第三話 高くついた買い言葉(承前)
竹林で美弥子を待っていたのは、雅臣だった。
まっすぐに立っていられずふらついてしまった美弥子に、ペットボトルの水を差しだしてひと口飲ませてくれる。
「時帰りの副作用です。行く前の肌への刺激と同じで、この神社の湧き水を飲むとじきに改善されますので」
ふたりでこよみ庵へと向かい、先ほどと同じ席に腰かけた。部屋のすみにはテーブルにうつ伏せになって、汀子らしき人物が休んでいる。
「気にしないでください。時帰りで神楽を舞うと、かなり疲れるようでしばらくああです」
「え、大丈夫なんですか」
「明日にはけろっとしてますから」
ずいぶんと立ち直るのに時間がかかるようだ。
汀子のかわりに雅臣が茶を点ててくれた。ふらつきが大きい人間には、このお抹茶も効くらしい。
テーブルにお抹茶を置きかけて、雅臣がはたと手を止めた。
「今さらですが、お抹茶のカフェインを摂取しても大丈夫なんですか」
意外に細やかな気遣いをすることに驚きながら、うなずいてみせる。
「一、二杯なら平気らしいです。ありがとう」
雅臣は、今度こそお茶をテーブルに置いたあと、美弥子の向かいに腰かけた。 手帳とペンを持ち、やや緊張の面持ちで尋ねてくる。
「さっそくですが、時帰りはどうでしたか」
ひと言では言い表せずに言葉に詰まっていると、雅臣が言い訳めいた口調になる。
「神社に記録を残しておきたいものですから。できる範囲でご協力いただければ」
ひと呼吸おいて、美弥子はようやく答えた。
「なんというか、すごい体験でした。子どものころの夢が叶ったんですから」
そういえば、時帰りをしていたときのように、思考に霞がかかるような嫌な感じはもうない。今集中したいことにしっかりとフォーカスでき、応答するさいに舌がもつれることもなかった。
「それで、肝心の目的は達成できたんですか」
「ええ。ケンカする前日に戻って、今度はきちんと話せました。余計なひと言をぶつけちゃったこと、ずうっと後悔してましたから。夫と話す前に、ママ友に話を聞いてもらえましたし、何より、産後半年たった自分が見るからこそ、あのころの自分が少しおかしいことに気がつけて」
雅臣が、美弥子の声を書きつけているらしいメモ帳からはっと顔を上げた。
「失礼、つづけてください」
「夫に、私はおかしいと思うって率直に伝えることができたんです。あと、限界だから夫にも育休を取ってほしいとお願いしちゃいました」
そのおかげで、要求どおりの三ヶ月は難しかったが、和宏も二ヶ月は育休を取得できることになった。
二ヶ月のあいだ、和宏も美弥子のように一から新米の父親として彩花を世話し、夜はミルクをやり、お風呂に入れて着替えをさせるところまでをセットでできるようになったし、食洗機に放りこんだ食器を元の位置に戻すことをおぼえた。
「この半年、私も夫も、彩花にじっくり育ててもらえたと思います」
例のパパ会は今でもつづいているが、対になるママ会も発足し、もはやたんなる家族ぐるみの会合として楽しく定例会が開かれている。
雅臣が、いつのまにか走らせていたペンを止めて俯いていた。
「――と思いますか」
「はい?」
「時帰りした自分が過去の体に宿るからこそ、そのときの状況をよい方向に変えられたと本当に思いますか」
雅臣の声は暗く、どこか問い詰めるようだった。
「え、ええ。それはもちろん。だって当時の私はあまりにも疲れていて、眠くて、とてもまともに判断できる頭じゃなかったですし、ずっとずっと後悔していましたから。やり直せて心からよかったと思っています」
「俺は、そんなのはただの偶然だと――」
「お、に、い、ちゃ、ん」
よろよろと身を起こして、汀子が兄を咎めた。
「にゃあん」
気がつけば美弥子の足元にいた先ほどの猫も、抗議するように鳴き声を上げる。
小さく息をついたあと、雅臣がつづけた。
「ご主人とうまくいくようになったのは、とても喜ばしいことだとは思います。特に、お子さんにとって両親は――世界のすべてですから」
「ええ、これからもあの子を未熟なりに育てていこうと思います」
それまでのとげとげしさが一瞬消えて、雅臣がやわらかく微笑む。
「それじゃ、私、そろそろ帰りますね」
パパ会で料理をおぼえてきた和宏が、今日はおいしいビーフシチューを煮こんでくれているはずだ。
雅臣は「送ります」と短く告げて神社の出入り口まで来てくれた。
「あの、あなたは大丈夫ですか」
少し元気のない様子が気になって、美弥子は思わず尋ねてしまった。
「ええ、もちろんです」
少し迷うように瞳を揺らしたあと、雅臣が告げる。
「俺は時帰りに失敗したので、あなたが成功してとてもほっとしています」
「え?」
それ以上なにかを尋ねる前に、雅臣はこちらに背を向けて戻りはじめている。背中に竹林の影がかかり、さわさわと葉の擦れる音が寂しげに響いていた。