第二話 想い出の苦いヴェール(承前)
「それでは祝詞をはじめるので、雨野さんは竹林のほうを向いてください。竹林の向こうが光りだして、手首に光の棒が立ったら、もう準備ができたサインです。あの細い道を奥に向かってゆっくり歩いていってください。ご希望の過去にたどりつくはずです」
「はあ」
結局、時帰りの儀式に参加することを承諾してしまった。
――痩せたくないんですか。
雅臣はあのとき汀子を叱ったが、大輔にとってはあまりにも的を射た勧誘だったらしい。
“時帰り”に関しては、よりくわしく雅臣から説明を受けた。
手首には、携帯電話のアンテナのような光る棒が現れ、その本数が過去にとどまれる時間を表していること。過去に戻るのは意識だけで、その時点の自分の体に今の意識が宿ること。人の死や歴史上の重要な出来事を変えることはできないこと。さっきちらっと聞いたように、時帰りによって人生が変わった場合、この人生の記憶は部分的に薄れてしまうこと。
「あと、欲を出して未来に上がる株を買う、とかは念のためやめておいたほうがいいかもしれません。うちの神様ってほら、金銭欲に厳しいところがあるので」
おどろおどろしく付け足したのは汀子である。地震や雷は大輔も望まないから、おとなしくうなずいておいた。
まあ、それもこれも、あくまで時を遡れたらの話ではある。こんなふうに緊張してしまった自分を、十分後には笑っているかもしれないではないか。
言い聞かせるのに、大輔の口元は、時帰りへの期待からか自然とほころんでしまう。
「それでは、はじめます」
雅臣が低く告げたとたん、境内にさあっと風が吹き渡った。ただの偶然だろうが、やけに胸がざわめいた。
やがて境内の端のほうから、シャン、シャンと規則正しい鈴の音が響いてきた。
果たして本当に時帰りなどできるのか、それとも真っ赤な嘘なのか、だとしたらなぜそんな嘘をつくのか、そわそわと考えていたはずなのに、心地のいい鈴の音と朗々とつづく祝詞に耳を傾けるうち、不思議と心身が静けさに包まれる。
常に時間に追われる大輔にとって、それは久しぶりのゆったりとした感覚だった。
正確にどの地点に戻りたいかとあらためて問われ、昇進試験の直前である十年前の十月五日、ちょうど試験の一週間前を希望した。
もし万が一、あのころに戻れるのなら、出世欲に燃えていた自分の誤った判断をどうにかして止めなくては。
管理職などなるものではない。業務や責任は激増するが、給料は微増だ。
シャン、シャン、とやや強めに鈴が鳴った。ちらりとうしろを振り返ると、汀子が神楽を舞っている。
浮世離れした光景に、もしかして本当に時帰りできるのかもしれない、と信じそうになってしまった。
瞬きをして竹林に向き直ったそのとき、視界の向こうで、何かが揺らめいたような気がした。揺らめきはしだいに大きくなり、まるで小さな太陽のように光の矢を放ちはじめている。
はっと気がつき、大輔はみずからの両手首を確認した。
先ほど雅臣が言っていたとおり、左手首に光る棒が二本と半分、くっきりと浮かびあがっている。
おいおい、嘘だろう。
にわかには信じられず、もしかして催眠にでもかかっているのかもしれないと強く頭を振ってみる。棒は光ったままだ。今度は頬をつねってみた。棒はいよいよくっきりと輝きを増している。
しゃん、とひときわ強く鳴りひびいた鈴の音が、大輔の背中を押すようだった。
ゆさりと贅肉ごと立ちあがる。日ごろ負担をかけているせいか、ほんのわずか正座をしただけでも膝がみしみしと痛んだ。
痛みに顔をしかめて膝をさすっているあいだも、光はどんどん強さを増していき、竹林の向こうから洪水のようにあふれだしてくる。
「ほんとなのか?」
うしろの兄妹を振り返ると、汀子と目が合った。ふたたび大輔の背中を押すように、シャン、と鈴を打ち鳴らしてくる。
ごくり、と唾を飲んだあと、靴をはいて砂利を踏んだ。一歩、また一歩と竹林の小径へと進んでいく。気道にも肉がついているのか、そのたびに、ひゅう、ひゅう、とみずからの呼吸音が耳の奥で響いた。
いやだ、贅肉も、ストレスも、もう抱えていたくない。今から逃げ出せるなら、過去にでもどこにでも行ってやる。
竹林に入ると、光がおいでおいでをするように揺らいでいた。不思議と恐怖はなかった。皮膚は熱を感じていないのに、なぜか抱擁されているような温もりが脳内に直接伝わってくる。
やがて視界が光で満たされ、すぐそばにあるはずの竹さえも見えなくなった。
それでも一歩、また一歩、言われたとおりに進んでいく。さらに一歩進んだときだった。確かに土を踏んだはずの足が――ふっと沈んだ。
「うわっ」
奈落の底へ落ちていくように、視界いっぱいの柔らかな光の中を落下していく。
「うわああああ」
風が耳のすぐそばでうなりをあげている。かなりの速度で落下しているはずなのに、体はいっさい重力を感じておらず、ふわふわと綿毛のように漂ってでもいるかのようだ。
なんだよ、これ。
どれくらい落下しつづけていたのだろう。
胃の腑が持ちあがるようなくすぐったさを覚えたかと思うと、次の瞬間、足裏にしっかりとした地面を感じた。
思わず視線を下げると、お気に入りだった白いジョギングシューズが腹の肉にはばまれずにきちんと見える。
「ああ、ここだ」
そこは、大輔が引っ越す前によく走っていた川沿いの遊歩道だった。
動くのが面倒ではない。体が驚くほど軽い。腕やふくらはぎを触ってみると、引き締まった筋肉が指に触れた。
「うお、うおおおおおおおおおおお」
思わず両拳を、晴れた空に突きあげる。
向こうからやってきた小さな子どもが、きょとんとしたあと、パチパチと手を叩いて笑った。
大輔がスマートフォンを確認すると日曜日の朝だった。
十年前の自宅マンションは港区の湾岸だ。東京タワーの見える北向きより、東向きを選んだ。夜景のきらめきはないが、東京湾へとつづく運河が見渡せ、何より早朝から朝日が入る。少し暗いうちから走りに出て、部屋に戻ると窓から朝日があふれており、出勤前に気合いが入るのがよかった。
「好きだったなあ、この部屋」
懐かしさに、あちこちを見て歩く。
まめに掃除ができていたから、塵ひとつ落ちていない。家具は生活動線に沿って効率的に配置され、見えない収納が徹底されている。はっきり言って、最高に気持ちがよかった――と記憶していたのだが、どこか違和感がある。
まあ、十年前のことだし、まだ馴染まないのかもしれない。
特に気に入っていたベランダに出ると、潮の香りが鼻先をかすめていった。
もう一度空に両拳をつきあげたあと、軽く体を伸ばす。ストレッチをしても、腰に鈍い痛みが走らない。それだけで、かなりありがたい。
部屋に戻って、もうひとつのお気に入り、キッチンに入る。
冷蔵庫を開けると、有機野菜や果物とミネラルウォーターで冷蔵部分が埋め尽くされている。冷凍庫には、ささみが大量に保存されていた。
このころは家で酒なんてほとんど飲まなかったんだな。
カウンターにはコーヒーメーカーとジューサーのみ。朝は季節の野菜とフルーツのスムージーで済ませていた。
それでも、なぜか一本だけ置かれているボトルがあった。
「なんでこんないい酒があるんだ?」
二十年もののワインである。ラベルを見て、だんだんと記憶がよみがえってきた。
「そうか、これ――」
昇進の話をもらったときに、自分へのお祝いに奮発して買ったヴィンテージものだ。
もちろん、昇進試験に受かるという前提でだが、ぜひ試験を受けてくれと上司から打診され、ふたつ返事で承諾したことを思いだした。
いやいやいやいや――。ぜったいにないだろう。
俺はもう、この体形も平社員の地位も手放さない。
「昇進なんて、ぜったいしない」
急いで脱衣所へと向かい、シャワーを浴びた。
「久しぶりだなあ、この体」
体が普通に洗える。背中にだって楽に手が届くし、足の指のあいだだってきれいにタオルでこすれる。
当たり前の行為が奇跡に思えて、不覚にも涙がにじんできた。
それでも、部屋を見たときと同じような、なんともいえない違和感が、シャワー中にも頭をかすめた。
いったいなんなのだろう。じれったさにイライラとさせられる。もしかして時帰りの副作用のようなものだろうか。
「あ」
手首の内側を見ると、過去へ戻ってきたばかりのころにはくっきりと輝いていた光の棒の一本が、やや薄くなっている。
「時は金なりってわけか」
明日は出社したら、さっそく昇進を断ろう。
シャワーからあがったあと、すっきりとした気分でみずからに宣言し、大輔は十年ぶりにバナナとキウイのスムージーを飲んだ。
夜明け前、目覚ましの鳴るかなり前に目が覚めた。
起きるのが面倒だと脳が気づく前にベッドから跳ね起きる。そう、この跳ね起きるための腹筋のバネに会いたかったのだ。
目覚まし時計が鳴った。
身づくろいして白湯を一杯飲んだあと、ジョギングシューズを履いて外へと飛び出す。
「子どもかよ」
気分はまるで遠足当日である。
手首にはくっきりとした光の棒が一本と半分、燦然と輝いていた。
太陽の光に手首をかざし、そうかと気がつく。
この過去の時間そのものが遠足なのだ。
あらためて考えてみると、すごい体験をしている。どんな旅行パンフレットにも載っていない旅先にいるのだ。どれだけ金銭を積んでもいいという金持ちだっているだろう。
時帰りをする前までは、ごく一般的な日本人としての宗教観――困ったときだけ神頼みのたぐいだった大輔も、本気で神の存在を感じずにはいられなかった。
まさか安いSFみたいに、昏睡状態に陥った俺が夢を見ているってわけじゃないよな。いや、それでもいい。これが夢でも催眠でも、なんでもいい。
自分の体を見おろす。腹は出ておらず、Tシャツの下に腹筋を感じる。それがすべてだ。
「走る!」
ちくり、と小さな違和感がまたもや頭をよぎったが、吹っ切るように叫んだ。
当時は音楽を聴きながら走っていたが、今朝はあえてイヤホンをつけずに外へ出た。空気が乾き、ひんやりとしている秋の夜明け前、ジョギングコースの遊歩道までやってくると、入念にストレッチをはじめる。
ほどなくして、手足の先まで体が温まってきた。
懐かしい代謝の熱だ。肥えた体を揺すって移動するときの熱じゃない。
視界の向こうの空が、うっすらと明るんでくる。
あまりのありがたさに、また涙で視界がにじんできた。十年前の体に戻っても心はおっさんなのだ。涙もろいのは仕方がない。
一歩、また一歩、ゆっくりと。足の裏にアスファルトの地面の固さを感じながら走りだす。体中の細胞が昇る朝日を感知し、喜びに沸きたっている。
軽い、軽い、軽い。
足が力強いストライドを刻み、前へ、前へ、前へ。
進んでいく。風が頬を切る。
自分に不可能なことなど、何ひとつないような気になる。
そうだ、このころの俺は、まさか過去を振り返りたくなるような未来が待っているなんて思いもしなかった。仮に、今の大輔が置かれている状況を訴えても、どこかの能なしにやってくる未来だと鼻で笑ってみせただろう。
驕っていたな。でもそれが若さってものだろう? 実際、少しくらい増長しても仕方がないほど仕事ができたし、稼いでいたし、この体だし?
だが、やはりどこか引っかかった。とても大切なことを、忘れている気がする。
対岸から川面を揺らして渡ってくる風が、体の熱を冷ましながら通り過ぎていった。
先ほどまで白んでいた空が、徐々に、何かに焦がれるようなオレンジに燃えはじめた。
ふっふっと規則正しい息を吐きながら、さらに進む。
まあ、何を忘れているにしても、些細なことに違いない。
なぜって、体はこんなにも軽いのだから。いや、記憶していたほどは軽くないか。もしかして中身がおっさんになったせいで、うまくこの若い体を使いこなせていないのかもしれない。
それでも軽い。羽根のように軽い。
どこまでも走っていける気がする。
こめかみを伝う汗が、こんなにも愛おしいものだったと大輔は久しぶりに思い出していた。
出勤後、オフィスのデスクに座りながら、大輔はため息をついた。
PCのスペックが、とにかく今より劣っている。本体は威圧的に大きく、動作が遅い。
十年も前の仕事内容などすっかり忘れているから、まずは思い出すためにメールや資料のチェックに忙殺された。合間でニュースを読みこむ。景気は、今ほど悪くはないが、それでも悪い。今仕込んでおけば十年後には大化けする株もあるにはあったが、汀子の顔を思い出し、泣く泣く手をつけないことにした。
また、ため息がこぼれる。
「よお、今日も早いな」
声をかけてきたのは同期の土岐だった。のんきに笑う顔を見て、憂鬱に拍車がかかる。
「どうしたんだ、なんで俺をそんな哀れみの目で見る?」
「いや、そういうわけじゃないんだが」
おまえの奥さん、後輩の須崎と浮気してるぞ。もうすぐそのことがわかって会社に希望し、傷心のまま上海支店へと旅だっていくんだ。彼の地では中華料理三昧で、俺と同じくらい――太る。
さすがに、心の中だけで告げた。
ただ、当時はくわしい事情など知るよしもなく「このまま先の見える人生を歩くよりはちょっと海外へ武者修行にな」などと笑っていた土岐の言葉をそのまま信じていた。それどころか、見下してさえいた。
仕事よりも家庭優先。ワークライフバランスなどと言って、出世コースをみずからはずれていくような生き方をしたうえに、相手に逃げられるなんて、と。
ああはなりたくないと思っていたが、今の自分もそうたいして変わらない。
上機嫌で去っていく土岐を見送ったあと、PCの画面に視線を戻した。
このころ、つくづく仕事は楽しかった。やることすべてうまくいったし、同期で昇進試験を打診されたのは大輔くらいのはずだ。
社会人として、のりにのっている時期に戻ってきた。
なのに、昨日からときどき襲われる違和感に、今もふたたび襲われている。
三度目のため息をついて、少なくとも今の違和感の原因にようやく思い当たった。
記憶のなかのデスクよりも、なんだか、勢いがないのである。
走り書きがあちこちに散乱し、新聞に付箋が貼られ、資料本を読みこんで世界情勢を、いや、未来の世界情勢を俯瞰していた。まるで予言者のように、大輔の想像は当たった。世界を動かしているのは自分なのではないかと思うほどに。
華々しい社会人生活を謳歌しているはずの男のデスクはしかし、こんなにも簡素で、殺伐としていただろうか。
積んであったはずの資料本も、新聞もない。ネット検索の履歴は、通勤電車の沿線沿いの居酒屋と――転職サイトばかりだった。
わけがわからず、とりあえずトイレへと駆けこむ。
落ち着け、俺。
個室にたてこもり、頭を抱えて深呼吸を繰り返した。
転職? なぜ、こんな絶好調のときに転職サイトなんかをのぞいているんだ。
十年前のこととはいえ、そんなことを考えていたとしたら、忘れはしないだろう。だとしたら席を間違えたのかと思ったが、たしかに自分の席だ。
いや、そういえば魔が差して転職サイトの一つや二つ、のぞいてみたことがあっただろうか。それとも誰か他人のために職探しでもしていたとか?
我ながら無理のある推測に苦笑が漏れる。
手のひらに嫌な汗が浮かんできた。
俺は、十年前の俺はいったい、何をしようとしていたんだ?
見知らぬ他人、しかも、当時の自分よりもかなり劣った男のなかに意識だけ入りこんでしまった気分である。しかしやはり、この体は大輔自身のものだ。
「うう」
軽く呻くと、大輔は両手の平に顔を埋めた。