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第四話 永遠の縁日(承前)


 すっかり薄紫に染まった空の下、空斗はけんめいに自転車を漕いだ。道の両脇は田んぼで、カエルの大合唱がはじまっている。
 汗でユニフォームが背中に張りつき、少し涼しくなった風が口笛を鳴らして耳元を通りすぎていく。
 星が光っている。紫はどんどん藍色へと色を変えていく。明日にはまた太陽がかがやき、月が光って時間が積み重なっていく。
 これからの日々のなかで、後悔は薄れるどころかどんどん濃くなっていくことを、空斗は知っている。
 もうあんな思いは嫌だ。
 羽虫が飛び交う街灯の角を曲がると、真穂のピアノ教室だ。けれど角を曲がる前に、向こうから歩いてくるほっそりとした少女の姿に気がついた。
「真穂ちゃーん」
 自転車から降りて手を振ると、向こうからも手を振り返してくれる。
「空斗、どうしたの。もう暗いのに」
「いまから家に帰るの?」
 叫ぶように尋ねた空斗に、真穂が少し驚きながらうなずく。
「じゃあ、いっしょに帰ろう。ちょっと話したいことがあるんだ」
「え」
 真穂が探るような視線を向けてきた。
「もしかして、大地が何か言った?」
「ううん。大地がどうかしたの?」
 真穂がとぼけたわけを、もちろん空斗は知っている。けれど、そのことを今は知られたくなかった。口に出したとたん、本当のことになってしまうから。きちんと受け止めなくてはいけなくなるから。
 そうか、だから大地もぼくに、ぼくたち家族に、何も言わなかったんだ。
 真穂の隣でうつむきながら自転車を引く。ここから真穂や大地の家まではゆっくり歩いても五分くらい。あまり時間はないのに、すぐには言葉が出てこない。
「話って陸のこと?」
 そうだった。ここに来たのは、陸を説得してもらうためだ。しっかりしなくちゃ。
「真穂ちゃん、陸ともうほとんど話してないって本当?」
「う~ん、まあ、そうかな」
「陸とケンカしたの? 陸がなにか真穂ちゃんを怒らせるようなことしたんでしょ」
「そんなこと、してないよ」
 真穂の横顔が、なんだか大人みたいに見えて空斗はまばたきを繰り返す。何があったのかそれ以上は聞けなくて、空斗は小さく息を吐いた。
「カエル、すごい鳴いてるね」
 違う、こんなこと言いたいわけじゃないのに。
 真穂は何も答えない。
 握りこぶしをつくった手首の内側には光の棒がぼうっと浮きでていて、一本目がかなり薄くなっている。
 ぐっと手に力をこめ、空斗は歩みを止めた。
「どうしたの?」
 真穂が、一歩先からこちらを振り返った。
「あのさ、陸に、友だちとじゃなく、みんなで夏祭りに行こうってお願いしてくれない?」
「え」
 友だちと行く夏祭りは楽しいに決まっている。だから時帰りする前の空斗も、自分も連れていってくれと無理に頼みこんだのだ。条件は一年間言うことをなんでも聞くというひどいものだったけれど、それでも陸やその友だちと、子どもだけで行く夏祭りはとんでもなく魅力的に思えた。
 けれど、さっき家で真穂の話が出たとき、陸はたしかに痛みをこらえるような表情をしていた。
「明日は大事な日なんだ」
 真穂ちゃんにとっても、きっとそうでしょう? 
 気がつけば、真穂と大地の家の前まで来ていた。
「もしかして空斗――」
 言いかけた真穂が、口をつぐんで道の先を見た。向こうから、自転車に乗った誰かがやってくる。目をこらしてみると、陸だった。
「ちょうど、タイミングもいいみたいだし、真穂ちゃん、お願い」
「しょうがないなあ」
 ダメ押しで頼みこんだ空斗を少し恨みがましい目で見たあと、真穂が小さくうなずいた。
 同時に玄関が開く。
「あれ、姉ちゃんと――空斗? 陸兄りくにいまでどうしたの」
 驚いた大地の声に、三人とも黙りこんだ。
 カエルの合唱が、四人をからかうようにボリュームを上げていく。
「空斗、帰るぞ。母さんが心配してる」
 真穂のほうに、きっとわざと背を向けて、陸がぶっきらぼうに告げた。
「やだ」
「おまえっ」
 自転車を止めた陸が、乱暴に空斗の手首をつかむ。
 責めるような真穂の視線に、陸が気づかないはずがない。ギュッとつかまれたままの手首がじんじんと痛んだ。
「空斗の手を離して」
 陸の腕がびくりと反応した。それでも声のほうを見ようともしない。
 ゆっくりと真穂が陸に近づいて、やさしく告げる。
「私とあっちで話そう」
 とうとう、空斗の手をきつくにぎっていた陸の手が、ゆるんでいく。
「行こう」
 真穂が先に歩きだした。そのあとを、とぼとぼと陸がついていく。
「なんだ、あれ」
 大地が首をかしげてつぶやいた。
「わかんないけど、陸があんなふうに言うこと聞くのは、真穂ちゃんだけだよ。大地は真穂ちゃんからなにか聞いてる?」
「う~ん、いろいろあったっぽいけど、よくわかんないや。それより、三人ともこんな時間にどうしたの?」
「それが、陸、友だちといっしょに夏祭り行くって言ってて。だから、真穂ちゃんに説得お願いしたんだ」
「そっか」
 うつむいた大地に、あわてて声をかける。
「きっと、大丈夫だよ。陸、真穂ちゃんの言うことならほとんど聞くし」
 ちょうど、真穂がこちらへ向かって戻ってくる。頭上に腕でつくった大きな丸を掲げていた。
「やった! さすが真穂ちゃん」
 カエルのように飛びはねる空斗に、陸が「行くぞ」と告げる。
 ふてくされたような兄の横顔も、やっぱりどこか大人びて見えた。

 

(第24回につづく)