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第二話 想い出の苦いヴェール


 古都・鎌倉ではあじさいが可憐かれんな花々を咲かせ、木々の緑はしとどに濡れて、今が盛りの鮮やかさで街をいろどっております。
 しかしここ、一条神社は、風流とはおおよそ無縁。雨漏り対策に大わらわの季節を迎えたようです。あちらをふさげばこちらからしずくがぽとりと落ち、こちらをふさげばそちらから落ち。終わりのないいたちごっこで、神主と巫女の兄妹はいささか寝不足ぎみの様子。
 ふたりを哀れとおぼし召したのか、ご祭神である聖神が、どうやら新しい参拝客をお呼びになったようです。
 さあ、そろそろいらっしゃるようですから、お迎えに出るとしましょうか。
 先立つものがなければ、修繕もままなりませんから。
 嫌ですね、なんだか巫女の汀子ていこみたいなことをつぶやいてしまいました。
 おや、聖神様のおはからいでしょうか。だんだん空が明るくなってきたようです。これは、あとで虹が出るかもしれませんよ。
 今日のお賽銭は期待できそうです。
 はっ、いけませんね、またお金の話を。
 こんなに俗っぽくなってしまうなんて、私も人の世で生きすぎたでしょうか。
 それでも、まだもうちょっと見ていたいと思うのですよ。
 今も昔も、日々は、驚くほどの輝きに満ちているのですから。

 若宮わかみや汀子は激写している。
え、圧倒的な映えっ」
 ご神体の影に身をひそめ、朝の神事をおこなう兄、雅臣まさおみをスマートフォンで撮影しているのである。一心に祝詞をあげる姿は妹の目から見ても清涼で、梅雨の鬱陶しさを散らしてくれる。
 本殿のあちこちに置いてあるバケツやたらいにさえも、兄といっしょに写せば、何やらおもむきを感じてしまうほどである。
 これでは汀子がひどいブラコンのようだが、まったく違う。むしろ男というだけで、好きでもないくせに神職におさまった兄に、ねたましささえ感じていたこともあった。今でも、兄よりも自分のほうがずっといい神主になれたはずだと、心ひそかに思っているほどである。
 だから、この場合の彼女の関心は兄その人ではなく、兄をどうコンテンツとして展開し、売り上げに結びつけるかという一点のみにあった。兄の生活を切り売りしてでも予算を捻出しなければ、そう遠くない未来にこの破れ神社が倒壊してしまうのは間違いない。背に腹は代えられないのである。
 いっそお守りの代わりに兄のブロマイドでも並べて売ったほうがいいのではないか。実際、兄の神主姿をアップすると、SNSには驚くほどハートマークがつく。
 それなのに肝心の客足は、なぜまったく伸びないのだろう。
 うらみがましい目でご神体の鏡を真横から見上げるが、ガタのきた境内を映して沈黙するばかりだった。
「おい、なんの真似だ」
 いつの間にか祝詞を終えていた雅臣が、汀子をにらみつけていた。幼いころから見慣れた顔だが、怒るとなかなかに迫力がある。
 兄に向けていたスマートフォンをさっと背に隠し、愛想笑いを浮かべてご神体のうしろから身を乗りだした。
「あのね、実はちょっと伝言があって」
「伝言? まさか」
 雅臣が眉根をぐっと寄せる。
「そのまさか。今日、いらっしゃるみたいなんだよね。少し立派な体格のおじさま。四十代くらいかな。いい人そうだったよ」
 実際のところは、男性はどことなくけんのある顔だちで、お世辞にもいい人には見えなかったが、必要以上に兄を身構えさせたくなかったのだ。
「どうせ、今回もくだらない理由で来るんだろう」
「さあ。理由まではわからないけど。お~い、タマ。もしお客様が迷っていそうだったら連れてきてあげてね」
 散歩にいくのか賽銭箱をひょいっと飛びこえたタマに声をかけると、心得たように「にゃあ」とひと鳴きかえってきた。
 気がつけば、先ほどまでたしかに降っていた雨が嘘のようにやんでいる。視界の向こうでは、相模湾をおおっていた分厚い雲に切れ間が広がり、海辺の街ならではの明るい青空がのぞいていた。
 タマが出ていったということは、例の参拝客がすぐそばまで来ているのかもしれない。
 ここ、一条神社のご祭神である聖神は時を司る神様である。そのあらたかなご神力で、訪れる人を一生に一度だけ、戻りたい過去へと“時帰り”させてくれるというものすごい秘密があった。
 ただし、時帰りは誰でも望めばできるわけではなく、人物を選ぶのは聖神だ。神が選んだ相手は、その人が訪れる前日に汀子の夢の中に出てくる。
 だから、ご利益を万人にアピールできるわけではない。
 それでもこのありえない現象をウリにすれば、たちまち富を築けるはずなのだが、いまだにここが貧乏神社に甘んじているのには理由がある。少しでも兄妹が(主に汀子が)、よこしまな心を抱いた瞬間、神社に怒りの鉄槌てつついがくだるのである。
 これまで、裕福そうな人物が時帰りをしたさいに、ちょっと多めの喜捨きしやを要求したところ、雷が落ちる、局地的な豪雨に見舞われる、局地的な地震が起きるなど、さんざんな天変地異を経験する憂き目にあった。
 ただし時帰りを終えたあと、やんわりと多めのお賽銭をお願いするくらいなら大目に見てくれるらしい。
 それに、兄がようやく現実を見るようになったのか、最近、本腰を入れて働いてくれるようになったのである。
「お兄ちゃん、今日はちゃんと愛想よくしてね。学費の分割払いの期限、もうすぐだし。こう雨漏りだらけじゃ、おちおち夜も眠れないし」
 嫌味ったらしく念押しすると、雅臣が素っ気なく告げた。
「そんなこと、心配するな。今日も祈祷が入っている」
「え? でもお兄ちゃん、ご祈祷はもう嫌だって――」
「心配、するな」
 汀子を強引に黙らせて立ちあがった雅臣は、流れるような仕草で廊下へと向かった。
 雅臣が、出張祈祷を始めたと知ったのはつい最近のことだ。
 最初は材木座で居酒屋をしている親戚の紹介だったらしい。
 さる事業家の自宅の神棚に祝詞をあげにいったところ、そこの奥様にたいそう気に入られ、以降、彼女が通うフラワーアレンジメント教室やら料理教室やらのサークル仲間たちの家々を順ぐり訪れては祝詞をあげているのである。
 このとき包まれる玉串料が、それはもう素晴らしかった。
 兄にはしおらしく「無理しないで」などと上目遣いをしているが、ご祝儀袋を受け取るたびに、口元がほころばないよう苦心して引き締めている。
「にゃあ」
 いつの間にか、タマが戻ってきていた。鳴き声にとがめるような響きがあったのは気のせいだろうか。そう、たぶん、気のせいだ。
 今日、時帰りに選ばれた人物が賽銭をはずんでくれたら、たまった玉串料と合わせて、ありがたく雨漏りの修理をおこなえそうだ。
「あのおじさま、福耳だったなあ」
 気づかぬうちに鼻歌まじりになって、汀子は、同じ境内にある抹茶処「こよみ庵」へと向かった。

 雨野あまの大輔だいすけは、その名とは真逆で晴れ男だ。いや、だった。
 幼いころから、遠足やキャンプにはじまり、受験、初デート、就職の面接まですべて晴れ。悪天候で大切なイベントがぽしゃったことは一度もない。
 だから、ほぼ一ヶ月ぶりの仕事のない週末が雨だったときは心底驚いた。
「おいおい、嘘だろう」
 ここのところ仕事がずっと忙しく、週末出勤がつづいていた。
 土日にきちんと休めるなど実に久しぶりで、数年ぶりに朝からジョギングでもしようかと張り切っていたのに、アラームではなく雨音で目が覚めたときの失望ときたら。朝めしのあと、ショックのあまり、「BIG!」と印刷された特大のポテトチップスの袋をからにしてしまったほどである。
 TVでは、鎌倉の散歩番組をやっている。名前も知らないお笑い芸人が、小町通りを食べ歩きし、神社仏閣にもうでていた。
「鎌倉か。久しぶりに行ってみるか」
 口のはしにポテチのかけらをつけたまま、ぼんやりとつぶやく。
 新緑の季節も過ぎ、蒸し暑くなってきた六月だ。ただしこの雨のせいか、今日はやや肌寒く感じるほど涼しい。鎌倉なら、雨でも山の緑が鮮やかで見応えがあるだろう。
「一時間もあれば着くしな」
 床からのっそりと身を起こせば、メタボ腹がぽよよんと揺れる。
 四十歳、独身。以前は引き締まっていたシックスパックが、気づけばこのていたらく。
 俺は、なんのために働いてるんだ? こうしてストレスでどか食いして、太るためか?
 頭を左右に振って面倒な考えを追いやり、ふうふう言いながら身づくろいをして家を出た。
 とたんに、雨音が激しさを増す。
 肌寒いはずなのに、ゆさゆさと歩くこめかみからは汗がしたたっていた。

 鎌倉駅についても相変わらずの雨だった。ズボンの裾は長靴にしっかりとインしてきてよかったと思いながら、周囲を見まわす。
 悪天候にもかかわらず、けっこうな数の観光客が駅周辺にたむろしていた。
 トレッキングに出るらしいシニアの集団、外国人の観光客、デートを楽しむふたり。大輔と同年代の男たちでひとり出歩いているのは、Tシャツにハーフパンツの日焼けした人種ばかりでいかにも地元民。観光客としては皆無である。
 せっかくの休日なのに、だんだんと気鬱きうつになってきた。
 ばしゃん、と長靴の子どもが水たまりで跳ね、ズボンの膝のあたりに泥まじりのしぶきが飛ぶ。
「おい、気をつけろよ」
 とがった声を出した瞬間、子どもの顔が歪んでいった。
「申し訳ありませんでした」
 慌ててやってきた母親は赤ん坊を抱っこひもで抱えており、こちらも泣きそうな顔で頭を下げてくる。
「いや、別に――」
 それでもイライラのおさまらない自分にもイラついてしまい、足早に改札そばから離れた。のしのしと横断歩道を渡り、出発待ちをしているバスに飛び乗る。行き先も確かめなかったが、ここは鎌倉だ。何か見るべきものに、たどりつくだろう。
 座席に乗って「ふう」と息を吐いた。
 ふたり分の席だが、大輔ひとりで埋まっている。
 前の座席の背にぶつかりそうなメタボ腹を見下ろし、またイラついた。
 部下たちがもう少し自分の仕事をやってくれたら、俺だってもう少し早く帰れるのに。そしたらもっと早く夕食を食べ、もっと早く就寝して、もっと早く起きられる。朝からジョギングをしてもっと早く出社し、仕事ももっと効率よく片づけられる。
 つまり、今のこの腹も、この憂鬱も、まわりのせいだ。管理職なんて、体のいいおりじゃないか。
 炭酸のボトルを開けたときのような音が響いてドアが閉まり、どこかへと向かってバスが出発した。
 先ほどのTVでも放送されていた若宮大路を鶴岡八幡宮へと向かって進んだあと、バスは左へとそれ、坂道をのぼっていく。どこまで行っても観光地らしく、通りの左右を人がうじゃうじゃと歩いていた。
 バスに乗ってよかった。こんな坂道を歩くなんて――思ってしまった自分に、またしてもイラつく。
 バスの縦揺れにあわせ、腹の贅肉もぽよんと上下した。
 ほんの十年前まで、大輔はとてもスリムだった。
 ジョギングをこよなく愛し、朝は夜明けとともに起きて走ったあとでなければエンジンがかからなかった。腹筋は見事なシックスパックだったし、ビールよりも朝のスムージーを好んでいた。
 転機が訪れたのは、三十歳のときだ。
 当時の上司から気に入られていたのもあったのだろうが、真面目で仕事もよくできた大輔は、昇進試験を勧められ、同期に先駆けて課長職についた。異例のスピード出世だった。
 有頂天になったのも束の間。いざ会社側に立ってみると、その負荷は想像以上に大きかった。能力不足のくせに言い訳や文句は一人前の年上の部下たちの声に耳を傾けるだけでなく、なだめたり、励ましたり、スキルアップのサポートをしなければならない。組合員ではなくなった管理職を年俸制という定額でこき使う会社には、報告、連絡、ただし相談はできない。早朝から深夜まで、片づけても片づけても減らない雑事がわいてくる。
 朝のジョギングなど一メートル走る暇さえもなくなり、週末も出勤するようになるまで、そう時間はかからなかった。
 行き場のないストレスは凍土に積もる雪のように堆積し、大輔を食と飲酒に走らせた。腹など減っていないのに胃をぎゅうぎゅうに満たし、アルコールで無理に脳の緊張をほどかなければ、ろくに眠れなくなった。半年ほどはどうにか保てていた体形などあっという間に輪郭を崩し、ぽっちゃりから小太りへ、小太りから巨漢へと加速度的に肥えていったのである。
 乗客をいっぱいに乗せたバスは、苦しげなエンジン音とともに急勾配をのぼっていく。
 それでも最初は俺も、土日の朝は、意地になって走ってたんだ。
 しかし、体が重くなるにつれ、走ることも苦痛になっていった。ジョギング中、ショーウィンドウに映る腹の出た自分を見るのも耐えられなかった。
 食べる、なのにろくに運動もしない。ストレスと体脂肪は増えるばかり。たぶん今この瞬間も、増えつづけている。
 ――しばらく見ない相手が太っていた場合、原因は加齢や過食ではなくメンタルの不調の場合も多い。だからからかうのではなく、気にかけてやってほしい。
 そんな記事を見かけて、腹を立てたこともあった。
 違う。俺は、メンタルをやられるようなやわな人間じゃない。断じて俺は、俺は――。
 大きく息を吐いたとき、ちょうどバスが停止した。いつの間にか、車内には大輔しか乗っていなかった。
「ここはどこだ?」

 

(第7回につづく)