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第一話 この胸キュンは誰のもの(承前)


時帰り二日目

 朝のホームルームがはじまる前、八時半ぎりぎりに教室に滑りこむと、沙織は脇目もふらずに自席についた。
 隣から強い視線を感じたが、決してそちらに顔をむけず、ノートを開いて予習に集中しているふりをする。
 作戦その一。徹底的に視線を合わせない。
 地味だし単純だが、かなり効果的なはずだ。
 一時間目のグラマーの時間は、過去の自分のために真面目にノートを取り、授業に出席していなくても理解できるよう補足をたくさん書きこんだ。ここが来年のA大のテストに出そうな予感、と少しばかりのサービスコメントも入れておく。
 集中していたせいか、斉藤からのためらいがちな視線も、途中からはまったく気にならなくなった。
 休み時間がはじまったらはじまったで、さっと席を立ち、桃香や陽葵をトイレに誘った。ふたりとも次の選択授業の化学でテストがあるらしく、誘いには乗ってくれなかったが。
 仕方がない。ひとりで移動しなければならないが、少し気をつければ大丈夫なはずだ。
 さっと周囲に視線を走らせ、斉藤が席についたまま誰かと話しているのを確認してから、さっと廊下へと出た。
 早足でトイレへと急ぐ。
 作戦その二。休み時間はトイレへこもる。
 とにかく、徹底的に相手との接触を避けることが重要である。
 便座の上に座って、ふうとひとごこちつく。
 ここまでは守りの姿勢。ここから先は攻めのターンに入る。
 いくら避けつづけても、おそらく鈍感なところのある斉藤はあきらめない。ということは、今の沙織が去ったあと、過去の無防備な沙織が告白されることになるはずだ。
 だから、仕掛けることにした。
 作戦その三。好みは全然違うゾーンアピール。
 具体的には、当時大好きだったアイドルの画像を待ち受けにしたスマホを、これ見よがしに机の上に出しておくことにしたのだ。
 好みの容姿を盾にするのは、自分にも返ってくる刃だ。どれだけ胸がえぐられるか想像できるからこそ、あえてこの選択をした。
 もうすぐ授業がはじまる。トイレの個室を出て手を洗ったあと、鏡の中の自分の顔を見つめる。懐かしい九年前の顔。恋する乙女の顔だ。
 せっかくあのころの村岡を生で見られる環境にいるのに、なぜこうまでして斉藤を黒歴史から救おうとしているのか。昨日感じた使命感もどこへやら、沙織もさすがに馬鹿らしくなってくる。
 次の授業は、思い切り村岡君を後ろからでよう。
 幸い、次は得意科目の地学だ。少しぐらいサボっても、過去の沙織なら何とか追いつけるだろう。
 村岡を想いながら甘酸っぱい気分で廊下へ出ると、危うく背の高い男子とぶつかりそうになった。
「あ、悪い」
「あ、ううん、こっちも」
 見上げると――村岡が、切れ長の目をかすかに見開いていた。
「板谷」
「あ、うん」
 生徒達のざわめきが遠ざかり、時がふたりの周囲で静止する。
 沈黙。中身は三十歳に近い二十代なのに、情けないことに心臓がバクバクと音を立てる。
 どうして、村岡君がここに?
「あの、さ。斉藤から何か言われた?」
「へ?」
 何気なさを装おうとして、かえって声が裏返ってしまった。
「べ、べべべべ別に」
「そうか」
「うん」
 頬に熱が上がる。いきなり顔を赤くして、きっと村岡は変に思っているだろう。
 廊下の外のカラスが異様なスローモーションで飛び去っていくのが見えた。人間、生命の危機を感じると時間が引き延ばされるという。沙織のハートは、村岡と話すだけでそれほどの危機を感じているらしい。
 恐るべし、村岡君。
「――かないの? おい、板谷」
「はゃい!?」
 二度目のおかしな返事に、村岡が白い歯を見せて破顔した。そのスローモーションの映像は、あまりにも凶暴だった。
 ――死ぬ。
 甘みと酸味が強すぎるときめきに、ただまばたきを繰り返すことしかできない。
「そろそろ授業はじまるけど、戻らないわけ?」
「あ、うん。そうだね」
 並んで廊下を歩きはじめる。ほかのクラスにも村岡のファンが多いから、ときどき、突き刺さるような視線を感じた。
「板谷さ、あの時間の電車、もう乗るのやめたんだ?」
「あ、うん。混雑さけて、もっと早いのに乗ってる」
「そっか。確かに、変なやつがまた乗ってくるかもしれないしな」
 ろくにお礼も言えなかった。あの日のことを、村岡が覚えてくれていた、いや、あのときの当事者をきちんと沙織だと認識してくれていた。
「あのときは」
 歩きながら、声をかける。
「ん?」
 こちらを見下ろす瞳が、あの日、沙織をかばってくれた優しい瞳だった。
「ううん、なんでもない」
 軽くうなずいて歩き出した村岡のあとを、沙織も追っていく。ありがとう、と伝えるはずだったのに、どうしても“好きです”と告げたくなって黙るしかなかった。
 日差しの入る廊下を、ふたりして黙々と歩く。
 いつの間にか、教室のすぐ前までたどり着いていた。
 ――好きです。
 声があふれそうになり、両手で口元を押さえる。
「大丈夫か? 具合、悪いのか」
「ううん、大丈夫」
 ただ、死にかけてるだけ。
 そのとき、試合終了を告げるゴングのようにチャイムが鳴り響き、教室へと戻った。
 席についても、まだ頬が熱いままだ。トクトクと心臓が脈打つのを感じながら、どうにか息を吸って吐く。
「おまえ、具合でも悪いのか」
 小さな声が突然隣から響いて、必要以上にびくりとしてしまった。斉藤だった。くしくも村岡と同じような台詞に、ふたたび呼吸が乱れる。
「あ、ううん、平気」
 極力視線が合わないように、すぐに顔を黒板へと向けた。あまり感じのいい対応ではないが、沙織には斉藤を告白から救うという使命があるのだ。
 それなのに――危うく自分が告白しそうになってどうするのっ。
 自らを叱咤しながら、はじまった地学の授業にどうにか集中しようと黒板を見つめる。
 選択授業のため、桃香や陽葵、それに村岡も隣の教室へ移動し、沙織の教室にはほかのクラスから地学を選択した生徒たちが集まってきている。
 ただし、地学を選択した生徒は、ほぼこの科目を捨てており、熱心に聴いている生徒はあまりいなかった。
 最初こそ授業に耳を傾けていた沙織も、あっという間に、先ほどの村岡との時間を思い出して口元をゆるませてしまっていた。
 一度目の過去では、あんなふうにふたりきりで話した記憶はない。
 かっこよかった。
 無愛想だけど、優しい。少女漫画の主人公みたいな男子が実際にクラスにいたら、それはモテるだろう。
 先ほど村岡とふたりで廊下を歩いた場面を何度も反芻はんすうしていると、ぽとり、と机の上に小さくたたまれた紙片が落ちてきた。
 思わず左右を確認した拍子に斉藤と目が合い、あごをくいっと動かしている。どうやら、読めと言っているらしい。
 広げた紙片には、果たして斉藤からのメッセージが書かれていた。
『放課後、音楽室に来てほしい。話がある』
 意外にも字がきれいだ、などと感心している場合ではない。
 完全に、油断していた。
 いつも大口を開けて騒いでいる斉藤が、まさかこんなファンシーな手段で誘ってくるとは思っていなかったのである。
 隣を盗み見ると、斉藤がやや口を尖らせたまま、落ち着かなげにノートの端をいじっていた。
 好きだから、目も合わせられず、いつもぶっきらぼうな返事になってしまう。そのいじましさに、十代の沙織は気づくことができなかった。心の中はいつも村岡でぱんぱんになっていて、そして、むなしく散った。
 こんな苦しみを、斉藤がわざわざ味わう必要はない。
 告白させないためには、断るべきだ。すぐに『用事があるから行けない』と書いて紙をたたもうとした瞬間、なぜか昨日の母の言葉が甦った。
 ――沙織の人生は、沙織のものだよ。
 昨日はよく見えなかった引っかかりの正体が、ほんの少し輪郭を持ちはじめる。
 そうだとしたら、もちろん、斉藤の人生も斉藤のものだ。告白するもしないも、斉藤の自由だ。
 私はひょっとして、斉藤の人生も、過去の自分の人生も奪ってるの?
 紙片の両端をつまんだまま、沙織の手が静止した。
 いや、そんな大げさな。私はただ、ちょっとした間違いを正そうとしているだけ。
 こんなとき、過去の私だったらどう反応しただろう。
 気を取り直して、想像してみる。
 まさか、斉藤が告白してくるなど欠片ほども思わないだろうから、いぶかしみながらも『わかった』と返事をするだろうか。おそらく、そうだろう。
 それでも、その後のことを考えると、なお迷ってしまう。
 自分を振った相手と、翌日からも隣同士の席で春休みまでの数日間を過ごすことになるのだ。そのリスクをかえりみもしないで、なんて迂闊うかつな男なのだろう。
 自分のことを棚に上げて、そんなことを思う。
 これが若さというものか。
 ちらりと斉藤の横顔を盗み見ると、沙織からの返事を待つストレスゆえか、空気椅子でもしているような緊迫した表情を浮かべている。
 決していい印象を持っていなかった相手なのに、その表情を見たとき、意外にもかわいらしく思えてしまった。
 これが年の功というものか。
 一瞬、告白の一つや二つ、受け止めたっていいではないかと思ってしまったが、斉藤は春休みが明けたら受験生である。余計な憂いなどないほうがいいに決まってる。
 これも情けだよ。
 一度書いた返事を消して、書き直そうとシャーペンを握る。
 あのままではぬるいと思ったのである。
 どうせ断るなら、完膚かんぷなきまでに断ったほうがいい。それこそ、二度と沙織に告白しようなどと思わないように。
 しばらく考えを巡らせたのち、よし、とうなずいて新しいメッセージを綴った。
『家訓で、斉藤っていう名字の男とふたりきりになれないんだ。ごめん』
 あからさまな断り文句だが、これならば、告白する前に振られたことがわかるはずだし、沙織が元の時代に帰ったあとも、告白しようなどという気は失せるだろう。
 心の中で斉藤に謝罪しながら、紙片を投げ返す。
 ほっと肩の力を抜き、ひと仕事終えた気分でいた沙織は、しかし忘れていた。斉藤のあだ名が、単細胞を揶揄やゆしたアメーバ斉藤だったことを。
『うわ、まじか。それじゃ、村岡もいっしょだったら来られるか』
 つづいて返ってきた紙片を開き、純粋すぎるメッセージに愕然とした。
 この人、どうやってW大受かったんだろう。
『それでも無理。話、私にはないし』
 ひどいメッセージだと思いながらも、心を鬼にして紙片を投げ渡す。斉藤は開いた紙をじっと見つめていたが、その後の返事はなかった。
 さすがにあきらめたよね。
 意気消沈した様子の斉藤を盗み見て少なからず胸が痛んだが、今度こそ授業に集中し、黒板を大急ぎで写した。
 それでも相手はアメーバ斉藤だ。油断はできない。
 四時間目を終えて昼休みのチャイムが鳴るなり、弁当を抱えて教室の外へ飛び出した。桃香や陽葵が「え、いっしょに食べないの」と驚いていたが、「ごめん、今日はちょっと」とごまかして廊下をダッシュする。
 さすが十七歳の脚力である。多少の運動には文句を言わない筋肉に感心してしまう。
 そのうち、走ること自体が楽しくなってしまい、階段を駆け下り、下駄箱のある玄関まで急いでいるときだった。
 背後から軽快な足音が聞こえ、同時に沙織を呼び止める声が聞こえた。
「板谷あああ」
 驚いて振り向くと、斉藤が手を振りながら駆けてくる。
「ちょ、来ないでっ」
 さらに速度を上げ、急いで玄関スペースへと駆けこんだ。外履きに履き替え、校庭の裏へと逃げこもうとしたが、水泳部で鍛えているだけあって斉藤がすぐ背後まで迫っている。
「待てって」
「でも、急いでるから」
「じゃあ、走りながらでいいからっ」
「はあ?」
 斉藤が、これまでより速度を落として沙織と併走している。
「話なんだけどさ」
「いや、だから私には話なんて」
「でも俺にはあるしっ」
 その声があまりにも切実で、思わず斉藤を見上げてしまった。
 カチリ、と焦点の合った斉藤の瞳の中には、見慣れた二十代後半の沙織ではなく、懐かしい十七歳の少女がいる。
「好きなんだ」
 走る息をはずませながら、斉藤がためらいもせずに告げてきた。
 言われちゃった――。
 もういい加減、悲鳴を上げはじめた脚を止めると、一気に動悸が激しくなった。沙織の体全体が燃えるように熱くなり、こめかみを汗が流れていく。
 春とは名ばかりの、夏を先取りしたような陽気である。周囲の雑草も、心なしか水分を求めてしんなりと揺れていた。
 斉藤も走るのを止めて、沙織の真正面に立つ。
 気がつけばふたりとも、裏庭の隅までやってきていた。
「――」
 ほら、振るしかないじゃない。だから、あんなに避けたのに。
 うつむいたまま、小石を蹴った。
「ほかに好きなやつがいるんだろ。村岡、とか」
 はっと顔を上げると、斉藤が沙織を見下ろしていた。夕日でも浴びているのかというほど顔が赤い。 
「それじゃ、なんで」
「伝えるだけ伝えないと、後悔しそうだし。なんかもんもんとしたまま受験勉強するのも嫌だったし」
「そう」
「それで、返事は?」
「え?」
「けじめっていうか。悪いけど、ちゃんと振ってほしい」
 玉砕が確定しているのに、さらにはっきりと玉砕せずにはいられない気持ちが、沙織には痛いほどわかる。
 まっすぐにこちらを見据えてくる斉藤は――ひどくまぶしかった。
 告白から救おうなど身構えていた自分がさもしく思え、一瞬だけうつむいたあと、背筋を伸ばして向き合う。
「ごめん、私、ほかに好きな人がいます。でも、好きになってくれてありがとう」
 斉藤は唇を引き結んだあと、「うん」と短く返事をして、走り去っていった。
 動揺したのか、遠くのほうでつまずく姿さえも輝いて見える。
 近くにある藤棚に腰かけて、空を見上げた。
 私のものは、私のもの。
 斉藤のものは、斉藤のもの。
 手首に残された二本の光の棒のうち、一本はすでに薄くなりかけている。
 自分が取り返しのつかない間違いを犯している気がして、まだ静まりきらない心臓の音にじっと耳を澄ました。

 放課後、帰宅して母と顔を合わせるなり「何かあったの」と尋ねられた。
 恐るべきは母の勘である。
 夕食のグラタン用にホワイトソースをかき混ぜている母の隣で、沙織はマカロニをでながら尋ねた。
「あのさ、昨日お母さんが言ったこと、覚えてる? 私の人生は私のものってやつ」
「ああ、言ったね」
「じゃあ、さ。もしお母さんにすっごく後悔していることがあったとしてさ、過去に戻ってやり直せるとしたら、そのときの行動を止める?」
 ゆるゆると木べらでソースをかき混ぜながら、母が沙織の瞳をじっとのぞきこんだ。
「さあねえ。そういう経験、一度もないし」
「そりゃ、そうだろうけどさ」
「でもま、たぶん止めないかな」
 そう迷う素振りもなく答えを出した母は、淡々とつづけた。
「そのときに失敗しなくても、またどうせ似たような失敗をするだろうし。失敗あっての今だからね。それに、後悔のない人生って、味気ないんじゃない? だって、成功が見えてることにしか挑まなかったってことでしょ」
「まあ、そうかな。うん、そうだね」
 過去、村岡に無謀な告白をした自分は、今日の斉藤のようにまぶしかったのかもしれない。十七歳だけの輝きを放っていたのかもしれない。
 ガスの火を止めて、母がにっと口角をつり上げた。
「やだ、私、今すっごくいいこと言っちゃった。これ、世界中の思春期が知るべきね」
 やたらと盛り上がる母の隣で、沙織はうつむく。
「ほんと、知るべきかも」
 苦笑したあと、母は優しく背中に手を添えた。
「あのね、十七歳ってどんなものも似合うと思うんだけど、唯一、後悔だけはあんまりフィットしないと思うよ。だって、いくらでもやり直せるんだから。後悔してる暇なんてないの」
 ――お母さん。
 子供のように胸に飛びこんで泣きたい衝動をこらえ、沙織は「ありがと」とだけ小さくつぶやいた。

 その夜、沙織が寝る前に思い出したのは、村岡のことでも斉藤のことでもなく、過去、振られたあと、家に戻る前に駅の公衆トイレの中にこもり、思い切り泣いた自分の姿だった。
 告白なんて、やめればよかった。
 後悔して、泣いて、泣いて、泣いた。トイレの床に水たまりができるくらい、涙をこぼした。
 つらい思い出のはずなのに、なぜ、今あのときのことを思い出しながら微笑してしまうのだろう。
 ベッドに寝そべったまま、手首を天井に向かって伸ばしてみる。
 光る棒は二本のままだが、そのうちの一本は先ほどよりさらに薄れていた。
 もしもこのまま村岡に何も言わずに帰ったら、今度はそのことを後悔してしまうのではないだろうか。
 混乱する心は十七歳そのもので、そもそも自分はこの九年近く、心の成長を遂げていないのではないかと不安になる。いや、九年前、心のおもむくままに告白できた自分のほうが、よほど上等な精神の持ち主だったのではないか。
 布団を勢いよくかぶって目を閉じると、今度は村岡に告白したまさにその場面がフラッシュバックし、「うう」と小さくうめいた。
 幸い、時間はあと一日、残されている。
 ちがう、何を考えているのだ。初志貫徹。告白なんてしないなんて決められない。ってちがう。いや、ちがわない? ああ、もうわからないっ。

 

(第5回につづく)