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第一話 この胸キュンは誰のもの(承前)


時帰り三日目

 いよいよ今日で最後だ。
 門をくぐりながら、沙織は校舎を見上げた。
 言う、言わない、言う、言わない。重い足を一歩前へ進めるたびに心が揺れる。
 斉藤の心配などしている場合ではなかった。一日目を無事にやり過ごせたからと油断せず、もっと本気で、自分が告白しない大作戦に取り組むべきだったのだ。
 沙織の葛藤かつとうなど知らん顔で、目の前にたたずむ校舎は平和そのものだ。この平和を享受できるのは、沙織が二日間、村岡に告白せずに過ごせたからだ。
 しかし斉藤はどうだろう。今朝、目が覚めたとたん、昨日とは世界が一変したことを知っただろう。自分が振られた世界がはじまったと。
 傷心の斉藤に対し、どのように接するのがいちばん彼を傷つけずに済むのだろう。 
 振られたもの同士、どうにも気持ちをおもんぱかってしまう。
 教室までやってきたものの、ドアを開けるのも気が重かった。斉藤は朝が早いからもうとっくに席についているはずだ。
 後方の入口でためらっていると、背後から急に声をかけられた。
「入らねえの?」
「あ、ううん、入るっ」
 また、声が裏返っちゃった。
 振り返ると、朝練を終えたらしい村岡がこちらを見下ろしている。
 好きです。
 沙織の意思とは無関係に、全身が伝えたがる。
「ご、ごめん。今、ドアを開けるね」
「いいよ」
 かすかに照れたような顔で村岡が背後から腕を伸ばし、沙織の肩越しにドアを開けた。
 だから、死んじゃうよ、こんなの。
 行き場のないときめきをどうにか鎮めて一歩前に進むと、今度は斉藤と目が合ってしまう。
 動きの止まってしまった沙織に対し、斉藤が「うっす」と自席に座ったまま片手をあげてみせた。その態度をひと言で表すと、立派、だった。少なくとも、こんなにうじうじと心を決めかねている沙織よりは、ずっと立派だ。
 偉いよ、斉藤ううううう。
 興奮が極まって、もはや自分でもよくわからない感動がこみ上げてきたが、かろうじて
「おはよう」と返した。おそらく自然な挨拶だったと思う。
 村岡は、斉藤の告白の顛末をもう耳にしたのだろうか。気になったが、特にリアクションもなく自席について隣の友達とふざけて笑っている。
 ホームルームを終えたあと、斉藤がさっと席を立ち教室を出ていった。
 あたかも九年前の自分を見ているようで、胸が痛む。
 だから沙織は、告白しなくていい。このまま光の棒が薄まるのを見つめ、告白しなかった自分の未来へと行き先を変えて今度こそ平穏な日々を送るのだ。
 そう言い聞かせるのに、どんどん胸の痛みが強くなっていく。
 席についたまま、ちょうど黒板を拭いている村岡の背中に目をやった。
 授業開始のチャイムが鳴る寸前、斉藤が教室に滑りこんでくる。うっかり目が合ってしまい、お互いにぱっとそらした。
 斉藤の立場を思うと、やはり胸が痛んだ。
 痛む? 本当に?
 尋ねる声が頭の片隅で響き、浮かんできた答えにうろたえる。
 わからない、私は――。
 うつむいたまま、沙織はただ唇を噛みしめていた。

 昼休みが始まるやいなや、斉藤は特大の弁当箱を持ってどこかへ姿を消そうとした。その姿を村岡が気遣わしげに見やって、ドアのあたりで何か声をかけていたが、斉藤は首を横に振って去っていった。
 絶えず漂っていた気まずさから解放されて、ほうっと息をつく。
 残された時間はあとどれくらいだろう。
 何気なく制服の袖をめくってみた次の瞬間、沙織はひゅっと息を吸いこんだ。
「うっすい」
 思わず声に出してしまい、周囲の生徒たちから「どうした?」と失笑されてしまう。
「ごめん、ちょっと」
 適当にごまかして、席を立つ。
 トイレに駆けこんでもう一度手首を確認すると、やはり思っていたよりもかなり薄い。
 どうして? 一日目も二日目も、お昼ごろはもっと濃かったはずなのに。
 ――でも、告白しないんでしょ? だったらもう帰ってもよくない?
 心のどこかで冷静に受けとめる自分もいた。
 確かに、告白しないのだから、とっとと未来へ戻っていいはずだ。
「そうなんだけど――」
 それでも、困る。自分はもっと村岡を見ていたい。あのかけがえのない姿を胸に焼きつけて、未来に戻ったらこの三日間の平穏な想い出を胸に生きていくのだ。
 よしっ。最後は気合いで立ち上がると、トイレから飛び出した。勢いよく教室へ帰ろうとしたところで、よりによって斉藤と鉢合わせしてしまう。お互い、彫像のように固まってしまった。
「お、おう」
「うん」
 そういえば沙織は、昔からタイミングの悪い人間だった。だから、一世一代の告白を、斉藤に目撃されたりしたのだ。
「あのさ、ちょっと、話せるか」
「え――」
「いや、別にもう振られたのわかってるし。しつこく食い下がろうとかじゃないんだ。ただ、昨日はあがっちゃってさ、どうして板谷のこと好きになったとか、そういうの、ちゃんと言えなかったから。ごめん、完全に俺だけの都合なんだけど、歩きながらでいいから話せないか」
「そんなことして、黒歴史になってもいいの」
 気がつくと、尋ねてしまっていた。あまりにも失礼な言葉だったにもかかわらず、斉藤は破顔している。
「なるわけないじゃん。自分の気持ち、素直に言うことのどこが黒歴史なんだよ」
「だって、その――」
「振られるから?」
「ん」
「でも俺、振られるのわかってたしな。板谷、村岡のこと、見つめすぎだし」
 いつの間にかうつむいていた顔をはっとあげると、斉藤がかすかに口を尖らせて「やっぱ当たりかよ」とつぶやいた。
「ごめん」
「いや、あやまることじゃねえし。うちのクラスの女子、ほとんど全員、あいつのこと好きだしな」
 周囲の目も気になるのか、斉藤にうながされて昨日と同じ校舎の裏のほうへと移動した。昨日とは違い、春の日差しが穏やかに降り注ぎ、桜の葉も心地よさげに揺れている。
「今日は、ふたりとも汗かいてないな」
 斉藤の声に、思わず吹き出してしまった。
 歩きながら、斉藤はぽつぽつと話した。
 沙織が一年生のときから係を真面目にやったり、放課後の一斉清掃を丁寧にやっている姿を見て、ひそかにいいと思っていたこと。もっと普通に話したかったが、照れがまさってうまく話せず、いつもぶっきらぼうになってしまっていたこと。二年の三学期に隣の席になれてかなりうれしかったこと。
 しかし、沙織と間近で接して、沙織が誰を好きかわかってしまったこと。
 そういえば、一年のときから斉藤とはクラスが同じだったことを沙織は思い出した。
 そんなに前から、ちゃんと見ててくれたんだ。
「だから、けじめつけて受験勉強に向かいたかったっていうか。なんか俺のことだけ考えてるみたいですまん」
「あ、ううん。私も避けるみたいなことしちゃって、ごめん」
 謝罪しあって、うつむきあって、ふたたび顔を合わせた瞬間、斉藤の顔に日が差し、まぶしそうに目を細める。
 きれいな季節だな、と、映画でも見ているような感想が浮かんだ。 
 同時に、うらやましいとも思った。
 朝、教室で傷ついている斉藤を見て浮かんだ気持ちは、まさにこの羨望だったことに気がつく。
 沙織は、今、斉藤が感じているであろう胸の痛みや、挫折や、ときめきを、心底うらやましいと思っていたのだ。
 村岡への告白を、ずっと後悔して生きてきたはずだった。癒えない傷を、今まで引きずってきたのだと。
 しかし正真正銘、この美しい季節の登場人物として生きている斉藤を目の当たりにして、沙織はようやく悟った。
 この季節は、私にとってもうとっくに過ぎ去ったことだったんだ。この季節の美しさも、喜びも悲しみも、傷も後悔も、ぜんぶひっくるめて、この季節の、十七歳の宝ものだったんだ。
 ゆっくりと手首を見おろす。最後の光の棒が、ほとんど消えかけている。
「あのさ、ひとつだけ質問していいかな」
「うん。何?」
「もし、もしもだよ。私が誰かに告白している場面を目撃しちゃったとして、そのこと、斉藤だったら言いふらしてバカにする?」
「はあ? なんのために? 落ちこみはするだろうけど、言いふらすわけないじゃん」
「だよね」
 だとすると――水口いいいいい!
 斉藤が言いふらしていると心配している振りをして忠告してくれたのは、そういえば水口だった。
 あの男だけは、いつか復讐してやってもいいかもしれない。
 いよいよ、光の線が消えかけている。
「斉藤、私、もう行くね。あの、本当にありがとう」
「お、おう」
「九年後の同窓会、ぜったい来てよね」
「はあ?」
「約束だよ」
 笑って手を振り、急いで斉藤のそばを離れる。
 校舎の角を曲がったところでまばゆいほどの光に全身が包まれ、三日間で告白をしなかった先につながっていた未来が、飛び飛びではあるけれど、ぽつり、ぽつりと浮かんでくる。過ごさなかった過去のはずなのに、あたかも体験したことを思い出していくような、それは不思議な体験だった。
 代わりに、本来歩んできたはずの過去がぼんやりとかすみがかっていく。
 ああ、やっぱり。そうだよね。
 ある出来事を“思い出し”たあと、沙織は微笑んだまま元の竹林にたたずんでいた。

「起きてますか」
「え、は、はい」
 夢から覚めたような気分とはこのことである。まだ幾分ぼうっとしたまま歩く途中で、雅臣に腕を引かれていることに気がついた。
 沙織が「あの」と声をかけると、「すみません。嫌かもしれませんが、戻りきれてない状態だと、よく転ぶ人がいるので」と淡々と返ってきた。
 確かに、頭がぼうっとしている。
「今、何日の何時ですか」
 どうせ過去になど戻れるわけがないと思っていたから、たいして深く考えずに時帰りしてしまったが、向こうでは三日も経過している。
「時間なら、あのあと五分くらいしか経ってないですから」
「え、たったの?」
「ええ。時間は俺たちが思うよりも柔軟に伸び縮みするみたいです」
「はあ」
 腕を引かれるまま、こよみ庵へとふたたび戻った。
 雅臣の声は、最初に会ったときのような人を拒むような堅さが心なしか薄れ、切れ長の瞳は沙織の様子をうかがうように揺れている。
 うながされて席に腰かけるなり、雅臣が告げた。
「足を出してください」
「へ?」
「靴擦れ、してますよね」
「あ、いえ、自分で貼ります」
 かがもうとして、ふらついた。
「たぶんまだ無理です」
「すみません。ありがとうございます」
 迷惑がっていたわりに、意外な優しさも持ち合わせているらしい。ぼんやりとした頭のまま足を出すと、スニーカー用の靴下からはみ出したかかとの上のほうに手早く絆創膏ばんそうこうが貼られた。
「あの、汀子さんは」
「あそこで休んでます」
 雅臣が指差した先をたどれば、隅のほうで汀子がぐったりと椅子にもたれかかっていた。
「時帰りの舞を踊ると疲れるみたいで、しばらくああです。放っておいてください」
「そうだったんですね」 
 しばらくして、雅臣が淹れたらしいほうじ茶と桃色の落雁らくがんが運ばれてきた。落雁はハートの形をしており、この三日間の出来事が走馬灯のように浮かんでくる。
 沙織の目の前に雅臣が腰かけた。
「たぶん、新しい記憶が断片的に頭の中に浮かんでいると思うんですが」
「はい。そうみたいです」
「これからしばらくは、寝るたびに夢に見るかたちで過去のことを“思い出す”はずです。その代わり、これまでの過去の記憶は薄れていきます。完全に忘れることはないですが、混乱するのは避けられるかと」
「そうですか」
 ほうじ茶には苦みがほとんど感じられず、意外なほどまろやかだった。
「どう変わったか、とか聞かないんですか」
「聞いたほうがいいですか」
「お・に・い・ちゃ・ん」
 兄の素っ気ない返事を、少し回復したらしい汀子が向こうの席からたしなめる。
「ごめんなさい、沙織さん。まだあんまり動けなくて」
「いえ、とんでもない」
「で? どう変わったんです?」
 あからさまに面倒そうな顔で、雅臣が尋ねてきた。絆創膏を貼ってくれたときは少し感動してしまったが、やはりこういう性格らしい。
「私、告白しませんでした」
「そうですか」
 会話を終わらせようとする雅臣に、なおも食い下がる。誰かに、新しい記憶を聞いてほしかった。
「なんて、時帰りした私は告白しなかったんですけど、私がこちらに戻ってきてすぐに、やっぱり当時の私が告白しちゃいました。もう、胸におさえておけなかったみたいで。同じように振られましたけど、今度は誰にも目撃されず、クラスの誰にも知られることなく、静かな失恋で済んだというか」
「へえ」
 同時に、あのとき、勇気を出して告白してくれた斉藤に対するひそかな尊敬の念も抱いている。あの真っ赤な顔のまぶしさが、今も沙織の胸の中にじんと残っていた。
「で? 失恋さえなければうまくいったと豪語してたほかの未来は、どれだけ変わったんです? まだ記憶は戻っていませんか」
 この質問には、沙織も苦く笑うしかなかった。
「実は、ほとんど変わらなかったみたいです。受験シーズンにお腹を壊して前回と同じ第六志望の大学に行くことになったし、就職先も同じで。でも前回は、不本意な気持ちで通ってたから友達なんてまったくできなかったんですけど、二度目は親友ができて今でも仲がいいみたいです。それに、職場もいいところがいっぱい見えてきて。私、ただ甘えてただけだったんだなって」
「わあ、すっごく前向きになれたんですね。なんか私たちもうれしいです。ね、お兄ちゃん」
 少しふらつきながらも、汀子がこちらへと席を移動してきた。
「まあ、そうですね」
「ほんっとに素直じゃないんだから。こう見えても心配してたんですよ」
「別に心配なんて」
 急に立ち上がって出ていこうとした雅臣がテーブルの脚にすねをぶつけて「いてっ」と小さく叫んだ。

 来たときと同じ竹林の小径の出口まで、雅臣と白猫のタマが送りに出てきた。
「まだ本調子じゃないと思うので、これをどうぞ。神社の湧き水で淹れた冷茶です。時帰りしたあとは、いい気つけになりますから」
 雅臣が手渡してきたのは小さなペットボトルだった。受け取ると、ずいぶん冷えている。
「ありがとうございます」
「お賽銭もはずんでいただいたみたいですし、ほんのお礼です」
 優しいのか冷たいのか、やはりよくわからない相手だ。
 タマの青い瞳が傾きかけた日に透け、水の湧く泉のようだった。
「明日の同窓会、楽しみに行けそうです」
「へえ」
「あからさまに興味なさそうにするの、やめてもらえます?」
「そう言われても、あまり興味がないので」
 ほんとに残念なイケメンだな。
 ここまでくると、わざと意地悪をしてやりたくなる。
「よかったら、また遊びにきます。また新しく思い出すこともあるでしょうし」
「どうぞご自由に」
 やはり少し迷惑そうな顔で素っ気なくうなずいたあと、雅臣がタマに告げた。
「タマ、送って差し上げてください」
「ニャア」
 まるで人語を解しているかのようにひと鳴きして、タマがとっとっと沙織の先へと歩き出し、少し先からこちらを振り返っている。
「ついてこいって言ってるの?」
 タマの尻尾を追いかけて歩き出しながら、三日間の大冒険を思ってかすかに口角が上がる。
 この信じられない体験を、斉藤に話したら信じてくれるだろうか。
 入道雲の下、思いのたけをぶつけてくれた高校生の顔を思い浮かべる。
 タマが、きっと信じてくれますよ、とでも言いたげに澄んだ瞳をじっとこちらに向け、足元に体をこすりつけてきた。

 

(第一話・完/第二話につづく)