第四話 永遠の縁日(承前)
大地と別れてからは、とにかく走った。練習をしていたグラウンドは街はずれにあり、家までは少し遠い。
明日は夏祭り当日。少しでも無駄な時間を使うわけにはいかなかった。
家に飛びこんだあとはあいさつもしないで、階段を駆けあがって兄の部屋へと急ぐ。
「空斗なの? きちんとただいまを言いなさい。手洗いうがいと着替えは終わったの?」
仕事帰りで気が立っている母親が階段下から叫んだ。それでも、そんなことにはかまっていられない。
どうしても明日は家族で出かけなくちゃ。それが、大地の望みだから。
お年玉貯金をぜんぶ差しだせと言われるかもしれない。それとも、一生奴隷になるなら考えてやってもいい、とか?
息を切らしながら部屋のドアをノックする。
「陸、いる?」
「いるけど、ドア開けんな」
「じゃあ、ここで話していい?」
「うっざ。なんだよ」
少し前までの兄なら、ここまで空斗への態度はきつくなかった。それが最近、母親が言うには反抗期のせいで口が悪くなったり、あまり話さなくなったり、家族と楽しく遊ぶのを嫌がっている。
「あのさ。明日の夏祭りなんだけど、やっぱり家族で行かない?」
「ぜってー無理に決まってんだろ」
ドアの向こうからバカにしたような声が返ってきた。思ったとおり厳しい試合展開になりそうだ。
「で、でもさ。夏祭りはいつも大地の家族と行ってたし、陸だって楽しいでしょ? 真穂ちゃんもいるし」
真穂は大地の姉で、陸と同学年だ。姉弟が引っ越したあと、強がってはいたけれど、陸だってかなり寂しそうにしていた。
「ねえ、きっと後悔するよ。来年からはもう友だちと行っていいから、今年だけはいっしょに行こうよ」
「親といっしょに出かけるやつなんていねえよ。真穂だって――クラス離れてからほとんど話してないし」
「え――?」
自分と大地がそうであるように、もしかしてそれ以上に、陸と真穂は仲のいい二人だった。その二人がほとんど話してない?
それでも桜が咲いていたころは、よく真穂ちゃんが家に来てゲームもやってたよね?
「ぼくにもプレイさせて」と頼みこんでも、陸はぜったいに仲間に入れてくれようとせず、いつも真穂が「いいよ」と混ぜてくれていた。
「どうして? ケンカでもしたの」
尋ねると、少し間があいたあとで乱暴にドアが開いた。
夏のあいだいちだんと背の伸びた陸が、目の前にそびえ立つ。
「こんど余計なこと聞いてきたら、ぶっとばす」
どんっと肩を強く押され、バランスを崩してしりもちをついた。
陸の片眉がぴくりと跳ねる。きっと、そんなに強く押すつもりはなかったのだろう。
陸が動揺している今がチャンスだ。
さっと立ち上がって、もう一度頼みこんだ。
「明日、夏祭りに家族といっしょに行って。どうしても、いつもみたいに二つの家族で出かけたいんだ。陸だって今年行かなかったらぜったいに後悔すると思う」
「うるさいっ」
空斗の目の前でふたたびドアが乱暴に閉ざされた。
このままじゃ、大地との約束を守れない。
こぶしをギュッとにぎって、余裕のない音を立ててドアを叩く。
陸が部屋の奥からドアへと向かってくる乱暴な足音が聞こえた。
ドアが開くなり真っ赤な顔が飛び出してきて、にゅっとのびた手が空斗の胸ぐらをつかむ。自分では大きくなったつもりでいても、中二の兄の手にかかると昆虫か何かのように軽く持ち上げられてしまった。
「ふざけんな。なんでオレがおまえの言うこと聞かなくちゃいけねえんだよ」
今度はわざと廊下にころがされた。クーラーで冷えた空気が廊下に漏れているのか、ひやっとした床にほっぺたがもろにぶつかる。
「こらっ、二人ともなにやってるの」
母親の叫ぶ声が階下から聞こえても、陸は答えようともしない。
どうしよう――。
離ればなれになる大地に、いま空斗ができること。それは大地の願いを叶えてやることだ。無事に“みんなの夏祭り”を成功させるくらいしか自分にできることはないのに。
お母さんに相談してみようか。
床に倒れこんだまま、ぼんやりと考える。
よくよく考えてみたら、大人なら、転勤の連絡を子どもたちよりも早く知ったかもしれない。それなら、最後の夏祭りにはいっしょに行くよう陸を説得してくれるかも。
少し考えたあと、ひとりで首を横に振る。
陸についていくといったとき、ぼくに対してもお母さんは何も言わなかった。だとしたらぼくと同じように、直前まで何も知らされていなかったんだろう。
大地も大地だ。どうして何も言ってくれなかったんだよ。
頬の下で、床はとっくにぬるくなっている。夏祭りのつい一週間くらい前にも大地が家に遊びにきて、ふたりでこうやって床に頬をくっつけて笑いころげていた。あんなに笑ったのはなぜだったのか、いまはもう忘れてしまった。
のろのろと起き上がって階段を降り、キッチンに立つ母親のもとへと向かった。
味噌汁のいい匂いで、ものすごく腹ぺこだったことに今さらながら気がつく。
空斗に気づいて振り返った母親の目尻がつり上がった。
「どうしてまだ着替えてないの? 手洗いうがいもしてないんでしょ」
「いますぐやるから。でも先に聞きたいことがあるんだけど」
「なに。さっさと言いなさい」
「あのさ、大地のお母さんから何か聞いてない?」
母親の片眉がかすかに上がる。
「明日のお祭りのことで?」
「それもそうなんだけど、どっちかっていうと家のことで」
「さあ、なにも聞いてないけど。あ、でもそう言えば――」
言いかけてはっと口をつぐむと、母親はふたたび目の形を三角にしてつり上げた。
「とにかく、ごはんを食べるんだから、さっさと準備をしなさい」
「わかった」
母親はあてにならないらしい。けれど、空斗だけで兄を説得するのは無理だ。
こうなったら、最終兵器の真穂ちゃんに相談してみようか――。
小さいころから、兄弟の関係は兄が絶対だったけれど、その兄も真穂が相手となるとコロリと意見を変えるのがお約束だった。ちょうど真穂のピアノ教室が終わる時間だったことを思い出す。今から自転車を飛ばせば、真穂が家につく前につかまえられるはずだ。
「お母さん、ぼくちょっと真穂ちゃんのところに行ってくる」
何か言われる前に廊下を走ってつっきり、玄関を飛び出す。
「ちょっと、空斗っ」
焦る母親の声を、玄関の戸を強く閉めてさえぎった。