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第五話 だいすき(承前)


 こよみ庵はしんと静まりかえって、窓の向こうからかすかに風の音が届くばかりだ。
 教也と美緒の座っているテーブルの向かいに、神主と巫女の兄妹が並んで腰かけていた。
「先ほどは、妹が申し訳ありませんでした」
 若宮雅臣と名乗った神主が、深々と頭を下げる。その横で気まずそうに目を伏せ、汀子も兄につづいてお辞儀をした。
「でも、過去に戻れるっていう話は嘘じゃないんです」
 言いつのった汀子の隣で、雅臣が深いため息をつく。
「まだ言うんですか」
 ムっとして返すと、妹を制して雅臣が口を開いた。
「それについては本当なんです。この神社のご祭神は聖神。ひじりは日知り。時の神様なんですよ。古くからこの神社では、聖神様が選んだ人たちを望んだ過去へと一時的に帰してきたという文書もんじよが残っています。俺たちはその御業みわざを時帰りと呼んでいます。まあ、個人的には時帰りなんて反対で――」
「お・に・い・ちゃ・ん」
 雅臣をきっとにらんだあと、汀子が貼りつけたような笑みを夫婦に向けた。
「そんなわけで、過去に戻りたいのであれば、ぜひ時帰りをしてみませんか。無料ですし、万が一、時帰りなんて嘘だったとしても、おふたりにはなんの損もないですから」
 テーブルの上に載っている美緒の両腕が細かく震えていた。泣いているのかと教也がのぞきこんでみたものの、涙はこぼれていない。だだ、瞳が奇妙なほど澄んでいた。
「やります。その時帰りを、やりたいです。戻りたい日に、絶対に帰してくれるんですよね」
 美緒、まさか本当にそんなこと信じて――。
 どちらかというと現実的な性格だった妻は、娘を失ってからスピリチュアルな世界に傾倒していった。その姿に危うさを感じないわけではなかったけれど、それで心が少しでも安まるならと見守ってきたのである。
 だからって時帰りなんて――。
 それでも、すがるような目を兄妹に向ける妻を教也は笑えなかった。
 自分だって、戻れるものなら戻りたい。なんとしてでも娘の命を救いたい。そのためなら、なにを差しだしたっていい。
「私からもお願いします」
 気づけば、こうべをたれて頼んでいた。
「いや、ちょっと待ってください。なんのために時帰りをするのか、くわしくお話をしていただいて、実際にするかどうかはそれから判断させてください」
 雅臣の突き放すような固い声に、美緒がかぶせるように言いつのる。
「私たち、娘が交通事故に遭うのを防ぎたいんです。娘は去年の春、小学校へ向かう途中に右折してきたトラックに」
 あとの言葉がつづかず黙った妻を、雅臣がじっと見下ろしている。
 しばし、四人の囲むテーブルに沈黙が満ちた。
 影をたたえた雅臣の瞳が揺れる。
「そういうご事情でしたら、時帰りはお引き受けできません」
 美緒が、テーブルから身をのりだす。
「なぜですか。時帰りをさせてくれると言ってきたのは、そちらじゃないですか」
「妹が先走ってしまったかもしれませんが、人の生死は、時帰りをしてもくつがえすことはできないんです。もし交通事故から救えたとしても別の方法でお嬢さんは亡くなります。その亡くなり方が、交通事故よりも苦しくてつらいものだったらどうしますか」
 ひゅっと息を吸ったのが教也自身だと気づくのに時間がかかった。言葉に詰まった美緒をまえにして、雅臣がやや声を和らげる。
「お嬢さんのことは本当にお気の毒だと思います。しかし、あなたがたのためにも時帰りはおすすめできません。当日に戻って、事故が起きるとわかっているのに防ごうとしないなんて、親御さんなら無理に決まってます。それじゃ、俺はこれで」
 雅臣が立ち上がろうとしたそのときだった。四人ともが、足元に小さな震動を感じた。
「お兄ちゃん、これきっと――ひゃっ」
 汀子が小さな叫び声をあげる。ドシンとひときわ大きな物音がしたほうを振り返ると、本殿にかかっていたしめ縄の片側が落ち、無残にぶら下がって揺れていた。
「だんだん揺れが大きくなってるよ、お兄ちゃんっ」
「そ、そんなことを言ったって」
 あくまで淡々とした表情を崩さなかった雅臣も、さすがに慌てだしている。
「ごちゃごちゃ言ってないで早く祝詞をあげないと、本殿が崩れちゃうよ」
 汀子の言葉が大げさには思えないほどしめ縄の揺れが激しさを増し、柱の軋む音が悲鳴のように響いている。こよみ庵は足裏にかすかな震動を感じる程度だというのに。
「いったいなにが起きてるんですか」
 思わず尋ねた教也に、汀子が恐怖にゆがむ顔を向けた。
「これ、神罰なんです。基本的に時帰りは、聖神様に選ばれた方が望むかぎり、必ず実行しなくちゃいけないんです。でもお兄ちゃんみたいにご神意に背こうとすると、こうやって怒られるんですよ」
「神様が選んだなんて、どうやってわかるんですか」
 つぶやいた教也に、汀子が泣きそうな顔で答える。
「夢で教えてくださるんですよ。おふたりも今朝、私の夢にでてきたんです」
「あ、だからお待ちしてましたなんですね」
 すがりたい気持ちと同じくらいふたりにうさんくささを感じていた教也だったが、さすがに局所だけを激しく揺らす奇妙な現象を目の当たりにしては、ふたりの言うご神威なるものを完全に否定することはできなくなっていた。
 本当に過去に帰してもらえるのかもしれない。娘に、花音にもういちど会えるのかもしれない。
 激しい揺れに耐えきれず、しめ縄のもう片方も落ちたようだ。
「お・に・い・ちゃ・んっ」
 外聞をかなぐりすてたのか、汀子が雅臣の肩を激しく揺さぶっている。それでも雅臣はまだ渋った。
「今回ばかりはダメです」
 そんな。俺たちは過去に帰らなくちゃいけない。どうしたって花音に会わなくちゃいけない。
 気がつくと教也は深々と頭を下げていた。ひんやりとしたテーブル板が額にあたる。奥歯がみしりと音をたてた。
「教也さん、お願いですからそんなこと」
 汀子の戸惑った声をさえぎり、ほとんど叫ぶように頼みこむ。
「お願いします。私たちを過去に帰してください。助けちゃいけないっていうなら、当日じゃなくていい。せめて事故の前日にでもっ」
「私からもお願いします。ほんとに、前日でもかまいませんから」
 とっさに事故の前の日にと願ったのには理由がある。
 教也も美緒も、前の日、花音の苦手なピーマンをどうにか食べさせようと、少し強めに叱ってしまったのだ。そのあと、いっしょに寝てほしいと夫婦の寝室にやってきたのに、「もうお姉ちゃんだろう」と突き放してしまった。
 ――ねえ、新しい自転車を買って。そしたらピーマン食べるし、ひとりで寝るから。
 そう約束したから買ってあげたのだと。
 やぶってよかったのだ、そんな約束など。ピーマンも、一生食べられなくてよかった。
 自分の願いを叶えるために交換条件を提示してあとからやぶることなんて、大人だっていくらでもあるというのに。約束を守れない子になるなどと神経質に心配をして、突き放してしまった。
 あれが、花音と過ごす最後の夜になるとも知らずに。
 床を見つめたまま、声を振り絞る。
「どうか、娘にもういちどだけ会わせてください」
「私からもお願いします」
「――お兄ちゃん、お願いします」
 地響きはまだかすかに響いているけれど、少し弱まったようだ。
「まあ、前の日ということなら」
 告げる雅臣の瞳が、ふたたび大きく波打つ。
「くれぐれも、お嬢さんの命を救おうとしないでください。お嬢さんの幸せを願うのであればなおさらです」
 教也がうなずいたのを確かめたあと、雅臣が踵を返した。
「ついてきてください。時帰りの儀をおこないます」
「あ、ありがとうございます」
「お礼はけっこうです。今回の時帰りが、あなた方にとっていいことなのか、俺にはわからないですから」
「そんなこと――」
 抗議しかけた美緒が、立ち止まった雅臣にそっと尋ねた。
「そこまで言うなんて、もしかして神主さんも、時帰りをしたことがあるんじゃないですか? そのとき、誰かの命を助けたとか」
 ぴくり、と雅臣の肩が反応する。
「そうですね。俺は――母を事故から助けました。その結果、どうなったと思いますか」
 教也の背筋がぶるりと震えた。

 

(第34回につづく)