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第五話 だいすき(承前)


 建物はこよみ庵という抹茶処だった。これが本当にあの本殿と同じ敷地にある建物かと疑いたくなるようなしっかりとした建築物だけれど、暖房が稼働していても肌寒い。
 意識せずに教也が両手をこすりあわせると、お茶を運んできた巫女が申し訳なさそうに首をすくめた。
「兄が元設計士なんですけど、デザイン優先で断熱材とか窓の予算をケチっちゃって。春先はまだ寒いんです」
 無念そうに顔をゆがめている巫女をそっと観察したところ、第一印象よりもかなり年下のようだった。せいぜい大学生、といったところだろうか。差しだされた湯呑みを両手で包みこんだとたん、ほうっと息がこぼれる。
「もう少しエアコンの温度を上げますね。お連れさまも体が冷えてるでしょうし」
「すみません」
 それから五分ほど待っただろうか。ようやくお参りを終えた美緒がおそるおそるといった様子で庵へと入ってきた。
「すごい。窓一面、竹林なんですね」
 席についた美緒の鼻の頭が、巫女と同じように赤くなっていた。
「はい。ここからの景色だけが自慢の神社なんです。あ、ご紹介が遅れました。私、ここで巫女をしています、若宮汀子と申します。失礼ですがおふたりのお名前をおうかがいしても?」
「え、ああ、僕は市川いちかわ教也で、こちらは妻の美緒です」
「教也さんと美緒さんですね。改めて、こんな寂れた神社へようこそおいでくださいました。お待ちしておりました」
「はあ」
 間延びした返事をして、教也は首をかしげた。ただ参拝しにきた自分たちを待っていたというのは、少し不自然ではないだろうか? 
 落ち着かない気分になって、窓の向こうに広がる竹林を見やる。隙間なくはえた竹の向こうは薄暗くかげっており、見ていると鼻先からふうっと吸いこまれてしまいそうだ。
「ここ、なんだかちょっと怖くない? ブログにはパワースポットだって書いてあったけど」
 汀子が厨房へと引っこんだのを見計らって、美緒がこそっと告げてきた。
「うん。でもそれ書いた人、TVにも出演してるスピリチュアルカウンセラーなんだろ?」
「そりゃ有名な人だけど、なんか思ってたのと違うっていうか。今回ばかりはあの人の勘違いな気がする」
 神の存在を感じられるというその人物は、日本全国の神社はもちろん、時には海外の遺跡まで巡ってパワースポットを紹介している。登場するパワースポットは、どこも強い“気”とやらが巡っているともっぱらの評判で、詣でるだけで心身を浄化してくれる効果があるらしかった。ただ、彼にブログで紹介された場所はすぐに読者が押し寄せるはずなのに、この神社に限っては、実際に来てみたらこの閑古鳥だ。
「もしかして、一条神社って別にあるんじゃないのか」
「ううん。ここで間違いないと思う。でもまあ、神様だって逃げだすんじゃないかな、あのボロじゃ。ここまでの道もわかりづらいし」
「少し休んだらさっさと帰ろう」
 ふたりでこそこそと相談しているうちに、抹茶が運ばれてきた。お茶請けは緑の葉が載った白い饅頭だ。
「今日のお茶請けはの芽です。中はこしあんで、すっごく美味しいんですよ」
「ありがとうございます」
 落ち着かない気分のまま、黙ってお茶をいただくことにした。
 苦みは苦手な教也だが、どういうわけか舌に心地よい。
 夫婦のそばに陣取って、汀子が尋ねてきた。
「教也さんと美緒さんは、なにか後悔していることでもおありなんですか」
 突然ほうりこまれた質問に、ふたりとも絶句してしまう。
「さ、さあ。突然言われても思いつかないですね」
 無難にやり過ごそうとした教也に対し、美緒のほうは茶器を両手でぎゅっとつかんだままうつむいている。
 娘のことを――花音かのんのことを思いだしているに違いなかった。
 余計なこと、聞くなよ。
 苛立ちがにじんでしまったのかもしれない。汀子が少し慌てた。
「ごめんなさい。いきなり不躾なことをお尋ねして。ただその――うちの神社って少し特殊で。後悔を抱えた方がいらっしゃることが多いので。だからもしなにかあるのならご相談に」
「あなたに言っても、もうどうにもできませんから」
 美緒の口調が強くなった。教也がさっと妻の背中に手の平を当てると小刻みに震えている。
「あとは放っておいてもらっていいですか。私たち、静かにお参りしにきたんです」
「おい、美緒。すみません、妻はちょっと――」
 詫びようと教也が視線をうつしたが、汀子は気にする様子もなくつづける。
「さっき、お待ちしてましたとお伝えしましたよね。言葉どおり、私たちはおふたりをお待ちしていたんです」
 汀子の大きな瞳はひたと夫婦を見据えており、窓の向こうに広がる竹林に似た吸引力があった。からかいや悪意は感じられないけれど、背筋が冷える。美緒も教也と同じように感じたのか、隣でごくりと唾を飲みこむ気配がした。
 パワースポットと言われる場所は、素人がみだりに足を踏み入れるとかえって害がおよぶこともあると、美緒がくだんのブログで読んで伝えてきたことがなかったか。
「お願いですから、私たちにかまわないでください。もう疲れ切ってるんですよ」
 妻の声に、自分自身もかなり疲弊していることに改めて気がつかされた。
「妻の言うとおりです。俺たち、抹茶をいただいたらすぐに帰るので、それまで静かに過ごさせてください」
 教也の言葉に、汀子もさすがに黙った――のは一瞬のことだった。大きな瞳がぎらりと光る。
「いいえ、引き下がるわけにはいきません。お社にまた雷が落ちでもしたら、今度こそ崩れ落ちますから。ふもとの八幡様ならまだしもうちみたいな神社、建て直しの予算なんてないのはわかるでしょう?」
 なにを言いだすのだろう、この巫女さんは。
 テーブルの下で、美緒の足が教也のそれを蹴った。抹茶などうっちゃって、早々に帰ろうという合図である。
 お会計を、と教也が口にだす直前、汀子がさえぎるように宣言した。
「おふたりには、なんとしてでも過去に帰ってもらいます」
 完全に目が据わっている。
「いや、俺たちはもう帰――」
「過去に戻りたいですよね? そうじゃなかったら、聖神様がわざわざ呼んだりしませんよ」
 汀子に詰めよられ、それまで黙っていた美緒が、ドンッとこぶしでテーブルを叩いた。
「美緒」
「――んなに願ったか。あの日に戻りたいと私が、どんなに、どんなに願ったかわかりますか?」
 目を真っ赤にして立ち上がり、ほとんど汀子につかみかかりそうな美緒をどうにか取り押さえる。今度は教也が汀子に強い口調で返した。
「いい加減にしてください。冗談で済まされないことだってあるんだ」
「私は真剣です。おふたりを、帰りたい過去に帰して差し上げます」
 窓の向こうで竹林が強く揺れている。奥でちろりと小さな光が瞬いたように見えて、教也はまばたきをした。
 鋭い声が飛んだのはその時だ。
「汀子、よせ」
 入り口のほうを振り返ると、先ほどの神主が全身に怒りをたたえて立っていた。

 

(第33回につづく)