最初から読む

 

第二話 想い出の苦いヴェール(承前)


「なあ、急にどうしたんだ? 珍しいじゃないか、飲もうなんて」
 無理に定時退社をし、大輔は土岐を誘って会社近くのクラフトビールバーにいた。
 ビールはあまり好きではなかったが、土岐が飲むならどうしてもここがいいとねばったのである。
 ほかにもたまに飲む相手はいるが、いつもマウント合戦に終始していた記憶がある。気のおけない相手を想像し、いちばん最初に思い浮かんだのが土岐の顔だった。
「急に悪いな。どうしても気になることがあってさ」
「なんだよ」
 尋ねられても、にわかには声を発することができなかった。
 ぐいっとジョッキを飲み干す。黒ビールなら、まだ飲めないこともない。
「あのな、俺ってその、さいきん変わった様子なかったか」
 土岐がビールを吹き出しそうになった。
「怖え顔して何を言いだすかと思ったら。別にいつもどおりだったよ。ていうか、そんなの自分がいちばんよくわかってるだろう」
「いや、いまいち自分を客観視できているか自信がなくてさ」
 言い訳めいた答えではあるが、まったくの嘘というわけでもなかった。
 十年前の自分について、記憶からすっぽり抜け落ちている事実があった。それも、転職に関してだ。自分は昇進試験を受けようとしていたはずなのに、ほかの会社についても検討しているのはどういうことなのだろう。
 何より、こんな大切な心の動きが、なぜ頭の中からすっぽり抜けていたのだろう。
「昇進試験の準備、そんなに大変なのか」
 土岐の声に、ジョッキを持ちあげていた大輔の右手がぴたりと動きを止めた。
「はは、ほかのやつらにバレてないとでも思ってたか」
「いや、そういうわけじゃないんだけど」
 ほっとして、ぐいっとビールを飲みくだす。
 記憶と実際の過去とのあいだにあまりにもズレがあったため、実は昇進試験のことさえも記憶違いだったらどうしようなどとひそかにおびえていたのである。
 しかし直後、土岐が嫌な言葉をつけ加えた。
「いや、安心したよ。変わった様子といえば最近のおまえ、少し疲れてるみたいだったからさ」
「そうなのか?」
 思わずテーブルから身を乗り出した大輔に、土岐がうなずいてみせる。
「仕事にあんまりやる気なさそうだったろ? ほかのやつに比べたらぜんぜん働いてるから、気になってるやつなんて俺くらいかもしれないけど。おまえ、前は異常なくらい仕事にのめりこんでたからさ。なんかあったのかな、なんて」
「――そうか」
 実はさ、俺、転職を考えてるみたいなんだ。
 他人事のように告げたら土岐は驚くだろうか。
「ま、俺たちも三十だしな。お互い、今くらいでちょうどいいんじゃないの」
「まあ、な」
 いや、おまえと俺がいっしょみたいな言い方をするなよ。
 そんな考えが反射で浮かびあがる。思考パターンは過去の自分のままらしい。
 そして過去の自分は記憶とはやはりズレていて、他人からやる気について心配されることもあったことがわかった。
 いや、落ち着け。今のは土岐個人の意見だ。その土岐だって、ほかのやつに比べたらぜんぜん働いてる、と認めていたじゃないか。
 それでも――胸の奥からひたひたと不安がしみ出してくる。
 俺は、仕事に夢中なはずじゃなかったのか。野心にあふれ、毎日朝から走り、合コンに行けばモテまくっていたんじゃなかったのか。痩せていたころは、あの、怪しい神社の神主だって目じゃないくらいの男前で――。
「おい、大丈夫か」
「え? あ、ああ。悪い。ちょっとぼうっとしてただけだ」
「はは、ほんとに珍しいな。でも」
 酔いの回ったらしい土岐が、ほんの少し黙った。紅潮した頬の上で三日月の形に細められている目からは、人の好さがにじみでている。
「ぼうっとしたまま聞き流してほしいんだけどさ。麻美まみのやつ、家を出ていったんだ」
 反応が遅れて、間抜けなつらをさらしてしまう。
「そうなのか。どうしてまた」
「う~ん、まあ、あれだ。あんまり仕事ばっかりしてたら、ほかのやつにられたみたいだ。しばらく一人で考えたいっていうから、半年前から別々に暮らしてたんだけどな」
「そんなに前からか」
 離婚は来年のはずだろう? それまでに、そんなすったもんだがあったのか。
 口には出せない言葉を喉の奥にぐっと押しとどめる。
 大学卒業を待ってすぐに結婚したことは、大輔ものろけ話として聞いていた。何度か、麻美と顔を合わせたこともある。たしかに、社会に出て悪い虫が寄ってくる前になんとかしたいと思うのもわかるような美人だった。
「麻美さんの相手は知ってるやつなのか」
 あえて尋ねる。これでも中身はおっさんである。土岐の吐き出したい気持ちはひしひしと感じられた。
「まあ、な。かわいがってた後輩だ。何度か家に連れてったことがあってさ」
 あんな美人が待っている家に、人のいい土岐は、よりによって須崎を連れていってしまったのだ。大学時代から相当遊んでいたらしいと、入社当時からかなり悪評が立っていた。
「もうちょっと待てば戻ってくる、なんてことないのか」
 何しろ相手はあの須崎だ。下手をしたら、ほんの火遊びでもてあそばれて終わりかもしれないじゃないか。
 言おうとしたが、麻美さんが離婚後すぐに再婚したことを思い出して黙る。
 土岐は何も答えず、しばらくジョッキの中の液体を黙って見つめていた。
「悪い、余計だったな」
「いいや」
 残っていたビールをぐいっと飲み干し、土岐がもう一杯注文する。
「麻美のやつさ、コーヒーが好きなんだ。それも、デロンギのコーヒーメーカーでれたやつじゃないとダメでさ。一人暮らしするとき、ないとつらいだろうと思って新しいのを持たせてやったんだ」
「おまえ――」
 どれだけお人好しなんだよ。
 土岐の顔が、くしゃりとひしゃげる。
「さすがにあれは失敗したかも。渡さなかったらさ、あのコーヒーが飲みたくてとっくに帰ってきてたかもしれないだろ」
「これで終わりみたいな言い方するなよ。麻美さんのこと待ってみるつもりなんだろう?」
「いや、じゅうぶん待ったよ。もう帰ってくる見込みがないなら、別れたほうがいいって、話しながら整理できたよ」
「大丈夫なのか」
「大丈夫、ではないな。でもまあ、現実を受け入れないと。どれだけ状況を固められても、俺、この現実を認めてなかったんだ。でも今夜は、はっきり言ってほしくておまえに打ち明けたのかも」
 ほんのわずかだが、土岐はさっきよりさっぱりと笑っている。少し意外だった。記憶の中の土岐は、あと一年辛抱して、それでもやはり離婚し、この世の終わりのような顔で上海へと旅だっていったはずだ。
 もしかして、俺が今夜、土岐を誘ったことで未来が少し変わったのか。
「なあ、おまえこそ大丈夫なのか」
「え? ああ」
 ごくり、と大輔は唾を飲みこんだ。
 自分も、吐き出したくてたまらない表情をしていただろうか。
 この当時の自分はそんな弱みを見せることを、ましてや見下していた土岐にさらすことなど許せなかっただろう。
 だが、四十間近の目でいっしょに飲んでみれば、土岐のほうが当時の自分よりずっと強く、しなやかで、大人びていたのではないかと思わされる。
 気がつくと、大輔は声を漏らしていた。
「もしも俺がさ、転職を考えていたって言ったら、驚くか」
 土岐が動きを止めた。だが、その瞳にはわずかの驚きもにじんでいないようだ。
「ぜんぜん。おまえならもっと条件のいい職場で、もっと稼げるだろうしな」
「あ」
 なるほど、その可能性は考えなかったな。
 たしかに、より待遇のいい職場を探そうとしていた可能性もある。
 昔の自分の思考パターンならば、むしろそう考えるほうが自然だ。それなのに、胸をおおっていた不安が完全に消え去らないのはなぜだろう。
 そのあとは同期のことや土岐の趣味だという囲碁について話した。いつか本場の中国で打ってみたいという土岐の横顔は輝いている。
 もしかして、記憶の中で憔悴しようすいしたまま上海へ旅だった土岐の姿もまた、たんなる記憶違いだったのではないかと思えてきた。
 最後の一杯と注文したビールがなくなりかけたころ、土岐がしみじみと言った。
「合コンもいいけどさ、ちゃんとした彼女つくれよ。おまえは仕事にのめりこむタイプだし、くつろげる相手がいるって大事じゃないのか。ま、俺が言っても説得力ないけどさ」
 別れぎわ、笑って去っていった土岐の背中を見送りながら、あいつもこのころはそこそこ痩せていたなと感慨深くなる。
 ――そこそこ?
 土岐の姿が改札に吸いこまれていくのと同時に、これまで見て見ぬふりをしていたある事実が、大輔の心臓を弾丸のように貫いた。

 その夜、家に帰ってしばらく、大輔はソファに座ったまま動けずにいた。
 水をちびちびと飲み、ときどきため息をつく。
 十年前の俺は、仕事がのりにのっていて、週末は合コンで相手をとっかえひっかえして楽しんでいた。
 それが、時帰りする前の大輔の記憶だった。
 しかし、まるでパラレルワールドへと来てしまったように、記憶と異なる事実が次々と発覚した。
 その理由が、大輔なりにわかってしまったのである。
 太っているときのように、呼吸が浅くなった。
 落ち着け、俺。土岐の出した勇気は、こんなもんじゃないぞ。
 見送った広い背中を思い出し、ふんと気合いを入れて立ちあがる。そのまま、ずかずかと洗面所へと向かった。
 明かりをつけて鏡面の前に立ち、やおら上着を脱いでいく。情けないことに手が震えた。
 俺は、この現実を受け入れられるのだろうか。
 見たくなければ、見なければいい。
 手首を確認してみれば、光の棒が一本、ごく薄くなっている。まだくっきりとしているのは半分の短い棒のみ。このままやり過ごして帰ることもできるはずだ。
 それでも――。
 洗面ボウルの一点を見つめて大きく息を吐き出したあと、さっと顔をあげ、みずからの裸体と向き合った。
 照明のもと、二十代も終わりに近づいた、ありのままの自分がそこに立っていた。
「――はは、は」
 こめかみにピリピリとした不快な刺激が走る。
 たしかに、十年後の自分より肉は少ないが、そこに、あれほど会いたいと願っていたシックスパックは存在していなかった。ふん、と気合いを入れて腹を引っこめれば、かろうじて引き締まる程度の、立派なおっさん予備軍の腹である。
 さらに、視線を上へ移動させる。鏡の中の自分と目が合う。その顔は、大輔が記憶していた“イケていた俺”ではなく、顔色の悪い疲れたリーマンだった。こんな男が毎週末合コンに参加したところで、とっかえひっかえなどよほどの話術か金かマメさがなければ無理だ。
 あいにく大輔は、そのどれも持ち合わせていなかったことだけは覚えている。
「記憶の美化か――」
 それが、このちぐはぐな現実を説明しうる唯一の答えだった。
 考えてみれば、あれほど痩せているころに戻りたがっていたくせに、時帰りをしたあとすぐに腹筋を鏡に映して確認してみようとしなかった。
 指で、腹の硬さに触れてみようともしなかった。
 鏡で、若かりしイケメンの顔を確かめてみようともしなかった。
 当然だ。すべて、記憶の美しいヴェールで覆われた幻であることを、心の深い部分では知っていたのだから。
「なんだよ、それ。なんのための時帰りだよ」
 最高潮にイケていた自分と再会するために時帰りをしたのに、代わりにほろ苦い現実に直面する羽目になった。こんなことならば、時帰りなどしなければよかった。
「なっさけね」
 泣けたら楽になるだろうかと思ったが、涙のひとつも出ないくらい気持ちは疲弊している。
 この疲れが過去の自分のものなのか、現在の自分のそれか、わからなかった。

 

(第10回につづく)