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第一話 この胸キュンは誰のもの(承前)


時帰り一日目 

 沙織が腰かけているのは真ん中ほどの列の、いちばん後ろの席。確かに、懐かしい高校三年生の教室だった。
「おい板谷、寝ぼけるのは休み時間だけにしとけよお」
「――奈倉なぐら先生?」
 沙織が呆然とつぶやくと、教室中が笑いではじけた。
 古典教師の奈倉は呆れたように首を振ったあと、黒板へピンクのチョークで波線を引いた。
「この活用、明後日の小テストに出るから、ちゃんと暗記しとけよ」
「期末終わったのにテストかよ」
 隣の席で、斉藤が大げさにのけぞっている。ちらりとこちらを見たあと、これ見よがしに顔をしかめてみせた。例の、沙織の告白を目撃し、クラス中にばらしてくれた張本人だ。特に会話もしたことがないのに目が合うといつも不機嫌な顔になるから、もともと沙織のことを気に食わなかったのかもしれない。
 しかし、大人になった目線で眺めると、憎かった斉藤は思ったよりも素直そうな少年で、かわいらしく見えなくも、いや、やっぱり憎たらしい。
 ぼんやり観察したあと、沙織はようやく我に返った。
 斉藤の顔などどうでもいい。これは大事件である。
 私、本当に過去に戻っちゃってる――。
 こんなことがなぜ起きたのか、そもそもこれは本当に起きている出来事なのか。あるいは、沙織の脳内でのみ起きているのか。
 次々と疑問が湧いてくるが、そのどれにも答えを見いだせず、ただ呆然と教室を見回すしかない。ただし、とある一角をのぞいてだが。
 夢じゃないよね?
 漫画のようにほっぺを軽くつねってみると、頬は十代らしくぱんと張っており、つまむと痛い。手の甲など一度も皿洗いをしたことがないようになめらかな肌で覆われていた。
 教室の椅子に座っているだけでも、自分の内側から尽きないエネルギーがあふれだしてくることに驚かされる。
 久しぶりに見るきめ細やかな肌をうっとりと眺めては、幾度も自問した。
 本当に、時帰りしちゃったんだよね。
 黒板の日付を確かめると、三月十三日。確かにあの運命の告白の日だ。
 あらためてそっと周囲を見渡してみた。
 昼休み後、いちばん眠い時間帯に、読経どきように似た奈倉先生の声が響く古典の授業。窓の外にはグラウンドが広がり、体操着に身を包んだ生徒たちがサッカーの試合で盛り上がっている。
 男子の多くは、袖丈のやや足りなくなった学ランに身を包み、女子はセーラー服にスカーフ姿で、おのおのが工夫を凝らした結び方をしている。
 沙織だけでなく、この教室にいる生徒たち全員から自意識がむせるほどのぼりたち、渦を巻いているように思えた。
 うつむいて、深呼吸を繰り返す。
 村岡君も、いるよね。
 これまでわざと見なかった、いや、勇気を出さなければ見られなかった場所へと視線を移したとたん、胸がぎゅっと絞られた。
 あの背中だ。
 学ランの上からでも均整のとれた体つきだとわかる。沙織よりずいぶん前の席なのに、がっくりとうなだれ、明らかに居眠りしていた。村岡は水泳部で、一年中、日に焼けていた記憶がある。今も、詰め襟からわずかにのぞく首は浅黒く、プールの塩素のせいで髪の毛はかなりパサついていた。
 ほうっとため息が出る。
 十七才の沙織も、こんなふうに眺めては、胸の中をしめるときめきをため息とともに吐き出していた。そうしないと、胸が風船みたいにふくらみきって、やがて割れてしまいそうなほど苦しかった。
 開け放した窓から、少し強い風が吹きこんでくる。その刺激のせいか、村岡の肩がぴくりと動いて、女子たちがいっせいにクスクスと笑い声をあげた。
 村岡を見ているのは、沙織だけではないのだ。
 クラスのヒエラルキーの中で、最下層ではないものの、決して上のほうでもない。沙織は、容姿や成績と同じく、ほどほどの真ん中に位置していた。
 そんな沙織がなぜこの日、おそれ多くも村岡に告白したのかといえば、もう自分の中に気持ちを抱えこんでいられなかったからだ。決して脈がありそうとか、告白さえすれば落とせる気がする、というような自信も余裕もなかった。むしろその逆で、きっぱり振ってもらって、切なくて苦しい片思いから抜け出したいと願っていたのだと思う。
 あの告白は、自分による、自分のための告白だったのだ。
 当時は切羽つまっていて、自分の心をこんなふうにつかむこともできなかった。
 ふたたび風が吹きこみ、村岡の短い髪の毛をほんのわずか揺らす。当時、あの風になりたいと健気けなげに願っていた自分を思い出し、ふっと口元がゆるんだ。
 校庭へ目をやると、桜の枝は、いざ花開こうとして幹からピンク色に色づいているように見える。午後の日差しがグラウンド全体を照らし、受験生にさえ勉学に身を入れろと言うのが酷な、春うららの一日である。
 せっかくの貴重な時間だ。その後も沙織は、村岡を眺めて過ごし、ため息をついてはふたたび眺めるという至福の時を過ごした。
「それじゃみんな、今日も帰ったら予習と復習を忘れるなよ。受験生に無駄な時間は一分もないからな」
 懐かしい担任の渡邊わたなべ先生の挨拶が終わり、いっせいに礼をする。
 今でもくっきりと覚えている。今日は水泳部が休部の日。用事でもあったのか、村岡はこのあと、ほとんど誰とも口をきかずに教室を出るのだ。
 HRの終わりとともに、記憶のとおり、村岡がすたすたと出口に歩いていった。
 そうそう、村岡君はこんな風に長い脚で歩いていたよね。
 過去の沙織は村岡を追って江ノ電に乗りこみ、鎌倉高校前駅で下車して彼を呼び止めて告白した。その場面を、なぜかあの駅に居合わせた隣の席の斉藤に目撃されて、悲惨な日々を送ることになるのだ。
 しかし今度は大丈夫だ。なぜなら沙織は、もう追いかけて告白などしないから。いわばこの席に座りつづけるだけでミッションクリアなのだが、気がつくとさっさと教科書をバッグにつめて、教室を飛び出そうとしている。
 いったい何をしようとしているのか、自分でもわけがわからなかった。ただ、体が勝手に動いてしまうのである。
「あ、ねえ、沙織。このあとモスバーガーに寄っていかない?」
「ごめん、今日はパス」
 よくグループで行動している桃香ももか陽葵ひまりの誘いをむげにして、廊下へと出る。
 懐かしい顔だったが、彼女たちとの友情も告白を機に壊れ、翌日から口をきいてくれなくなったことは今でも忘れられない。
 告白した翌日の朝、教室に入った瞬間、みながいっせいに沙織を見た。まるで自分が教室という生き物に侵入したウイルスになったような気分だった。すぐに、向けられている視線には敵意が混じっていることがわかった。意地の悪いクスクス笑いが、今でも耳に張りついている。
 救いを求めて親友だと思っていたふたりの姿を探したが、ふたりともうつむいたまま視線を上げようとはしなかった。
 言いふらした斉藤のことも、桃香や陽葵のことも、はっきり言って根に持っている。
 頭を振って苦い想い出を振り払い、村岡を追いかけることに集中する。
 視線の先に、広い背中がまだあった。移動中も、いろいろな人に声をかけられ、ときどきふざけている横顔が見える。
 あ、笑った。
「う」
 あまりにも久しぶりの胸キュンに、ふいをつかれて声が出てしまった。そういえば、最近では、よくて二次元の存在にしかときめいておらず、こんな鮮度の高いときめきは、刺激が強すぎた。
 いったん立ち止まって動悸がおさまるのを待ち、ふたたびあとを追った。
 告白なんてするつもりはないのに、相変わらず、まるで自分の体ではないみたいに両足が勝手に動いてしまう。
 ただ、あとを追うだけ。告白なんてめっそうもないし、あわよくば話したいなんて欲もない。
 ただ、追うだけ――。
 駅までの坂道をくだると、すぐに江ノ電の七里ヶ浜しちりがはまの駅だ。駅から道に出ると、踏切ごしに相模湾をのぞむ観光スポットがあり、海外から訪れる人も多い。懐かしい光景に足を止める間もなく、どんどん進んでいく彼のあとを追う。
 駅構内に入って江ノ電のホームに出たが、過去とは違い、同じ車両ではなく別の車両になるよう離れた列に並んだ。といっても、未練がましくすぐ隣の車両である。
 ときどき、背の高い立ち姿を盗み見ては、ほうっと息を漏らした。もう十年近くも経つのに、時帰りをしたら恋心まで戻ってきてしまったようだ。
 ふたたび、村岡の立ち姿を盗み見る。姿勢がすごくいい。大きなあくびをして、ぼんやりと空のホームを見つめている姿がかわいらしくもあった。
 疲れてるのかな。練習、いつも頑張ってたもんね。
 電車が到着するまであと八分ほど。その間、ずっと胸キュンが連続するとして、果たして沙織は生き延びられるのだろうか。
 心臓の律動音が、耳の奥で響く。ああ、十代のリズムは、確かにこんなにもはずんでいた。
 相模湾には午後の日差しが落ち、海面がまどろむように波打っていた。

 クラスの、いや、学年一のモテ男に恋をしたきっかけは、やはり駅での出来事だった。
 時帰りした今からは約一年前、沙織が二年生になったある春の朝、偶然、村岡と同じ車両に乗り合わせたのである。ただし、最初、村岡が同じ車両にいると気がついたときの沙織の心の声は、「しまった」だった。
 クラスメイトになったばかりだったから、まだクラス全員の顔と名前が一致していない可能性もある。村岡は有名人だからもちろん沙織は知っているが、相手のほうはが沙織をクラスメイトとして認識しているかどうかは、はなはだ怪しかった。
 お互いの距離は約一メートル。このままだと目が合ってしまいかねない。
 どうしよう。万が一目を合ったら、会釈する? しない?
 つり革を握る手がじっとりと汗ばむ。
 数分ののち、迷いに迷ってようやく出した結論が、気づかれないうちにじりじりと遠ざかる、という地味な作戦だった。
 まずは一歩、村岡のいる場所から反対方向へと位置をずらす。
 口数が少なく、どちらかというと無愛想な村岡のことが最初は苦手だった。ただでさえ、イケメン枠に属する男子のことを、沙織は敬遠していたのだ。彼らのほとんどは、沙織を空気のように扱うから。
 わざわざ男子に教えてもらわなくても、自分がちやほやされる女子たちとは違うことなどわかっている。それでも、あからさまに態度で差をつけられると傷つくから、最初から近づかない。それが、自意識が人生で最高潮に尖っていたころの沙織が編み出した、自己防衛術だった。
 しかし。あの日は神様のどんな気まぐれか、電車の遅延が原因でいつもよりかなり多くの人がつぎつぎと乗車してきた。せっかくじりじりと遠ざかっていた位置が、五センチ、十センチと乗車客に押し戻され、いつも乗車客の多い大船駅でどっと人が乗ってきたときには、村岡のほぼ真横に押されてしまっていた。
 勢いで村岡のひじのあたりに勢いよくぶつかり、「いったあ」と自然に声が出た。
「あ、すみません――あれ、板谷?」
「あ、うん」
 答えたきり、うつむいて黙ってしまった。
 名前、覚えててくれたんだ。
 不器用でもそれくらい言えたらよかったのだが、もちろんそれ以降、言葉を交わす余裕などなく、ただひたすら車窓の外を見て電車に揺られていた。
 電車の進行音と心臓の音が、なぜかシンクロしていたのを、その後十年近くも折りに触れて思い出すことになるなど、あの日の沙織は想像していなかった。もちろん、このあと無事に降車しただけなら、ここまで記憶に刻まれることはなかったかもしれない。
 しかし大船から鎌倉に向かう車内で、事件は起きたのだ。
 するん。
 背中に、誰かの手の平が当たった。
 その後も、二度、三度、と〝当たる〟たびに手の平の位置が下へと移動していく。とうとう四度目で、あからさまにお尻になった。完全に痴漢だ。恐ろしくて振り返ることもできずにいたその時である。唐突に、隣から声が振ってきた。
「こっち、来れば?」
「へ?」
 見上げた沙織は半泣きで、かなり不細工だったはずだ。
 返事を待たずに村岡が沙織と場所をやや強引に入れ替える。そのとき、沙織の真後ろにいた人物をさっと確かめると、若いサラリーマンだった。
「どさくさに紛れて触ってくるやつとかいるから、気をつけたほうがいいぞ。昨日もそれで、ひとりサラリーマンのおっさんが捕まってたし」
 車両に響き渡るほどの大声ではなかったが、確実にくだんのサラリーマンには聞こえたはずだ。
 目の端で確認すると、首をすくめて、そそくさと次の駅で降りていった。
 村岡君にお礼を言わなくちゃ。
 わかっているのに、舌が硬直してうまく動かなかった。
 村岡のほうは何事もなかったかのように、それまで読んでいた水泳の本に視線を落としていた。
 結局、降車する鎌倉駅に到着するまで何も言えず、「ありがとう」のひとことも告げられないまま。ホームに降りると、挨拶もせず、村岡は長い脚ですたすたと遠ざかってしまった。

 あの事件以来、村岡を目で追うようになり、気がつけば恋をしていた。
 もうすぐ春休み。そのあとはクラス替えで、同じクラスになれるかわからない。焦がれるような気持ちにどうにか決着をつけたくなったあの日の想いが、どんどん〝過去〟ではなく、〝今〟の話になってくる。
 今日、これから村岡は乗り換え駅の鎌倉ではなく、なぜか鎌倉高校前駅で下車する。九年前の沙織は村岡のあとを追って同じ駅に降り、勇気を出して告白した。もちろん、見事に振られたのだし、村岡と待ち合わせでもしていたらしい斉藤に目撃されて、この世の地獄を生きる羽目になったのだ。
 今日はもちろん、決意どおり告白などしない。でも、過去と同じように同じ駅に降りるだけなら――。
 あの日、鎌倉高校前の駅で、斉藤と村岡は、いったい何のために待ち合わせていたのだろう。
 知りたい。
 そんな出来心がむくむくと湧いたのは、若い細胞がそそのかしたせいだろうか。
 江ノ電がホームに到着する。
 ちらちらと見過ぎたせいで、一瞬、村岡と目が合いそうになり、隣の車両に乗りこんだ。
 追いかけるといっても鎌倉高校前駅のホームは短く、同じタイミングで降りたら気づかれる可能性が高い。
 改札側のホームからダッシュで駅の外に出て、斉藤と合流した村岡を追いかければ――。
 雑な作戦を立てているうちに、鎌倉高校前駅に到着してしまった。改札に最も近い先頭車両へと慌てて移動し、ドアが開くのと同時にダッシュで改札を済ませる。
 息があがったが、そのまま坂を駆け上り、駅を見下ろせる場所まで移動した。ここに隠れていれば、ふたりがどこへ向かうのかも俯瞰できるはずだ。
 空は霞み、少し前まで冠雪していたはずの富士山は真っ青な姿で海の向こうにぼうっと浮かんでみえる。就職してからは都内に引っ越して一人暮らしを始めたが、美しいところで育ったのだと、しばらく駅を見張るのも忘れて眺めてしまった。
 告白したくなるのも、無理ないよね。
 ふいに、そんな考えが浮かんでくる。
 迂闊うかつにも学年一のモテ男子に告白してしまった自分をずっと責めて生きてきたが、あの日は、こんなにも美しい春の一日だったのだ。青い富士山も何だか縁起がいい。何より、村岡はあんなにも格好よかった。
 苦しくて、大好きで、どうにか答えの出ない日々から解放されたくて、希望などないまま、振られることを前提にして告白に至った十七歳の少女を誰が責められるだろう。
 ――好きです。
 ひとこと告げるのが精一杯だった。村岡の顔を直視することもできず、うつむいてギュッと目を閉じていた。風の運ぶ潮の香りだけがやけに鮮やかで、村岡の返事が降ってくるのをなすすべもなく待っていた。
 ――ごめん、無理なんだ。
 ――うん。
 呼び止められた気もしたが、沙織は猛ダッシュで村岡の前から走り去った。改札を出る直前、ホームの端に斉藤がぽつねんとたたずんでいるのが目に入った。もう涙で顔がぐちゃぐちゃだったから、ぱっと目をそらして走り去り、そのあとはどこをどう歩いたのか気がつくと鎌倉駅だった。
 歩きながら、断るにしても、もう少し言葉に選択肢があったのではと、村岡に対しても少し恨みがましい気持ちが湧いてきたのを今でも覚えている。
 しかし、相手もまた十七歳だったのだ。斉藤がホームの向こうに控えていることも村岡は知っていたかも知れないし、そのせいで必要以上にぶっきらぼうになってしまったのかもしれない。
 ほうっと息を吐き出して駅のほうへと視線を戻すと、果たして村岡と斉藤と――。
「あれ?」
 当時は気づかなかったもうひとりの男子生徒が、連れ立って道を渡るところだった。あれはおそらく水口みずぐちだ。村岡ほどではないが、水泳部のイケメンとしてそこそこ女子に人気がある。
 沙織が水口をからめに評してしまうのは、水口がかわいい子とそうではない子に対して、あからさまに態度を変えるからだ。
 村岡君、ほんと、友達を選びなさいよ。
 毒づきながら、慎重に距離を保ち、海岸へと下っていく三人を追った。
 一三四号線を渡り、砂浜へとつづく階段のそばまで来る。浜辺を見渡したが、確かに浜へと降りたはずの三人の姿がどこにも見当たらなかった。
 もしかして、ずっと向こうに歩いていっちゃった?
 慌てて遠くのほうへ目をやったちょうどそのとき、耳慣れた声が、すぐそばから響いてきた。どうやら、ちょうど沙織からは死角になっている階段の下のほうに三人で腰かけているらしい。
「あした告白するのか?」
「うん。放課後、板谷をどっかに呼び出すつもり」
「そっか。その――頑張れよ」
「おう。隣の席だし、けっこう脈ありだと思うんだよな」
 沙織は、自分の耳を疑った。
 告白すると宣言した声の主は、間違いなく斉藤で、それを励ましているのは村岡だった。クラスで板谷という名字はひとりだけ。ましてや、斉藤の隣に腰かけている板谷は、沙織だけである。
 つまり、斉藤が私に告白しようとしてる? 明日?
「おまえ、まじで板谷のこと好きだったんだ。俺、なんかあいつ苦手なんだよな。すげえこっちのこと見てくるっていうか」
 水口の勘違い発言が、右から左へと抜けていく。
 一歩、二歩と三人の声から遠ざかり、大急ぎで七里ヶ浜の駅へと引き返した。鎌倉駅方面の江ノ電を待ち、ホームへ滑りこんできた列車に飛び乗る。
 嘘だ。こんな、こんなことって。
 幸か不幸か、と問われたら不幸だ。悲劇か喜劇かと言われたら、喜劇だ。
 過去に私が村岡君に告白しようとした日、斉藤は、私への告白宣言をするつもりだったんだ。でも普通、好きな相手の失恋をクラス中に言いふらす? 私がハブられてるの見て、すっきりした?
 混乱と怒りで、明日は思い切りひどい振り方をしてやろうかと復讐心が燃え上がる。
 おまけに――村岡が斉藤を応援するということは、沙織は告白せずとも、間接的に振られたということだ。
 告白しなくても、失恋した。
 雅臣が言った主要な過去は変えられないというのは、こういうことだったのか。
 車窓の景色からは海が消え、極楽寺ごくらくじ駅、稲村ヶ崎いなむらがさき駅と山が広がりはじめる。
 ポケットに入れっぱなしだったチョコレートを口の中に放りこんだのに、まったく味が感じられなかった。
 
 江ノ電から横須賀よこすか線、さらに乗り換えて帰った実家は、当然ながら今の姿よりも新しかった。
 そういえば、私が高校生のとき、建て替えをしたんだっけ。
 実家は横浜市の緑豊かな地区にある。昔は父が、庭でよくバーベキューをしてくれたものだ。今でもお盆休みに帰省すると、兄の子供たちのために、海産物を豪快に焼くのが恒例になっている。
「ただいまあ」
「おかえり。早かったわね。今日はメンチカツよ」
 母がキッチンから廊下に顔を出して迎えてくれた。
 わ、お母さん、若いなあ。
 最近、太ったと気にしているお腹まわりもまだスッキリとしている。高校生だった当時、四十代後半の母は世間一般でいうおばさんだと思っていたが、三十を間近に控えてあらためて再会してみると、まだ十分に若く、溌剌はつらつとしている。
 それに――。
 過去に経験した今日は、振られたのと、振られた場面を斉藤に目撃されたダブルのショックで、部屋に直行した記憶がある。
 しかし、今日は久しぶりに、好物のメンチカツを存分に味わえるのだ。
「やったあ。ちょうど食べたかったんだよねえ」
 手を洗ってすぐに台所に駆けこみ、母に抱きついた。
「何よ、赤ちゃんみたいに。さっさと着替えてらっしゃい」
「はあい」
 告白をしなかったおかげで、こんな幸せな一日の終わりをやり直せたのだ。なんて賢明な判断だったのだろう。過去の自分の一日を乗っ取ってしまった形になるが、きっと感謝してくれるだろう。
 階段をあがって、懐かしい自分の部屋へと戻る。
 当時、大切にしていた漫画本や、今では捨ててしまった村岡の隠し撮り写真が引き出しの中に――あった。
 うわあ、と自分の青さといじましさに赤面しつつ、写真を取り出して眺める。
 斉藤の告白を、頑張れよと励ましていた。そのことを思い出すと胸がチクリと痛むが、彼はこうも言ったのだ。
 板谷、いい子だしな。
 彼にとって私は、いい子。
 わかっている。具体的に褒めるとろがないとき、優しそう、いい人、などと無難に持ち上げておくことが、沙織自身にもいくらでもある。
 それでも、胸がじんとしてしまう。
 振られたのに、ね。
 着替えを済ませて夕食の支度を手伝いに降りると、母に驚かれた。
「何か欲しいものでもあるの」
「やだなあ、下心なんてないったら」
 箸や皿を並べ、シンクの洗い物をさっと済ませる。一人暮らしを始めてから、母が日々、目に見える形でもどれほど愛情を注いでくれていたかを思い知った身である。以来、帰省した際は積極的に手伝うようになったが、もっと前からこうしてあげたかったと後悔をしたものだ。
 時帰りしてよかったな。
 皿洗いのために腕まくりをした拍子に、光の棒が目に入った。三本あるうちの一本が、教室にいたときよりも薄くなっている。
「なんだか受験生に手伝わせるの、気が引けるなあ」
「いいのいいの。こっちも気晴らしになるし」
 頬に視線を感じて母に向きなおると、珍獣でも見るような顔をしていた。
「なに? どうしたの」
「いや、だって、ほんと、沙織らしくもない。ほんとは欲しいものがあるんでしょ。参考書? それとも――スマートフォンをまだあきらめてなかったの」
「いや、違う違う。受験の邪魔だからスマホはいらないって。ただ大変そうだなって思っただけ。たんなる気まぐれだってば。ほら、メンチカツ、もう揚がってるよ」
「あら、ほんとだ」
 洗い物をしながら沙織は、一昨年、兄が地方の大学に進学するために家を出ていったあと、母がかなり寂しそうにしていたことをぼんやりと思い出した。母は断じて認めないだろうが、おそらく沙織には家から通えるB大への進学を願っていたことも。
「さ、できた」
 沙織が洗い物を終えるまでに、母はさっさと揚げ物の盛りつけまで終え、あとは配膳すればいいだけになっていた。
「お父さんは今日、遅いんだっけ」
「そうね。あと一時間はかかるだろうから、沙織は先に食べちゃいなさい。このあと、勉強でしょ」
「うん」
 テーブルにつくと、母は沙織の前に腰かけたものの、父を待つために料理には手をつけない。ただ穏やかに笑って、沙織の話に耳を傾ける。
 懐かしい日常に、じんわりと胸が温まった。
 お母さんにごはんをつくってもらって、喜んで話を聞いてもらって。私、こんな贅沢な毎日を過ごしてたんだよね。
「あのさ、お母さんは、私がA大に行くより、B大に受かったほうがうれしいよね」
 過去ではそのB大にも受からなかったのだが、これから勉強に没頭すれば、B大は十分に合格圏内のはずである。
 母は軽く目を見開いたあと、ゆるやかに首を振った。
「私の幸せはね、沙織が心から笑って人生を生きること。そりゃ、家を出ていくのは寂しいけどね。これからいろんなことがあるだろうし、そばで守ってあげることはもうできないけど、帰ってくるのは、自分が疲れたときだけでいいの。私とお父さんは、ふたりで暮らすのをけっこう楽しみにしてるしね」
「無理、してない?」
 だって、お兄ちゃんが出ていった夜、居間でアルバムを開いて泣いていたよね。
「してない、してない」
 母が、沙織の目をまっすぐに見て告げる。
「沙織の人生は、沙織のものだよ。ほかの誰かのものじゃないの」
 うなずいて、光の棒が輝く手首のあたりをぎゅっともう片方の手で握った。
 
 母にうながされるまま、夕食後、すぐに入浴し、風呂場の天井を見ながら息を吐き出す。
 沙織の人生は、沙織のもの。
 母の言葉が、なぜか胸に引っかかり、受け入れられないでいる。ただ、その理由はよくわからない。三十近くなっても、わからないことばかりである。
 いずれにしても、自分は今日、正しいことをしたのだ。そのはずだ。
 ただ、告白しなかったせいで、明日、ややこしいイベントが発生しようとしている。
 よりによって、斉藤から告白されるなんて。
 ろくに話したこともない。目が合うと顔をしかめられる、事務的な用事で話しかければ素っ気ない返事しかこない。
 むしろ、理由もなく嫌われているのだと思っていた。
 こんな受験前の大事な時期に振られたら、斉藤だってダメージを負うだろうなあ。
 いや、情けなど必要ない。相手は過去、沙織を地獄につき落とした相手である。
 それでも――復讐は復讐の連鎖しか生まない、よね。
 第一、沙織は十七歳の衣をまとった大人である。ここは大きな懐を見せるべきではないか。
 ベッドに寝転んで悶々もんもんとしているうちに、そうかと思い当たる。
「斉藤にも、告白させなきゃいいんだ」
 もし彼の呼び出しに応じて告白されることになったら、当然、沙織は斉藤を振らなければならない。斉藤は、過去の沙織と同じように後悔するだろうし、黒歴史を抱えて生きることになる。それは、さすがに気の毒である。
 正直、今さら斉藤に好印象を抱くことはできないが、喜んで傷つけたいと思うほど悪意を持っているわけでもないのだし。
 天井に向かい、両手を突き上げた。手首で光っていた三本の棒のうち、一本はかなり薄くなっている。おそらく明日には消えてしまうのだろう。
 沙織に残されているのはあと二日。無事に告白を避けることができたのに、こんなにも日にちが残されている。
 汀子は、時帰りをする人物はあの神社の神が選ぶと告げた。だとすれば、三日間、という長さには何か意味があるはずだ。
「うん。この三日間を使って、自分だけじゃなく、他人の未来もよい方向に変えなさいというお導きなのかも」
 ベッドから、むくりと身を起こす。
 晴れた日には富士山の見えるお気に入りの窓の向こうに、九年前の夜空が広がっている。
 自分は、過去の自分に正しいことをした。明日、斉藤にも正しいことをしようとしている。
 言い聞かせるようにして、大きくうなずく。小さな心の引っかかりは、時帰りの疲れからくるものに違いない。
 作戦を練るために急いで机に向かい、参考書を広げる代わりに真っ白なノートを開く。
 使命感を指先にまでみなぎらせ、〝斉藤に告白させない大作戦〟と大きく綴りはじめた。
 勉強ではなかなか浮かばない答えがつぎつぎとひらめき、手書きの文字が追いつかない。
「私、天才かもしれない」
 つぶやきながら、沙織は一心に鉛筆を滑らせていった。

 

(第4回につづく)