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第五話 だいすき(承前)


 花音が眠いと言いだしたのは、午後八時をまわったころだった。
「そうか。でも、まだいいんじゃないかな。ほら、人生ゲームだってせっかく用意しているし」
「あしたもがっこうだし、もうねる」
「――そうね、それじゃ今日は家族三人で寝ようか」
「花音、ママとだけ寝たいよう」
 なつかしいお約束のセリフだ。教也だけのけ者のその言葉さえ愛おしい。
「ひどいなあ、花音。パパだっていっしょに寝たっていいじゃないか。ぜったいにおひげずりずりしないからさあ」
「ほんとう?」
「約束だ。その代わり、ベッドで三人並んだ写真を撮らせてくれないかな」
 こちらを疑わしげに見上げる花音に、真面目な顔でうなずいてみせる。
 小指を差しだしかけて、光の棒がさらに薄くなっていることに気がついた。
 こんなに早いのか――。
「どうしたの、パパ」
「ん? なんでもない。さ、歯を磨こうか」
 支度をさせているあいだも花音の瞳はとろんと眠たげになっていく。
 明日のことを考えてしまったら、自分が正気を保っていられないことがわかっているから、あえて蓋をした。おそらく美緒も同じようにしているだろう。唇を引きむすんで娘の歯の仕上げ磨きをしてやり、口のまわりを拭いてやっていた。
 ひとりで寝なさいなど、どうしてこんなにも愛しい相手を突き放せたのだろう。
 浅い呼吸を繰り返し、妻と娘と三人で夫婦の寝室へと入った。ダブルベッドの真ん中にぽすんと収まった花音をはさんで川の字になる。
 明かりを最小限にして、ぎりぎり花音の表情が見えるようにした。
 目を真っ赤にしている美緒の手を、花音の頭ごしに強く握る。慰めたのではなく、そうしなければ教也がどうにかなってしまいそうで、すがったのだ。
「きょうのパーティ、楽しかったね」
 美緒の声に、花音が無邪気にこたえた。
「うん、またやろう」
「そんなに――そんなに、楽しかった?」
「うんっ。だから、あしたまたやろう」
 返事に詰まった美緒の代わりに、教也が言葉を継いだ。
「そんなにいつもやったら、楽しくなくなっちゃうだろう。特別なパーティだから、違う日にやろう」
「じゃあ、クリスマス? あ、花音のたんじょうびはどう?」
「うん、そうしよう」
 我慢しなければ。花音を余計に苦しませる可能性のある声がけは、ぜったいに控えなければならない。それでもつい口を開きかけたとき、美緒が小さく叫んだ。
「明日っ」
 はっとして美緒の手を強く握り直す。美緒は、空いているほうの手の平で口を覆った。
「ママ、どうしたの」
「ううん、なんでもないよ。ただ――」
 たまらず、教也が口をはさむ。
「明日、パーティやろう。毎日、パーティしよう。だから――だから、車に気をつけて学校にいって帰ってくるんだよ」
「うん。花音、いつも気をつけてるよ」
「そうだよね」
 美緒が、花音をきつく、きつく抱きしめた。
 気をつけて青信号を渡っている花音を、そのトラックはいたのだ。即死だったと聞かされた。それが救いだったのか、教也にはいまだにわからないでいる。
「それでも、青信号になっても、気をつけて渡るんだよ。学校なんてちょっとくらい遅れてもいいんだからな」
「わかった」
 花音が眠そうに目をこすり、小さなかわいらしい口を開けた。
「もうねよう、パパ」
 嫌だ。まだ寝ないでくれ。
「まだだっ。写真を撮ろう。ほら、こっち見て」
「花音、ねむいよう」
 叫びそうになるのを必死でこらえる。美緒が額にかかる花音の前髪を繰り返し、繰り返しなでている。
 どうにか目を開いている花音を挟んで、親子三人のありふれた夜を写真に収めた。当たり前すぎて撮ろうともしなかった就寝前の姿を。
 光の棒が、ほとんど目をこらさなければ見えないほど薄くなっている。
「花音、うちの子になってくれて、ありがとう」
 あいている左手で小さな手を握りしめる。
「ママも――だいすきだよ」
 閉じかけていたまぶたをうっすらと開けて、花音が笑う。
「花音も、パパとママがだいすき。パパとママと花音がこうえんでわらってたとこ、あしたかいてあげる」
「――うん。うん」
 鼻先を花音の髪にくっつけて、何度もうなずく。
 花音の事故は防げないという確信が、なぜか教也にはあった。もしかして、夫婦のあいだに横たわる花音が、あまりにも天使に似ていたからかもしれない。人間離れした清らかさをたたえて規則正しい寝息をたてはじめた花音を、ただ見つめることしかできない。
「ねえ、手首見て」
 美緒が、震える声で囁く。
 はっと視線を手首に落とすのと同時に、ふわりと意識が体から引き剥がされるのがわかった。
 待ってくれ。まだ足りない。まだだめだ。もう少しだけ、いっしょにいさせてくれ。

 

(第40回につづく)