第五話 だいすき(承前)
「あれ」
夢から覚めたような気分で、教也は目の前のパソコンを見つめた。
今さっきまで手をつないでいたはずの美緒の姿はどこにもなく、代わりに会社の自席についている。
ほんとに、戻ってきたのか?
PCで日時を確認すると、四月二十三日。ゴールデンウィークを間近に控えた春の晴れた日。花音が事故に遭う前日だ。
嘘じゃなかった。戻ってきたんだ。
ぎりっと奥歯を噛みしめる。時刻は午前十時。のんびり会社で働いている場合ではない。
勢いよく帰り支度をはじめた教也を見て、隣の席の沢田が声をかけてきた。
「あ、外で打ちあわせですか」
「いや、今日はもう帰る。悪いけどさ、課長にうまく言っておいてくれないか。この恩は必ず返すから」
「ええ?」
面食らった沢田があまり反応できずにいるすきに、さっとフロアをあとにする。
会える、花音に。本当に過去に帰ってきた。
地下鉄のホームまでいちども立ち止まらずに走り、ちょうど締まりかけていたドアを無理にこじ開けて乗りこんだ。
優先席に座っていた老人が咎めるような視線を向けてきたけれど、知らないふりを決めこんだ。
まだ入学したての四月、給食がはじまったばかりだから花音の帰宅時間は早い。給食を終えたらすぐに帰りの方向がおなじ子供たちとグループで下校し、十三時ごろには家に戻ってくるはずだ。
戻ってくる。ちゃんと、帰ってくるんだ。
美緒といっしょに、精いっぱいの笑顔で迎えてやろう。ピーマンなんてださずに、大好物のグラタンにハンバーグに、そうだ、デザートもどこかで調達しなくては。
心臓が痛いほど強く律動を刻んでいる。会える、会える。狂おしいほど願った過去のある一点に、今、自分が存在している。
ここには、花音がいる。
それだけで、世界は完璧に美しかった。車両の真ん中に捨てられて行ったり来たりしている空のペットボトルにも、不機嫌そうに貧乏ゆすりをしている若者にも感謝してまわりたいほど気持ちが昂ぶっている。
落ち着かなければ。花音が変に思うかもしれないから。
電車の座席に腰かけたまま、まだどこか信じられない気分で頬を両側からぺちんと叩いた。先ほどの老人が怪訝な顔を向けてきたが、ふたたび無視する。
娘との限られた時間を思うだけで胸がキリキリと痛み、なにもまともに考えられない。今になって帰宅して娘と会うことを怖れている自分に、教也は気がついた。
本当に、会えるのだろうか。
今見ている世界はただの幻で、家の扉を開けたとたんにすべてが砂のように崩れ去ってしまうのではないか。花音を失って以来、何度もうなされてきた悪夢のバリエーションのひとつに閉じこめられているだけなのではないか。
ごくりと唾をのみくだして、背もたれに体をあずけた。
俺でさえこうなのだから、ふさぎこんでいた美緒のほうはさらに混乱しているだろう。
しっかりしなければ。
自宅の最寄り駅に到着し、落ち着け、落ち着け、とみずからに言い聞かせながらマンションへと向かう。途中、花音が授業を受けているはずの小学校の前を通った。
事故のあとは、つらくてわざわざ別のルートで駅まで向かっていたのだが、少しでも花音の姿が見えないかと校庭越しの窓をのぞきこんでしまう。その姿を通行人が警戒しながら通りすぎていった。
ダメだな、なにをやっても落ち着けない。
深呼吸を繰りかえしてどうにかマンションまでたどり着き、部屋へと入った。とたんに、クリームシチューの香りが漂ってくる。
せわしない足音とともに、つんのめりながら美緒が玄関までやってきた。
視線の先に教也の姿をみとめ、とたんに腰がくだけたように廊下に座りこんでいる。
「なんだ、教也だったの」
「ごめん」
靴を脱いだものの、教也もその場にへたりこんだ。
教也を迎え、包んでくれたのは、空気そのものが笑っているような、紛れもない生者の気配、花音の気配だった。この世を去った人間のひっそりとした名残などではなく。
帰ってくる。あと少しで、本当に花音に会えるんだ。
お互いの顔を見あわせ、どちらともなく抱きあって、ただ泣いた。
花音の下校まであと小一時間。
ひとしきり涙を流したあと、美緒はキッチンをくるくると動き回りながら料理をつづけてた。グラタンにハンバーグ、かぼちゃのサラダ、キノコのバター炒め、クラムチャウダーにポテトサラダに海老とブロッコリーの卵和え、チキンライス、食後のアイスにケーキなどなど、花音の好物をこれでもかというほど並べるつもりらしい。
教也のほうはリビングのローテーブルに、花音の大好きな人生ゲームのボードを広げた。ルーレットやお札もあらかじめ用意しておき、あとはプレイするだけ。
――ねえ、パパ、ゲームしようよ。
――ん~? あとでな。
動画を見ながらのらりくらりと返事をし、けっきょく遊んでやらなかった夜がいくつもあった。今日は、花音がもう嫌だというまで一緒にプレイするつもりだ。
さっき、美緒とふたりで決めたのだ。
時帰りしているあいだは絶対に、花音の嫌がることはしない。花音の前で泣かない。花音といっしょにたくさん笑う。さりげなくいつもと同じような一日を送ることも考えたが、ふたりともやってあげたいことが多すぎて、とても無理だと悟った。
花音が帰ってきたら、美緒には料理の仕込みを中断してもらい、まず三人で近所の公園にいくことになっている。
いつもなら、花音がアスレチックと合体した滑り台で飽きることなく遊ぶあいだ、ベンチに腰かけてネットの記事を読みふけっているだけだった。
――ねえ、パパ、ママ、追いかけっこしよう。
大変なお願いでもなんでもない。娘の足をロープでできた橋の隙間からつかんで驚かせたり、すべり台を降りた花音が地面を蹴って駆けだすのを手を抜いて追いかけるだけ。
たったそれだけの相手もせずにきた自分を、教也は殴ってやりたかった。
今日は思い切り遊ぼうな、花音。
そわそわと、時が過ぎるのを待つ。
時計の針が夫婦の覚悟をうながすように、針を動かしつづける。
規則正しい音とは裏腹に、教也はずっと鼓動が乱れていた。
やがて、そのときは来た。