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第三話 高くついた買い言葉(承前)

 
 咲良と別れたあと、まだどこか呆然としたまま家路をたどった。カフェで話しているあいだに通り雨はやみ、前回のようにずぶ濡れになることはなかった。
 私は、見たいものを見たいようにしか見ていなかったの?
 悲劇のヒロインになるために、咲良の余裕がある部分しか見ていなかったのかもしれない。和宏に対しても、同じだ。もしかして、夫も自分と同じように余裕がないのだという事実は見ようとしていなかった。聞きたいことしか、聞いていなかった。
 ――マッサージにでも行ってきなよ。
 ――俺、洗濯とか皿洗いやっておくからさ、残しておきなよ。
 和宏はそんなふうに声をかけてくれていたのに、自分のやり方でやってくれないのが嫌で、断ってひとりで抱えていたのはほかならぬ美弥子だ。
 カウンセリング、行ってこようかな。
 地下鉄を降りて外に出ると、黒々としていた雲の切れ目から、やわらかな光の帯が降りている。美しい景色を見ているうちに、ある考えが、美弥子の心にも差してきた。

 その夜、和宏が珍しく早めに帰宅した。
 出がけにプレッシャーをかけたせいか、過去にケンカの発端になった牛すじカレーの材料は買ってこなかったようだ。 
 しかし、美弥子の手首に現れている光の棒が、ごく薄くなってしまっている。
「おかえり。ね、ちょっと急いで話したいことがあるんだけど」
 着替えも待たずにそんな声をかけた妻に、和宏は「どうした?」と不満も示さずに尋ね返してくれた。
 このやさしい瞳も、見ようとしていなかったな。
 じょうずに話せるかはわからなかった。それでも、話そう。伝えよう。
 日々のルーチンタスクに優先順位をつけてまとめたノートは、いったんしまった。そんなものは、彩花の成長に伴って刻々と変わっていくし、こんなにも混乱した状態でまとめたノートが有効かどうかもよくわからない。
 だから、帰り道でひらめいた考えを、テーブルについた和宏に切りだす。
「あのね、私、けっこう限界みたいなの。それで――和宏も育休を取ってくれない?」
 和宏の瞳が、ケンカの夜と同じくらい見開かれる。
 しかし、そこに怒りの色はなかった。ただ、見たことのない生物を目の前にしたような戸惑いだけがある。
「すぐに実現できるとは思ってない。でも、すぐに実現して」
 和宏はしばらく口を開いては閉じ、開いては閉じたあと、ようやく答えた。
「いや、どこのワンマン社長だよ」
「無理かな 」
「――その無理を、今は美弥子ひとりに押しつけてるってことだろう? ごめん」
 和宏が頭を下げる。
 今度は、美弥子のほうが驚かされる番だった。前回なぜあれほどこじれたのか首を傾げたくなるほど、今回の夫は素直だ。
 ううん、この人は私の鏡だ。私も前とは変わっているのだ。
「俺、父親としてまだまだ未熟っていうのは自覚してる。でも、具体的に何をどうしていいのかわからなくてさ。会社で子どもが生まれた父親たちの勉強会をち上げたんだ。パパ会って自称して、メンバーで沐浴もくよくのこととかミルクの作り方とか習って。その結果、帰りも遅くなって本末転倒なことになってて」
「じゃ、ときどきかなり帰宅が遅かったのは、そのパパ会のせいってこと!?」
「ほんと、恥ずかしながら。もしかして、何かやってるつもりになって、本当の育児からは逃げてたのかもしれない」
 和宏がしょんぼりとうなだれる。
「平気なフリしてたけど、実は内心、赤ん坊の存在にけっこう戸惑っちゃってさ。母親は待ったなしだっていうのに、申し訳なかった。すみませんでした」
 ふたたびがばっと頭を下げる和宏を見て、ずっとかたくなになっていた心の奥底がゆるんでいくのを感じる。
 手首を確かめれば、金の棒がほとんど目をこらさなければわからないほど薄まっていた。
「――美弥子?」
「ごめん、和宏。今日はもう寝るね。育休のこと、検討してみて。あとこれ、タスクノート。家の中のこととか、子連れで出かけるときの準備とか、まとめておいたから」
「お、おお。ありがとう。これ、忙しいのにまとめてくれたのか」
「今はずうっと頭がぼんやりしてるから、ちゃんとはできてないと思う。もし育休が取れるようなら、そういうまとめも一緒にやってくれるとうれしい。それと、私があまりにもおかしかったら、産婦人科かメンタルクリニックに行くように勧めて。産後鬱っていう症状もあるみたいだから」
 鬱、という言葉に和宏がびくりと反応したことがわかった。唇を引き結んで、しっかり美弥子と向きあう。
「わかった。俺、さっそく明日、会社に相談してみる」
「ありがとう」
 産後はじめて、こんなふうに夫の目を見て感謝を伝えた気がした。 
 狙い澄ましたように、彩花がぐずりはじめる。
「ごめん、俺、授乳だけはしてやれないから行ってもらっていいか。あ、でもパパ会では、夜だけミルクにしている人も多いって――」
「私も今日、同じことをアドバイスされた。それじゃ、ミルクをつくってもらってもいい? つくり方は――」
「あ、それはパパ会で勉強してきた」
 思わず動きを止めた美弥子を、和宏が苦笑して早く行けとうながす。
 手首を確認すると、光の棒がほとんど消えかけていた。
 彩花のぐずるベビーベッドへと向かう途中で、何かにやさしく襟首をつままれたようにふわりと浮き上がり、半年前の自分から意識が引き離されたことがわかった。
 そっか、もう終わりなんだ。バイバイ、半年前の、彩花、和宏、わたし。
 上へ、上へ、光の中を移動しながら、頭の中で小さな記憶の欠片が甦りはじめる。不思議なことに、それらの記憶を、美弥子自身は経験した記憶がない。それでもたしかに、自分の過去だとわかった。
 これって、私が時帰りしたあとにできた記憶?
 朝から彩花相手に悪戦苦闘する和宏の姿が浮かんで 、思わずくすりと笑ってしまう。同時に、あたたかなもので胸がいっぱいに満たされる。
 彩花も和宏も毎日、こんな気分でいてくれるだろうか。いてくれるといい。
 願うのと同時に足がすとんと地面を踏み、元の竹林に立っていた。

 

(第17回につづく)