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第五話 だいすき(承前)


 昼前の日差しが公園全体をふんわりと照らしている。
 花音の目当ての遊具には、未就学児らしい男の子ふたりが母親に見守られて遊んでいた。
「じゃあ、一回すべってから鬼ごっこだよ」
 そうは言うものの、決して一回で終わらないことを教也も美緒も知っている。二回、三回、とすべり台から降りたあと、ようやく花音がふたりに向かって手を振った。
「おにごっこしよう」
 手を振る花音を、太陽がえこひいきでもするように照らしだす。
 ああ、なんて美しいんだろう。あれほどなにげなく、ありがたみもなく過ごしていた一日が、とてつもない奇跡だったことをようやく理解する。
 隣で美緒が大きく息を吸って吐く音がした。
「ようし、パパもママも負けないぞ」
 勢いよく立ち上がって、滑り台まで駆ける。
 かわいらしいソプラノで叫んで、花音が逃げだした。
 たったこれだけのことで、こんなにもはしゃいでくれる。父親と遊んでくれる時期はとてつもなく短いと覚悟してはいたけれど、想像よりもずっとずっと早く過ぎ去ってしまった。
「パパ、ほら、あしがでてるよ」
 事故の日もはいていた、お気に入りのスニーカーだ。ピンクの、大好きなアニメのキャラクターが描かれた小さな小さなスニーカーが、ロープで編まれた橋のすきまからちょこんとでていた。
「タッチしてやるぞう」
 わざと怖い顔をつくり、うなりながらそちらへ向かっていく。
 もちろん、捕まえるまえに花音が橋を渡りきって別の場所へ移動し、こんどは遊具に開けられた丸い隙間から柔らかな手をひらひらとだしている。
「ほら、ママ、てだよ。いまならつかまえられるよ」
「ようし、ぜったいタッチしちゃうからねえ」
 美緒も気合いを入れて猛然とダッシュしたけれど、やはり花音はさっと手を引っこめて、アスレチックとひとつづきになっているすべり台からひゅうと降りてきた。
「ついに降りてきたなあ」
 はずむような笑い声が空に駆けあがっていく。幸福に音があるとしたら、きっとこんな音だ。どうやっても他のものでは代わりのきかない、このかわいらしい声だ。
 怪獣の真似をしながら、ふわりふわりと動く春風そのもののような背中を追いかける。祝福の音をしっかりと耳に刻みこむ。娘を挟みうちにしようと、美緒もいっぱいに手の平を広げて向こうで待ちかまえていた。
 鬼ごっこなのに、逃げなければいけないのに、花音がますます笑いながら美緒の胸めざしてまっすぐに駆けていく。
「ママ、みいつけたっ」
「あれ、かくれんぼになっちゃった」
 美緒にしがみつく花音を後ろから「サンドイッチだぞお」と挟んでいやいやをされる。
 いま、ありえないはずの一日を過ごしている。それだけで十分だ。十分、満足だ――などと思える親はきっといない。
 花音を地面にそっと下ろし、ぐしゃぐしゃになった細い髪の毛を整えてやる。
「もうおうちにかえって、じんせいゲームしよう」
「いいなあ。そうしよう。パパもママもちょうどやりたいと思ってたんだよ」
「やった! 花音、きょうはラッキー」
「ううん、ママたちがラッキーなんだよ」
 美緒が、泣きそうな顔で笑う。
 家へ戻ろうと花音の手を握ると、反対側で花音の手をつないでいる美緒がそっと目くばせし、手首の裏側を教也に向けてきた。
 教也も慌てて自分のを確認してみると、くっきりとしていた金色の棒が、来たときの半分くらいの薄さになっていた。
「あ」
 美緒を見やると、黙ってうなずいている。その瞳は、凪いでいるようにも、正気をとうに手放したようにも見えた。
 “あなたがたのためにも時帰りはおすすめできません”
 言い切った雅臣の声が、今さらながら耳の奥によみがえってくる。
 空はいつの間にか淡く茜色に染まりはじめている。こんなにも胸に迫る夕焼けの色を、教也はそれまで見たことがなかった。

 

(第38回につづく)