだからうれしいよね。爽鞠ちゃん、離乳食っていつからはじめる?」
「うちはもう四ヶ月だから、来月くらいからはじめようかなって思ってる。お兄ちゃんのときに教科書どおりに行かなくて苦労したから、今回は無理しないでのんびりやるよ。彩花ちゃんは?」
「うちはまだぜんぜん考えてなくて。ちゃんとできるか不安だよ」
答えながら、苦い笑みがこぼれた。これから美弥子も離乳食に挑戦するのだが、最初に成功するまでが闘いなのだ。赤ちゃんが好むというサツマイモで挫折したあとはにんじん、バナナなどいろいろ試したのだがすべて吐きだされ、悪戦苦闘の末、ペーストした米や野菜に昆布だしを混ぜてみたところ、はじめて成功して泣くことになる。
家に帰ったら、私のために、最初から昆布だしを加えてみるようにメモを残しておいてあげよう。
手首を確認すると、金色の棒はまだくっきりと残っている。
今夜だ。今夜、和宏と話そう。
考えると自信がなくなり、気がつくとぼんやりしていたらしい。
「美弥子さんっ」
少し強めに名前を呼ばれてぱっと顔を上げると、咲良が列の前のほうへと移動していた。
「進もう」
「あ、うん、ごめん」
抱っこひもの中で「うう」と軽くうめいた彩花のお尻をぽんぽんと叩き、前へと足を進める。
「大丈夫? もしかして、あんまり眠れてない?」
「授乳がね。三時間も持たなくて。咲良さんは?」
「うち、実は夜だけ粉ミルクをあげてるの。母乳よりまとまった時間寝てくれるから、ママも睡眠を取りやすいよ」
暗に、母乳がちゃんと足りてないんじゃないの、と責められた気になる。もちろん、咲良は純粋に親切心で教えてくれたであろうことも、頭ではわかっている。わかった上で、イライラしてしまう。しかし、そんな自分がおかしいことにもきちんと気づけている。だから、自分はまだ平気なはずだ。
平気だ。
言い聞かせるようにして、「ありがとう。試してみるね」と相槌を打った。
産後をようやく抜けだした未来のクリアな精神が、産後の体の中に幽閉され、どんどん正常な判断力を失っていく。何だかきちんと考えられない。ぼんやりとはわかっているのに、バランスを崩したホルモンに思考の自由を奪われ、どうにもできない。
ようやく検診の順番がまわってきた直後、彩花がむずかりはじめ、かすかにうんちの匂いが漂ってきた。
「あらあら、うんちね。次は並ばなくていいですから、先におむつを替えてきて大丈夫ですよ」
看護師にうながされ、トイレへと急いだ。
おむつ替えの台が備えつけられた広いトイレへと入り、台に彩花を載せたあと、ママバッグを開ける。しかし、そこにあるはずの紙おむつが――なかった。
「うそ、だってあれほど注意して――」
お尻拭きシートでお尻をきれいにしたあと、途方に暮れて、台に載った彩花の前でぼんやりと立ち尽くす。
そういえば出がけに荷物を詰め終える直前、彩花が泣きだして授乳をした。あのとき、バッグに詰めようと思っていた紙おむつを、ソファかどこかに放り投げて、彩花に授乳したのだ。
「はは」
いっこうにおむつ替えされないことに不満をおぼえたのか、彩花がぐずりはじめる。
どうしよう。
焦るばかりで何も思いつかず、視界が霞んでいく。つられるように、彩花も本格的に泣きだす。
気がつくと美弥子も、声を上げて泣いていた。