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第五話 だいすき(承前)


 いつもなら帰宅してすぐに、汗をかいたからとシャワーを浴びるよう口うるさく急かすところを、今日は美緒も教也もなにも言わなかった。すると、花音のほうからさっさとバスルームへと向かっていく。
 思わず美緒と目をあわせてしまった。
「すぐおふろから上がってくるね。あと、やっぱり人生ゲームやめてごはんたべる」
 なんでも自分の思いどおりにはならないんだぞ、などという説教じみた返事も引っこめて、「わかった」と軽くうなずくだけにした。
 さすがに花音もなにか感じるところがあったのか、脱衣所へとつづくドアの前でいったん立ち止まり、はにかんでみせた。
「今日、パパとママ、すっごくやさしいね」
「今日だけじゃくて、いつもやさしいだろう」
 おどけてみせると、くしゃりと笑って身をくねらせている。
「ママ、夕食の支度しておくから。今夜は花音のだいすきなもの、いっぱいあるよ」
「やったあ」
 そのままスキップで脱衣所へと吸いこまれていった。
 美緒とふたりして台所に立つと、いつか花音の離乳食づくりを手伝ったときのことを思いだした。それは料理の苦手な教也でもどうにか即席でつくれる唯一の食事だった。
 たかだかにんじんをったり、カボチャを擂りつぶしたりして口に運んでやるだけ。もっと勉強して、もっと色々つくってやればよかった。料理だけじゃない。もっと、色々してあげたかった。もっと、もっと、いっしょの時間を――。
 そっと腕に美緒の手の平がおかれ、いつの間にか動きが止まってしまっていたことに気がつく。
「悪い。ええと、なにを手伝えばいいんだっけ」
「それじゃ、このクッキーにチョコレートでメッセージを書いてくれる? 私、書こうと思ったんだけど、頭のなか真っ白になっちゃって」
「――そうか」
 俺も真っ白なんだけどな。
 戸惑いながら、美緒からチョコレートを絞りだすスティックを受け取る。
「ごめん、やっぱり俺もわかんないや」
「だよね。それじゃ、適当に水玉とかでもいいし。あと、フルーツサラダをえてくれる? マヨネーズとヨーグルトと蜂蜜を混ぜたソース、そこにあるから」
「わかった。いっしょにお風呂に入ってこなくていいのか?」
「うん、なんだか歯止めがきかなくなりそうで」
「そっか。そうだよな」
 あとは無言でフルーツを和える。花音の好きな季節はずれのイチゴやマスカット、リンゴまで入っている。
 ハンバーグ煮込みも、クラムチャウダーも、花音が逝ってしまってからはいちども食卓に登場したことのないものばかりだった。
「喜ぶだろうな」
「うん」
「喜ばせてやろうな」
「――うん」
 美緒の肩が細かく震えていた。抱き寄せようと腕を伸ばしたひょうしに、先ほどよりさらに薄くなった光の棒が目に飛びこんでくる。
「時間、もうあんまりないみたいだ」
 美緒が、ティッシュをぱっと手にとって鼻をちんとかんだあと、頬を両手で軽く叩いた。
 シャワーを浴びて部屋着に着替えた花音がスキップで部屋に入ってきた。
「ねえ、おなかすいた」
 甘えた声で狭いキッチンに入り、ふたりにまとわりついてくる。
 こらこら邪魔だぞ。
 などと尖った声はもちろんださない。代わりに、しゃがんで抱きしめてやると花音は教也の腕のなかで身をよじって笑いながら抜けだした。
「おてつだいしにきたんだからはなして。ねえ、ママ、できたおさらをはこぶからちょうだい」
 両手を差しだした花音に、美緒がかすかに目を見ひらく。そのあと、おそらく教也よりも強く抱きしめて告げた。
「どうしたの? たった一日ですっごくお姉ちゃんになっちゃったみたい」
「だってもう小学生だもん」
 母親の腕からもすり抜けたあと、花音がつんと鼻をそらしてみせた。その姿をあわてて写真におさめる。
「それじゃ、ちょっと重いけどフルーツサラダを持っていってくれるか」
「はあい」
 両手で大切そうにサラダボウルを受けとると、抱えるようにしてダイニングテーブルへと持っていく。
 大好物をテーブルに並べ、花音がいつも使いたがっていた来客用の食器をだして、真んなかには花音が好きなチューリップの花を飾った。
 花音が「わあ」と歓声をあげる。
「パーティーだね」
 一瞬の沈黙のあと、くしゃりと美緒が笑った。
「うん、家族のパーティーだね」
「じゃあ、かんぱいしなくちゃ」
「もちろん。乾杯用のサイダーも買っておいたからな」
「やったあ」
 テーブルの上は、栄養バランスもへったくれもない花音の好物であふれかえっている。ぴかぴかの瞳に大好きなものばかりを映して、花音が笑っている。
 自分がいま、なにをどう感じているのか、もはや教也にはわからない。ただ、胸のなかがぱんぱんに膨れあがり、いまにも破裂してしまいそうだった。
 グラスには三人ともジュースをついだ。
「それじゃ、花音に乾杯の音頭を頼もうかな」
「いいよ。かんぱーい」
 三人でグラスをあわせる。サイダーの泡が勢いよく昇っていく。
 なにを話したのか、ひとことも漏らさずに覚えておくつもりだったのに、花音の話す声はあまりに澄んでいて、話す言葉はあまりにかわいらしくて、他愛がなくて、胸に止めようとすればするほど、くゆる湯気のようにはかなく消えてしまう。
 瞬きをこらえれば、この時間をテーブルの上で押しとどめられる気がして、教也はくるくると表情を変える娘のすがたをただひたすら見つめつづけた。

 

(第39回につづく)