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第四話 永遠の縁日(承前)


 少し熱の冷めた抹茶を口に含んだあと、空斗は話しはじめた。
 抱えている後悔は、まさに今飲んだばかりの抹茶に似てほろ苦い。
「仲よしの友だちがいたんだ。保育園からずうっといっしょで、小学校のクラスもいっしょ。家も近所で野球チームも同じで、監督から夫婦ってよばれてた」
「わあ、もしかしてピッチャーとキャッチャーとか?」
「ううん。でも将来、そうなれたらいいなって思ってたよ。あいつ――大地だいちはすごい肩してたし、頭もよくて。だからキャッチャー候補だったんだ」
「その子、大地君って言うんだね」
 やさしくうなずく汀子の隣で、雅臣は無言のまま、自分を守るように腕組みをしている。
「毎年、大地の家族とうちの家族で行ってるお祭りがあるんだ。八月のまだ夏休みのときにやるやつで、夜は花火もあってすごく盛り上がる。今年もぜったいいっしょに行こうって約束してたんだけど、お兄ちゃんがもう中二だから友だちと行くって言いだして――」
「ああ」
 途切れた声を継いだのは、それまで黙っていた雅臣だった。
「もしかして、お兄さんのほうについて行くことにしたんですか」
「うん。だって、子どもだけで行きたかったんだもん。大地も誘えばいいやって」
「大地君は、子どもだけは嫌だったのかな」
「うん」
 つづきを話しそうとしたけれど、こみ上げてくるものがあり、慌ててトレーナーの袖で目元をぬぐう。
「やだ」
 なぜか向かいの汀子まで、ハンカチで目元を押さえている。
「大地は、いつもどおりがいいって言い張って。ぜったい家族みんなで行こうって言うから、じゃあ、今年は別々に行こうって、つい言っちゃって。そしたら大地、ちょっと泣きそうな顔してて、ぼくも焦って、でもなにを言えばいいのかわかんないし」
「そのまま別れたんですか」
「うん。別れるとき――“もう友だちじゃない”って言われた」
 汀子がおそるおそる尋ねてくる。
「もしかして、まだ仲直りしてないの」
 空斗が答える前に、雅臣が先生のようにお説教をはじめた。
「まさか、過去に戻ってやっぱり大地君といっしょに行くことにしたいなんて言わないですよね。そんなことをしなくても、学校に行って勇気を出して話してみるべきです」
「それができないからっ」
 ガタンと大きな音を立てて、空斗は椅子から立ち上がった。
「大地は、もう学校にいない。あいつ、転校しちゃったんだ。急におじさんの転勤が決まって、夏祭りがみんなで集まる最後のチャンスだったって。そんなのぼく、ぜんぜん知らなくて。手紙を出しても返事がないし、電話しても出てくれないし」
 うつむいて歯をくいしばる。
 風がガラス窓を叩くかすかな音以外は何も聞こえない。
「お兄ちゃん、ほら」
 目のはしのほうで、汀子が雅臣の脇腹を肘でつつくのが見えた。
 雅臣が、あきらめたように軽くうなる。
「仕方がありませんね。ケンカの仲直りくらいなら、今回はお手伝いしてもかまいません。でも、現実がよくなるとは限りませんからね」
「もう、どうしてそんな言い方するの。現実をよくするためにするものでしょう、時帰りは」
「そうとも限らないと、いつも言ってるだろう」
 少し声を荒くしたあと、雅臣がはっと口をつぐんだ。
「それって、ぼくが過去に戻ることで、今より悪い結果になるかもってこと?」
「そのとおりです。しかも、時帰りできるのは一生に一度だけ。それでも、今回のことに使ってしまってかまいませんか」
 突き刺すような声だったけれど、空斗は迷わず首をたてに振った。
「うん。ぼく、もう最悪な結果を見てるから、あれ以上悪くなることってないと思うし。過去に戻れるなら戻りたい。ええと、その“時帰り”ってやつで」
 まだくどくどと何か言いかけた雅臣の声を、汀子が慌ててさえぎる。
「戻れるよ。それに、時帰りをしてほんとによかったって笑顔になって帰っていく人もいっぱいいるの。だからあんまり心配しないで行っておいで」
「うん。わかった。でも家の人が心配するかもしれないから、友だちのうちに泊まるって電話してみる」
「ああ、それなら大丈夫。どれだけ過去に戻っても、こちらに戻ってくるときは五分とか十分しか経っていないから」
「へええ」
 いったい、どういう仕組みなのか知りたかった。たとえ教えてもらっても、まったくわからないだろうけど。
 それにしても、気になることが空斗にはあった。
「あとさ――」
「まだ心配なことがあるの? 言ってみて?」
 汀子がすぐそばまでやってきて腰をかがめ、空斗に目線を合わせてくれた。
 どうしよう、こんなこと聞いたら失礼かな? でもやっぱり気になる。
「そんなにすごいことができるのに、どうしてこの神社は人がぜんぜんいないの?」
 空斗の声に、汀子ががっくりとうなだれた。

 目の前に正座しているのは、真剣な顔をしている雅臣だ。空斗もがんばって膝を折っているけれど、はやくも足の裏がぴりぴりとしびれてきた。
 時帰りの儀式のために、こよみ庵から本殿の中へと場所を移している。
「それではこれから時帰りの儀式をおこないます。帰りたい日は、今年の八月二十日で間違いないですね」
「うん、大丈夫」
 答えながら、ごくりと唾を飲みこんだ。
 さっきまでの雅臣は、どちらかというと不親切でぶっきらぼうだった。今はむしろ、丁寧に時帰りについて説明してくれ、空斗が質問するたびに言葉をつくして答えてくれる親切な人だ。それでも、二人のあいだに横たわる空気が、空斗を切りつけてくるように鋭かった。
「それじゃ、忘れないでくださいね。手首に光の棒が見えたら靴をはいて、あの竹林の奥へ歩いていくんですよ」
「わかった。竹林が光るって、なんだかかぐや姫みたいだよね」
「ええ。でも空斗君が帰るのは月ではなく過去です」
 かすかに鈴の音がひびく。
 音のしたほうへ視線を移すと、神楽を舞うための衣装に着替えた汀子が、床を足裏でこするようにして歩いてきた。
「わあ、なんかすごい」
 かぐや姫が実在の人物だったとすれば、こういう雰囲気の女の人だったのかもしれない。
 雅臣が濃い緑色の葉を手にし、「お清めをします」と空斗の左右の肩に軽く触れてはらった。緊張でこわばっていた背中がふわりとゆるむ。
 雅臣からうながされ、反対側を向いて座り直した。目の前では竹の葉たちがさわさわと揺れている。
 ふっと息を吸いこむ音につづいて、雅臣がおまじないのような言葉を唱えはじめた。聞いていてわかるところもあれば、昔っぽい言葉で意味がわからない部分もたくさんある。低い声が澄んだ空気を渡り、あたりへ広がっていった。
 衣擦れの音で、汀子が神楽を舞っていることがわかる。しゃん、しゃん、と鈴の音がときおり混じった。
 空斗の胸の中で、心臓が速く、大きく、脈打った。
 ほんとかな。ほんとにぼくは、過去へ帰れるのかな。
「あ」
 思わず声が漏れる。
 竹林の向こうから、さっきの雅臣の説明どおり、かすかに光が漏れはじめたのだ。さっと両手首を調べてみると、右手首の内側に淡い金色の棒が二本、同じ長さで光っていた。
 ――一本で一日、半分の長さで半日間、過去に滞在することができます。
 そんなふうに雅臣が教えてくれた。過去へ帰るのは意識だけであり、空斗は過去の自分の体を借りて過ごすのだとも。
 二日あれば十分だ。大地と今度こそ、夏祭りに行ってみせる。
 立ち上がってスニーカーをはき、石段を降りる。竹林へ向かって歩きだすと、そう風もないのに竹の葉が空斗を招くように大きくゆれた。
 光は最初に現れたころよりもかなり強くなっており、先ほどまでたしかに奥までつづいていた竹林は、途中から光の海に飲みこまれて見えなくなっている。
 不思議と、恐ろしさは感じなかった。未知の光に胸が苦しくなるような懐かしささえおぼえ、泣きたくなったほどだ。
 一歩、また一歩、用心深く踏みだされていた足はだんだんと勢いを増し、いつしか駆け足に変わっていた。
 背後では変わらず雅臣の声が聞こえている。
 つぎの一歩を勢いよく踏みだした瞬間、靴底が空を切り、空斗は体のバランスをくずして光の海へと放りだされた。

 

(第21回につづく)