第三話 高くついた買い言葉
海水浴客と観光客でごった返していたここ鎌倉が、ほんの少し静けさを取り戻した秋のはじめ。私、猫のタマは、うつらうつらと布団の中でまどろんでおります。
「うう、かあ――さん」
布団の主である若宮雅臣は、いつもの悪夢にうなされているようです。
長い睫毛の端に光るのは涙の滴。こらえきれなくなったように、つうとこめかみに向かってひとすじ、またひとすじ、新たな滴が流れていきます。
「お兄ちゃん?」
こっそり兄の寝顔を盗撮しようと部屋をのぞきにやってきた巫女の汀子が、はっと息をひそめて、布団へと近づいてきます。
「ごめん、ごめんなさい」
つぶやく雅臣の声は、まるで幼子のよう。
カメラモードを起ち上げたスマートフォンをスカートのポケットにしまい、汀子が悲しげに兄を見下ろします。
「大丈夫、大丈夫だよ」
汀子の細い指先が汗で張りついた前髪を脇へ寄せてやると、雅臣がふたたびおだやかな寝息をたてはじめました。
誤解をされやすいけれどもこの雅臣、根は心の優しい繊細な子です。そんな彼の傷を今もえぐりつづけるこの後悔を、いつしか解かしてくれる人は現れるのでしょうか。
あなたのせいではないと、私の代わりに、伝えてくれる人は現れるのでしょうか。
汀子がそっと立ち去ってしばらくすると、強い風が窓を叩き、雅臣が目を覚ましたようです。
「にゃあ」
さあ、今日はお客様がいらっしゃるようですよ。早く身支度をととのえなくては。
うながすように肩口に顔をこすりつけると、雅臣もまた、大きななりでぎゅうっとしがみついてきます。
あやすように頬をざりざりと舐めると、ひどく塩からい味がいたしました。
このごろ、朝は少し冷えるようになった。季節の変わり目で雨が降ることも多いが、幸い、雨漏りしていた箇所は無事に修理が終わっているため、梅雨のころのように徹夜で境内を見張る必要はもうない。柱や床が泥水にまみれていることもなくなった。
それなのに神主は、今朝も早くから本殿の中を執拗に拭き清めている。
いつもなら、兄の潔癖症を哀れみの目で見守る汀子だが、今朝はあんな寝顔を目撃してしまったせいか、複雑な表情で本殿の入り口にたたずんでいた。
「お兄ちゃん?」
かける声もどこか遠慮がちである。
「どうせ今日も、誰かが来るんだろ。自分の過去の行動がひどい過ちだったと勘違いしたやつらが」
「そんな言い方しなくても」
「どれもこれも、取るに足りない後悔ばかりだ。悪いけど、今日は体調が悪いから帰ってもらえないか」
雑巾をきつすぎるくらい絞りきった雅臣の言葉に、汀子は言い返せなかった。これまではどんなに嫌がってはいても、最後には祝詞をあげていたのに。
よほど今朝の夢がこたえたのだろうか。
まだ汀子も幼かったからずいぶんとおぼろげな記憶だが、兄は一度、時帰りをしたことがあるらしい。あれはまだ父が亡くなる前のこと。熱でうなされる雅臣を看病していた父から「時帰りのことを思い出しているんだ」と聞かされたことがある。
しかし、そのときの兄はまだ十一歳。たった十一年の人生で、いったいどんな後悔を抱え、いつへ帰ったというのか。
汀子なりにうっすらと思い当たることはあるが、確かめたことはない。
「悪いな」
「ううん、大丈夫――なんて、言うと思った?」
「は?」
「お兄ちゃん、そりゃ雨漏りはしなくなったけど、このみすぼらしい本殿を見てよ。あれも要修繕、これも要修繕、ここもたぶん要修繕、きっと要修繕っ。さあ、ここで問題です。修繕には何が必要でしょう」
「――金だ」
「大正解。わかったら、とっとと祝詞の準備でもしてて。ご祈祷、最近受けてないんでしょう?」
夏のあいだ、鎌倉の有閑マダムたちのお宅を渡り歩いて出張祈祷をしていた兄は、そのたびにありがたいご祈祷料をゲットし――いただいてきたものだが、とんと最近、依頼がない。この朴念仁のことだから、何か粗相をやらかしたのではないかと汀子はひそかに疑っている。
兄は何かを言いかけてしばらく口を開閉していたが、結局何も言わずに頭を掻いて立ち上がり、掃除用具とともに出ていった。これから身を清めてくるのだろう。
「にゃあ」
ちょっとスパルタすぎじゃありませんか?
タマが咎めているような気がしたが、あいにく汀子は猫語を解さない。にっこりと微笑んでタマの首筋をつまみ軽く揺すってやると、ゴロゴロと喉を鳴らしている。
「タマ、今日もお客様が迷っていたらちゃんと連れてきてあげてね」
「にゃあん」
「ん?」
タマが顔をパっと上げ、賽銭箱のほうへと青く透き通った瞳を向けた。つられて見れば、いつ来たのか背の高い女性がこちらを見つめている。三十半ばくらいだろうか。ほっそりとして色の白いはかなげな人だ。
今朝、汀子の夢に現れた人物に違いなかった。
「いらっしゃいませ」
「こんにちは。ふふ、かわいい猫ですね」
「ありがとうございます。ようこそ、一条神社へ」
「あ、ここ、一条神社っていうんですか。朝の散歩をしていて、たまたま入りこんじゃって」
「ご観光ですか」
「いえ、自転車なら十分くらいの近所に住んでいるんです。このあたりは何度も通っているのに、こんな――歴史のありそうな神社、ぜんぜん気がつかなかったなあ」
やはり、もっと目立つ案内看板を掲げなければと汀子は心の中だけでつぶやく。
「気を遣わなくていいですよ。歴史ある、というか見ておわかりのとおり、おんぼろ神社です」
「あはは。風情がなくもないですよ? さっそくお参りさせていただきます」
「あ、はい、もちろんです」
邪魔にならないように、タマを連れて本殿から出た。
汀子が巫女さんらしからぬ世俗的な目を向けている賽銭箱に、大きな銀色の硬貨が弧を描いて吸いこまれていく。
るんっとスキップしそうになり、こうしている場合ではないと思い直した。
どうしよう。お兄ちゃんを説得する前に、お客様が来ちゃった。
女性は、真剣に手を合わせて何事かをじっくりと祈ったあと、ようやくこちらを振り返る。
「にゃあ」
心得ているように、タマが女性の足元にまとわりついた。足止めをしてくれるつもりなのだろう。
ナイス、タマ!
「あの、もしよかったらひと休みなさいませんか ? うち、抹茶処もあるんです」
誰が見てもこの場所には似つかわしくないモダンな建築物を指さすと、女性がかすかに目を見開いた。
「これはまた、ずいぶんと――」
「いいんです、無理にコメントしなくて。でも中から見る竹林はすごく風情があるんですよ」
「それじゃあ、立ち寄らせていただこうかな」
快く微笑んで歩きだした女性の背後で、汀子は軽くガッツポーズをした。
「私はこの神社で巫女をしている若宮汀子です。よかったら、お名前うかがってもよいですか?」
「あ、私の名前は、田村美弥子です」
振り返った女性の顔には、光の加減か、先ほどは気がつかなかった目の下のクマが色濃く広がっていた。
神社に参拝に来て、名前を問われたのは初めてだ。
少し面食らったが、特に他意を感じなかったから素直に答えた。
「田村美弥子です」
「美弥子さんっておっしゃるんですね。さ、こちらへどうぞ」
汀子は、人形のように整った顔に笑みを浮かべ、“こよみ庵”と看板の出ている建物のドアを開けてくれた。
「わあ」
中へと入って思わず歓声を上げてしまう。
二方がガラスの壁面になっており、見渡す限りの竹林が広がっている。無数の竹の葉たちが風に揺れ、なにごとかを囁きあっているようにも見えた。
すっかり魅入られて外の景色を眺めていると、汀子が抹茶を運んできた。
「今日のお茶請けは小栗饅頭です。小町通りの老舗の和菓子屋さんから仕入れてるんですよ」
「ありがとうございます」
お抹茶のさわやかな香りが、景色とよく合っている。すぐにでも飲みたかったが、はたと気がついて、授乳中でも大丈夫かをネットで検索した。
「あ、よかった」
カフェインが含まれてはいるが、一、二杯くらいは平気らしい。
ひと口いただくと、とても疲れていたことに気がついた。
けっこう歩いたものね。
つづけてお饅頭を口に運べば、ほんのりと甘い栗の風味に癒やされる。
「私もこの景色をよく眺めてるんです。毎日見てもぜんぜん見飽きなくて」
汀子の声に、美弥子も強くうなずいた 。
「わかります。日本人の原風景って感じがしますよね。昔話に出てきそう。たとえば竜宮城の中にある春夏秋冬の扉の向こうの景色とか、こういう竹林がどの季節の風景にもありそうですもん」
「ああ、たしかに、浦島太郎がその四つの扉を開けて季節の風景を楽しむってエピソードがありますよね。でも、ラストで浦島太郎がおじいさんになっちゃうことを考えると、あの季節の扉を開けるくだりって、少し不気味じゃないですか」
冗談めかしてではあるがおどろおどろしく尋ねてきた汀子に、うれしくなって美弥子も答えた。
「わかります。あれ、時間の流れについての暗喩に感じられますものね」
「そうそう! もしかして美弥子さん、SF好きですか」
汀子は大きな瞳を輝かせている。
「ええ、学生時代、SF同好会に入っていたくらいには。だから竜宮城が別の惑星だったという説も検証したことがありますよ」
久しぶりに同好の士に会えたのかと、お抹茶もほうって美弥子は語った。しかし、はたと気がつくと、汀子はこちらを無言で見つめており、その瞳は不気味に光っている。
「つまり、SF的な現象には肯定的だという理解でオッケーですか」
「そりゃ、まあ、オッケーですけど」
「それが、タイムリープとか、タイムスリップでも?」
「むしろ大好物ですが」
答えれば汀子がひざまずき、驚く美弥子の両手をみずからのそれでぎゅっと包みこんだ。
「待ってたんです。美弥子さんのようなお客様を」
「はあ」
さりげなく手を抜き取って、曖昧に微笑んだ。
この人、美人だけどなんだか様子がおかしくない?
「何か、過去の出来事で後悔していることないですか? もしも過去に戻れたらこうしたいのになあっていつも考えちゃうこととか」
熱心に尋ねられ、返答に詰まった。
それでも脳裏には、あの日、ひどく傷ついた様子をしていた夫の姿がすぐに浮かんでくる。
「う~ん、ありますよ? 言ってはいけないひと言を、夫に対して言っちゃったことですね。未熟者で恥ずかしいんですけど」
「夫婦ゲンカですか」
「ええ。産後すぐでイライラしているときにケンカになって、売り言葉に買い言葉で。あれから半年も経つのに、まだギクシャクしてて」
拍子抜けしたように、汀子が答える。
「半年前ですか。ずいぶん最近ですね」
「そうですか? 夫婦ゲンカで半年以上ギクシャクしているって、長くないですか」
「たしかにそうなんですけど、十年とか二十年とか、なかには六十年前に戻る方もいらっしゃるので。半年前ってすごく最近に思えて」
「戻る?」
美弥子が尋ねかえすと、汀子が「いけない」と小さくつぶやいた。
「すみません、説明がまだでしたね。実は、戻れるんです。この神社から、過去の戻りたい日に」
「――はい?」
願望が強すぎて、幻聴が聞こえてしまったのだろうか。目の前の汀子が今、過去に戻れると言い切った気がする。
汀子は、様子を探るように、美弥子の目をじっとのぞきこんでいる。黒目がちの大きな瞳は澄んでおり、美しい容姿と相まって、人ならぬ存在のようにも見えた。
突風がガラス戸を叩き、ガタガタッと乱暴な音が響く。
「過去に戻れるって――」
なにそれ。
背中に震えが走る。今度は美弥子のほうが汀子へと手を伸ばし、両手をがっしりと握りしめる番だった。
「もっとくわしく教えてください」