最初から読む

 

第三話 高くついた買い言葉(承前)


「きゃあ、やっぱり過去最高にいい反応です」
 感に堪えないといった様子でうっとりと目を閉じたあと、汀子は、長い睫毛にふちどられた目をカッと見開いた。
「うちのご祭神、聖神といって、時間の神様なんです。ご利益はさまざまに伝わっていますが、いちばんは時帰りといって、時間をさかのぼらせてくれることなんです」
「ずいぶんと、SFファンの心をくすぐる神様ですね。それ、どうやるんです? 何か特殊な装置が伝わってるんですか。それとも一子相伝の魔方陣みたいなものを使って転送されるとか? あるいは――」
「いえ、あの、そういうたぐいの派手さはないんですけど。窓の向こうに今見えている竹林の向こうが、過去へつながっているみたいです。神主をしている兄が祝詞をあげて、私が神楽かぐらを踊ると竹林の向こうが光りはじめて、そしたらお客様にそちらへ向かってもらって――」
「やだ、何それ、すごくないですか? やってください。今すぐやってください。あ、でもおいくらですか? お兄様はどちらにいらっしゃるんですか」
 前のめりに尋ねた美弥子に対し、先ほどまで熱心だった汀子が逆にひるんでいることに気がついた。
 ぱっと手を離して謝る。
「ごめんなさい。私、興奮しちゃって」
「いえ、こちらこそ。たいてい、うさんくさそうにされるので、美弥子さんみたいな積極的な反応に慣れてなくてすみません」
「謝らないでください。私、興奮で手が震えちゃってますから。今、私はすべてのSFファンが夢にみるシチュエーションのまっただ中にいるわけですし。ところで、具体的には私本人がこのまま過去に戻るタイムスリップですか。それとも、過去の私の中に今の私の精神だけが戻るタイムリープですか」
 汀子が少し間をおいたあと答えた。
「うちの神様がご提供するサービスはタイムリープのほうです。率直に言って、かなりすごい御神力だと思います」
「おぉ」
 感動のあまり二の句を告げずにいると、汀子が戸惑い気味に尋ねてきた。
「あの――美弥子さんはなぜ疑わないんですか。過去に戻れるなんて、普通に考えたらありえないですよね」
 それはそうだろうが、SFの世界では、ありえないことなどなにもない。
 先ほどの汀子のように鋭く目を見開き、美弥子も答える。
「こう見えても学生時代は、かなり本格的なSF研究会に所属してたんです。残念ながら自分で小説を書くような才能はなかったですが、読書量はそこそこありますし、ひと晩中でもSFについて語っていられます。だから、タイムリープできますなんて言われて据え膳食わぬはSFファンの恥というか」
 宣言すれば、見るまに汀子の瞳が濡れていった。
「これまでたくさんの方の時帰りをお手伝いしてきましたが、こんなにノリのいい方は初めてです。さっそく兄を呼んで来ます、と言いたいところなんですが、こんな日に限って兄のほうが少しこじらせてしまっていて」
「と、言いますと?」
 汀子は何やらもごもごと言いにくそうにしていたが、要約するとこういうことらしい。
 どうやら汀子の兄である雅臣は、自身も時帰りをし、嫌な目に遭ったことがある。そのせいで日ごろから時帰りに否定的な態度を取りがちなのだが、今朝は夢見が悪かったのか祝詞をあげるのは絶対に嫌だと引きこもってしまった、と。
 ずいぶんとタイミングが悪いこともあったものである。
「時帰りをする人は聖神様が選んで事前に私の夢に登場させるので――」
「ちょっと待ってください。予知夢ってことですか。くう、どれだけ萌えさせるつもりですか。もう息も絶え絶えです」
 つい汀子の声をさえぎってしまったが、汀子はそう気にした様子もなくうなずいた。
「そうなんです。必ず、前の日か当日の朝に見るんです。だから、兄個人の気分で時帰りさせる、させないを決められることではないと思うのですが――」
「お兄様、そうとう嫌な想いをされたんでしょうか。でもそれならもういちど、時帰りをしてやり直せばいいのでは?」
 美弥子が素朴な疑問を口にすると、低い声がこよみ庵に響いた。
「やり直しはきかない。時帰りできるのは誰でも一生に一度だけです」
 声のしたほうへ目をやると、ドアにもたれかかった背の高い人物がいる。汀子と同じく涼やかな顔立ち。おそらく、彼が神主の雅臣なのだろう。
 おおよそ現実感のない美しい容姿のせいか、彼ならば、祝詞のひとつも唱えれば、不思議な奇跡を起こせるかもしれないと思わせる。
「兄の雅臣です。お兄ちゃん、こちら、田村美弥子さん。時帰りをご希望なので、今すぐ祝詞をあげてほしいんですけど」
 ひときわ大きくため息を吐きだし、雅臣が美弥子をにらみつけた。
「なぜ、時帰りをしたいんです」
 整った顔立ちが、不機嫌がにじんでいるせいで台なしである。
 第一、初対面の相手に、こんなふうに問い詰められるいわれはない。
「なぜそれをあなたに言わなくちゃいけないんです」
「時帰りはあなたが考えるほどいいものじゃない。失敗したらより悲惨な状況に陥ることもある。だから必ず、なんのために過去へ戻りたいのかお尋ねしてから祝詞をあげています」
「言いたくないといったら?」
「祝詞はあげられません。つまり、あなたは時帰りできない」
「お、に、い、ちゃ、ん」
 目の端をつり上げた汀子が、兄の腕をつかんでそのままこよみ庵の隅まで引っ張っていった。
「聖神――ご神命――よ? 個人的な――。借金も学費も――」
 おだやかならぬ単語が漏れ聞こえてしまったが、面倒に巻きこまれないよう知らないふりをした。
 それにしても、彼らは本当に時帰りなどという奇跡を起こせるのだろうか。ふたりの態度は真摯しんしで、人をだまそうとするような悪意はまったく感じられない。
 しかし、本当にすぐれた詐欺師はまったく悪人には見えないという話も聞く。
 いや、こんなお金も何も持っていなそうな参拝客を騙したって何になるのよ。
 夕方には帰ると伝えてある。生後七ヶ月を過ぎた娘は今日、実家に預けて母が面倒を見ているが、あまり長く離れるのはまだ心配だ。本当に時帰りをするのであれば、なるべく早くはじめたかった。
 SFファンとしての好奇心ももちろんあるが、娘の両親として夫との関係をきちんと修復しておきたい。
 もしも本当に戻れるならば、あの日、口から飛びだしてしまったあの言葉をなんとしてでもなかったことにしたかった。
 美弥子がお抹茶を飲み終え、和菓子もぺろりとたいらげたころ、兄妹が目の前に戻ってきた。雅臣はさっきよりもさらに仏頂面になっていたが、汀子は上機嫌である。
「兄もぜひ祝詞をあげたいと申しておりますので、一応、慣例として、時帰りしたい過去について教えてくださいますか」
「わかりました」
 大きくうなずくと、美弥子はふたりにあの夜の夫婦ゲンカについて話した。
 娘が生まれたばかりでいつも余裕がなくて、ぴりついていた。彩花あやかのことがかわいいはずなのに、泣きつづけられると放りだしたくなった。
 そんなとき――。
「買い物に行かなくていいようにって、夫が牛すじとジャガイモ、にんじん、タマネギを買ってきたんですよ」
「もしかして、牛すじカレーの材料ですか?」
「ええ、夫婦の好物で」
 雅臣に向かってうなずくと、汀子が首をかしげて問いかけてきた。
「いったいそれのどこがそんなに気にさわったんです?」
「これで、あとは煮こむだけでしょってニコニコ笑ってたんですよ。いったい、いつ材料を切って煮こむのよって叫んじゃって」
「ああ、まあたしかに、下処理はそれなりに面倒ですからね」
 にわかにとげとげしさを引っこめ、雅臣がうなずいた。
「え? カレーつくるのって大変だったの」
「カレーを舐めるな。これだから台所に立たないやつは――失礼。妹のことは無視して先をつづけてください」
 どうやら料理は兄が担当しているらしい。
「ほかにも、洗い物大変なら明日でいいんじゃないとか、休みの日も仕事に行っちゃったりとか、平日も特に帰りが遅い日とかがあって。とにかく、育児を甘く見ててぜんぜん手伝ってくれなくて」
 あの牛すじカレーの夜、夫の和宏かずひろと激しいケンカになった。それまでたまっていた鬱憤を一気にぶつけて、それでも気が済まなくて、夫はあんなに反省してくれていたのに、最後に泥の塊をぶつけるように声を荒げた 。
「あなたとなんて、結婚するんじゃなかった」
 和宏がきつく拳を握ったのが見えたが、かまわずに寝室へとこもった。
 彩花が母乳を求めて、泣いていたから。
 あの夜のことを思いだすと、今でもため息が出る。
 表面上は仲直りをしたし、和宏は以前よりもずっと育児に積極的に関わってくれるようにもなったが、常に気を遣われている気がする。平日の夜も、いまだ特に遅い日がある。
「ずっと変な空気でギクシャクしていて。前よりいい夫になってくれたのに、かえってストレスがたまるっていうか――」
「もしかしてそれって、浮――」
「お、に、い、ちゃ、ん」
「失礼。それじゃ、夫婦ゲンカで失言をしないようにしたいということですね。まあ、それくらいなら」
「やっていただけるんですか、タイムリープを」
 勢いこんで尋ねた美弥子の問いには答えず、雅臣はこよみ庵の出口に向かって歩きだす。ほんのわずかためらったあと、美弥子も小走りであとを追った。

 先ほどもうでたのと同じ神社かと思うほど、本殿の空気が引き締まっている。
 時帰りについて、雅臣がよりくわしく説明をしているのだが、そのあいだじゅう、肌にぴりぴりとした刺激を感じた。
「なんですか、これ」
「ああ、感じるほうですか? それじゃ、お水をどうぞ。刺激がやわらぎますので」
 雅臣がなんでもないことのように、ペットボトルの水を差しだしてきた。この神社の湧き水を汲んだものだそうだ。
「つづけますね。俺が祝詞を上げると、あの竹林の向こうが光りはじめます。美弥子さんの手首にも光の棒が出ますので、そうしたら時帰りの準備ができたサインです。右と左、どちらの手首に出るかは人によって違うようなので、両手首を確認してください。たしかに光の棒が見えたら境内を出て、竹林のほうに向かってください」
 光の棒は、一本が一日、半分だと半日。時帰りした過去にいられる時間を表しているのだと、雅臣はごく真面目に伝えている。
 嘘だろう という気持ちと、ここまで言うのだから本当かもしれないという気持ち半分で美弥子はうなずいた。答えは数分後に出るはずだ。
「準備が整いました」
 声のほうへ目をやると、神楽用の袴姿に着替えた汀子が立っていた。頭には金の冠、左手に鈴、右手には扇を持ち、女神と見まごう美しさである。
「それでは、お清めをしたらはじめます」
 いつのまにかさかきを手にした雅臣が、美弥子の両肩を榊で払ったあと、御祭神のほうへと向き直る。一方、美弥子は竹林のほうを見て座るように指示された。
 ついに、背後で祝詞がはじまった。風などないのに、美弥子の肩につくかつかないかの髪がふわりと揺れ、さきほどのように肌にぴりぴりとした刺激を感じる。
 雅臣の祝詞は、先ほどまでの皮肉たっぷりの声とは別人のように、朗々と澄んで耳に心地よい。シャン、シャン、とおごそかに鳴る鈴の音と響き合って、浮世の憂いをはらい去ってくれるような気がした。
 さらさらと、竹の葉が風に揺れる。竹林も、祝詞に合わせて神楽を舞ってでもいるようだ。ただ――あれほど葉が動くような、強い風が吹いているだろうか。疑問に思ったそばから、美弥子の髪の毛が強く揺れてぞくりと背筋が冷えた。
 やがて、竹林の向こうの一点が淡く光りはじめた。光は徐々に強さを増し、無数の光の矢を放っている。思わずうしろを振り返ると、神楽を舞う汀子と目があった。なだめるようにうなずかれ、はっと手首を見下ろす。
 ――ほんとに、光の棒が出てる。
 光の粉を吹くように輝いている棒は、長いものが二本。つまり、二日間、希望した過去に戻れるということなのだろう。
 和宏とケンカになったちょうど半年前、一ヶ月検診のあった夜だからはっきりと日付を覚えていた。四月、マンションの窓から見える桜が散ったばかりのころだ。葉桜が日差しを受けて輝いていたはずなのに、そんな景色をでる余裕がなかったのか、ほとんど記憶にない。
 もういちど、あの日に帰って、こんどはうまく夫に伝えられるだろうか。
 ゆっくりと立ち上がって靴をはき、外へと一歩踏みだす。また一歩、次の一歩。光が手招きするように輝きを強め、弱め、また強める。
 先ほど雅臣から指示された竹林の小径に、おそるおそる入っていく。足がかすかに震えていた。それでも、過去に戻って、あの台詞を取り消したい。
 進むにつれ、光がどんどん強くなった。まぶしいはずなのに目は痛くならず、きちんと開けていられる。熱も感じられず、むしろ空気はひんやりとして心地よかった。
 ほっと力を抜いて次の一歩を踏みだした瞬間、足がずぶりと下に沈み、そのまま全身が光の中へと落ちていった。
 ――きゃああああ。
 大声を上げたのに、防音のきいた部屋の中にでもいるようにくぐもった声しか響かない。風の強さからして猛スピードで落ちていることはわかったが、重力はさほど感じられず、綿毛になって風にさらわれ、移動しているような感覚だった。
 どれくらい下降したのだろう。落ちて、落ちて、落ちて、ひたすら落ちて――。
「長くない?」
 小さくつぶやいたすぐあとに、すとん、と椅子に腰かけていた。

 

(第13話につづく)