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第三話 高くついた買い言葉(承前)


 広い多目的トイレの壁に、ふたり分の盛大な泣き声が響く。思考を霞ませる何かを押し流すように、あとからあとから、涙がこぼれ落ちていく。
 どれくらいそうしていただろう。五分か、十分か、もしかしてたった一分ほどだったかもしれない。
 ふたりの泣き声に、スマートフォンの着信音が混じりはじめた。
 はっと我に返って画面を確認すると、相手は咲良だ。
 電話をとって咲良に助けを求めれば、すぐに解決する問題だった。
「ごめん、おむつを忘れちゃったみたい。一枚、もらえないかな」
 そう告げれば、咲良はなんのちゆうちよもなく紙おむつを差しだしてくれるだろう。
 それでも――おそらく美弥子たちの帰りが遅いのを心配して連絡をくれた咲良に、母親としてこんなにも至っていない姿を見せるのが嫌だった。理屈ではない感情がこみ上げてくる。これが、過去の自分の体に刻まれた感情なのか、それとも半年後の自分が変わらず抱えている感情なのか、判断がつかない。
 バカ、そんなプライドにこだわってる場合じゃない。母親なんだから、彩花のことをなんとかしてあげなくちゃ。
 自分で自分を叱咤し、通話ボタンを押す。
「もしもし」
『もしもし? 美弥子さん、大丈夫? 実は今、多目的トイレの前にいるんだけど、中にいる?』
 その声があまりに切羽詰まっていて、逆に驚かされた。電話に出た声で、泣いていたのが丸わかりだったろうか。いや、そもそも自分たちの泣き声が外まで響いていたのかもしれない。
「ごめん、ちょっとおむつを忘れちゃって。あの、できれば一枚もらえないかな」
 つづいて答えた声も、いい加減、鼻声だ。
『もちろんだよ。入り口開けてくれたらすぐ一枚パスするね』
「ありがとう」
 自分のふがいなさに打ちのめされながら、緑の開くボタンを押した。どうして開くボタンはいつも緑で、閉じるは赤なのだろう。鼻をすすりあげながら、そんなどうでもいいことが気になった。
「これ、どうぞ」
 準備して、待っていてくれたのだろう。細い隙間が開くなり、ビニール袋をぶらさげた咲良の手がにゅっと伸びてきた。
「私、あっちで適当に待ってるから。ゆっくりおむつ替えてきてね」
「うん、ありがと」
 ドアが開ききる前に、咲良は姿を消していた。
 受け取ったビニール袋には、紙おむつが三枚。それに、使用済みオムツを入れるビニール袋も三枚入れられている。それからなぜか――よく冷えた保冷剤も。
 情けなさとありがたさでふたたび泣いたあと、彩花のおむつ替えを済ませて多目的トイレを出た。廊下の向かいに設置された長椅子に腰掛け、やや腫れたまぶたに保冷剤を当てる。熱を持ったまぶたに、冷気が心地いい。
 なぜこんなものを咲良が持っていたのかは不明だが、いずれにしても準備のよさが比べものにならない。母親として、いや、人間としての出来が違うのだと思い知らされた。
『お待たせしちゃってごめんね。もう少しかかっちゃうかもしれないから、先に講習を受けて帰ってて。保冷剤とか、紙おむつとか、今度会ったときに返却でもいいかな』
 咲良にメッセージを送ると、すぐに返信があった。
『もしよかったら、検診のあと少しお茶しない? この近くに、赤ちゃん連れでも気を遣わないお店があるの。私は先に行ってるから、気が向いたら合流して』
 検診を終えしだい帰りたい気持ちもあったが、世話になった手前、断りづらい。
『お誘いありがとう。ぜひぜひ』
 絵文字をつけ、返信をした。そろそろ目の赤みも落ち着いただろうか。
 泣き止んであたりをきょろきょろと見回している彩花を抱っこしたまま、蒸れる胸元に手うちわで風を送った。立ち上がって、検診の列へと戻る。ちょうど先ほど声をかけてくれた看護師がおり、美弥子たちを次に呼んでくれた。
 検診の結果はどれも問題がなく、彩花はすこやかに成長しているらしい。
 健やかでないのは、結局、美弥子だけ。
「ごめんね」
 小さな声で囁き、にこに覆われたやわらかな頭をなでる。
 咲良が送ってくれたカフェのリンクを開いてみると、場所は今いる保健センターのすぐ向かいだった。億劫な気持ちを奮い立たせ、カフェまでベビーカーを押して道をわたった。

 向かいのカフェに到着すると、 雲行きのあやしかった空から大きな雨粒が落ちはじめた。
 咲良は爽鞠に向かってビニール製の絵本を見せている。あやし方がうまいのだろう。 爽鞠は、まやまやと手を動かして笑っていた。
 四ヶ月であんなにも表現が豊かなのは、やはり育児力の差に違いなかった。
 じっと見つめすぎたのか、咲良が美弥子に気がついて手を振ってくる。
「ごめんね、お待たせしちゃって」
 ベビーカーを押して、咲良の席へと到着した。着席してメニューを見ると“たんぽぽコーヒー”“デカフェコーヒー”の文字が目に飛びこんでくる。
 美弥子は大のコーヒー党だが、授乳のためにカフェイン入りのコーヒーを控えている。かといって、デカフェのコーヒーはあっさりとしすぎていて物足りない。
 がっかりするくらいなら、ほかの飲み物にしようか。
「たしか美弥子さん、コーヒー飲みたがってたよね。ここのデカフェのコーヒー、けっこうおいしいの。よかったら試してみて」
「そうなんだ。それじゃ、頼んでみようかな」
 そういえば前回の検診では、咲良に誘われることもなかったことに気がつく。ふたりでデカフェのホットコーヒーを頼み、五分後、飲もうとしたところで爽鞠がぐずった。咲良はなんでもないことのようにスマートフォンでキッズ向けの動画を流し、爽鞠に持たせた。
 ぐずりがぴたりとやみ、「ふう」と息を吐いて咲良がおいしそうにコーヒーを飲む。
 彩花はベビーカーでの移動が心地よかったのか、眠ってしまったようだ。
「もうね、うちの育児なんて手抜きに次ぐ手抜きなの」
 いたずらを見つかった子どものように、咲良が美弥子に向かってくしゃりと笑った。
「お兄ちゃんのときに張り切りすぎて失敗しちゃってね。産後鬱の診断を受けちゃって。だから今回はいい加減にしてるの。動画を見せるのなんて当たり前だし、ミルクにも頼りっぱなし、家事はプロにお任せしちゃうこともあるし、周囲の手を借りまくってるんだ」
「うそ」
「ほんとほんと。だから――間違ってたらごめんね。もしかして美弥子さんも、少し気持ちが不安定になったりしているのかなって」
 こちらを見つめる咲良の声があまりにも真摯で、まだ水っぽい視界がふたたび濡れていく。ぐっとこらえて、声を絞りだした。
「さっきはパニックになっちゃって。もしかして私、はたから見ても おかしかったかな」
「おかしいなんてそんなこと。むしろ私からみたらとってもしっかりしてるし。でも、ちょっと疲れてそうだったから、寝不足なのかもなって気になってたの。ほら、今ってぜんぜん眠れない時期でしょう」
「そうなの。細切れ睡眠だとなかなか寝た気になれなくて。しかも夫は遅くまで帰ってこないし、父親の役目はお手伝い程度にしか思ってないのが丸わかりで」
「くう、わかる。うちも最初はそんな感じだった。赤ちゃんと夫、両方育てるのってけっこう骨だよね」
「え、咲良さん、どうやって旦那様を育てたの」
 思わず身を乗りだした美弥子に、咲良はうんうんとうなずいたあと告げた。
「こまごまやることはあるだろうけど、まずは美弥子さん自身のケアをしたほうがいいと思う。出産した産婦人科で相談してみたらどうかな。私はホルモンバランスの乱れがけっこう激しかったみたいで、ホルモン療法をしたり。あと授乳もつづけられる抗鬱薬も処方されたり。しんきゆうにも通って、これがけっこうよかったよ。でもいちばんよかったのはカウンセリングかな。心療内科に併設されててね。心の中にたまってた鬱憤をあらいざらい打ち明けて聞いてもらって」
「何がきっかけで産後鬱かもって思ったの」
「う~ん、あんなに待ち望んでいた長男なのに、ヒステリックに怒鳴って愛情を感じられなかったときかな。あ、私おかしいかもって」
 信じられなかった。咲良は、いつも育児に余裕を持っているように見えた。子どもに怒鳴るなんてもってのほか。何度でもやさしく諭している姿しか見たことがなかった。
「だから、よかったら私も愚痴くらい聞くし。周囲に話すことに抵抗があったら、私の行ってたカウンセリングルームを紹介してもいいし。とにかく、ひとりで何でもやろうとしないでね」
 カフェのコーヒーは、苦みもコクもしっかりとあり、世界をしばらくのあいだ、くっきりと見せてくれた。

 

(第16回につづく)