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第五話 だいすき(承前)


 インターフォンが鳴り、美緒と目で合図をしあって教也が通話にでる。
 階下のオートロックを解除し、花音が部屋のあるフロアまでエレベーターで上がってくるのを待った。本当はマンションの玄関先で待とうとしたのだけれど、道ばたで花音を抱きしめたまま泣き崩れてしまいそうだったから、夫婦で話してやはり部屋で待つことにしたのだ。
 それでも――。
 ピンポーン。
 チャイムが鳴るなり、足をもつれさせながら玄関まで迎えにでた。カチャリとドアを開けると――花音が丸い目を大きく見開いて、父である教也を見上げている。
「パパ? おしごとじゃないの?」
「――」
 おかえり。
 精いっぱい迎えてやろうと思うのに、声がでてこない。喉が焼けるようにあつくなり、ひと言でも無理に発すれば歯止めがきかなくなりそうだ。
 答えるかわりにランドセルごと花音を持ち上げ、にじむ涙を見られないようギュッと抱きしめた。あたたかな体温が伝わってくる。心臓の音がかすかに、しかしちゃんと聞こえる。
 ダメだ、やっぱりもうこれ以上は――。
 嗚咽が漏れそうになった瞬間、花音が抗議の声をあげた。
「パパ、いたいよう」
「あ、ごめん、ごめん。さあ、手を洗ってうがいしておいで」
「うん」
 靴を脱ぎながら花音が小さな鼻をひくつかせた。ふっくらとした頬は、走って帰ってきたのかほんのりと上気している。
「ママがおりょうりしてるの?」
 そういえば美緒は迎えにでてこなかったようだ。
「うん、今日はパパも早く仕事が終わったし、晩ごはんは花音の大好きなものをみんなで食べようって張り切ってるよ」
 ぱっと顔を輝かせた花音が、手洗いもうがいも忘れてキッチンへと駆けていく。
 危ない、走っちゃダメ、帰ったらまず手洗いうがいだよ、ひとつひとつやりなさい。
 細かな注意は、もう口から飛びださない。ひとつひとつを完璧にやれなくたって、それがどうだったというのだろう。
 花音は、こんなにも生きている。それ以上のことを求めるなど、なんて自分は贅沢だったんだろう。
 唇を噛みしめ、花音のあとにつづいた。
 キッチンでは、美緒にまとわりつくようにして、花音がフライパンの中身をのぞいている。美緒もなにかをこらえるように、花音を片手で抱きながら菜箸で食材を炒めていた。
「どうしてきょうは、こんなにいっぱいつくるの」
「だって――だって花音にはもっと背がのびて素敵なお姉さんになってもらわなくちゃ」
 透明なしずくがぽとりと小さな頬に落ちたことに、花音は気がつかない。大好きな母親の腕と、煮こみハンバーグの香りに包まれ、無邪気に笑っている。
「ごめん、ちょっと代わってもらっていい? トイレにいってくる」
 美緒が、花音からそっと腕を放し、こちらへ真っ赤な目を向けてきた。
「うん、もちろん」
 さっと、廊下へ通してやる。
 美緒が小走りで出ていったあと、炒めかけだったきのこをかき混ぜながら花音に尋ねた。
「今日は天気もいいしさ、パパとママといっしょに公園にいかない? アスレチック滑り台で鬼ごっこをしようと思うんだけど、どうかな?」
 こちらを見上げた花音がぽかんと口を開け、「ほんとう?」と尋ねてきた。
「パパ、おにごっこきらいじゃないの?」
 こちらを見上げた娘の気づかうような表情に胸をつかれる。
「そんなことない。パパは今まで、ちょっと」
 バカだったんだ。
 そんな言葉を飲みこんで、にっと笑ってみせる。
「鬼ごっこが上手だってこと隠してたんだ」
「そうなの? じゃあいく」
「よし、準備しておいで」
 目を輝かせる娘をもういちどぎゅっと抱きしめ、今度こそ手洗いとうがいを済ませるよう告げた。
 炒め終えたきのこを皿に盛りつけ、戻ってこない美緒の様子を寝室まで確かめにいく。ノックをしてドアの外から声をかけた。
「でてこられそうか」
「うん、もう大丈夫。しっかりしなくちゃね」
 すぐにドアが開き、美緒が顔をのぞかせた。少し目を腫らしながら、口角を重そうにでも上げてみせる。
「花音、公園にいくって。三人で鬼ごっこしよう」
「わかった。筋肉痛になる――まではいられないか」
 うなずいたあと、ふたりでどうにか笑いあった。

 

(第37回につづく)