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第三話 高くついた買い言葉(承前)


「あれ」
 薄暗い部屋で目が覚める。どうやらテーブルに突っ伏して眠っていたらしい。
 すぐ隣のベビーベッドでは、娘の彩花が大きく泣きだす前のしくしく泣きを繰り返していた。
 がばりと起きあがって彩花を抱きあげ、お乳をあげはじめる。
 か、軽い。
 今ではずしりと手首にくる重さなのだが、このころはまだ空気のように軽くはかない。泣き方もずいぶんとか弱くて、いとしさで胸がいっぱいになった。ただ、寝不足がピークのころだからか、若干足がふらついている。
 授乳クッションを手に取ってソファに腰かけ、放ってあったスマートフォンで日時を確認した。四月三日、午後三時。
 曇り空のせいで部屋が薄暗かっただけで、まだ午後ははじまったばかりだった。窓の外では葉桜が風に揺れている。
 いやいや、のんきに外を眺めている場合じゃないよ。
 我に返って部屋の中を見渡し、カレンダーがまだ四月なのを確認して動悸がした。明日の四日の数字を大きく赤丸で囲ってあり、メモ欄に『三ヶ月検診』と書いてある。
「うっわあ、うっわあ、ほんとに私、タイムトラベラーなの? やだ、ちょっとどうしよう。誰かに言いたい」
 SFクラブのメンバーの顔が数人、脳裏にぽぽんと浮かぶ。同時に、子ども時代から部屋や教室の片隅でSFを読みあさっていた日々が走馬灯のように思い出され、じんわりと視界が濡れた。
 いつか王子様が迎えに来る、というのが少女の一般的な夢かもしれないが、美弥子の場合、それはいつかタイムトラベルする、だったのである。
 半年後の世界から戻ってきた、なんて言ったらみんな笑うかな。それとも信じてくれるかな。
 まだ夢中でお乳を吸っている彩花の頭を軽くなでたあと、片手でスマートフォンを手に取って、メッセージを送ろうとした。とたんに、母親の関心がよそへ移ったのを敏感に察したのか、彩花がお乳から口を離して抗議するように泣きはじめる。
「ごめん、ごめん」
 メッセージは寝たあとに送ることにして、もういちど、お乳を与えた。
 一心に吸いつづける娘は、たった半年前なのに驚くほど赤ん坊で、まさに生まれたてである。いとしくて、大切で、しかし産後の頭は霞がかかったようにぼうっとしている。
 そうそう、こんな感じ。この子のこと以外はまともに考えられなくて、ちょっとでも気にさわることをされると、敵だ、なんて攻撃的になって――。
 明日の夜は、ぜったいに夫にやさしくしよう。怒る代わりに、してほしいことをわかりやすく伝えるのだ。
 決意して安心したのか眠気が襲ってきて、彩花を抱いたまましばしうとうとしてしまった。

 授乳後、三時間も経たずに彩花がふたたび泣きはじめた。昼も夜もなく、細切れで睡眠をとるものの、やはり洗濯や掃除は彩花が寝ている昼間にやることになる。
 いつのまにか窓の外の光が夕日の色に染まっていた。
 家事にしても、疲れているから効率よくは進められず、部屋はワイパーで半分だけ拭き、洗い物は手つかず。とりあえず洗濯物が湿る前に取りこもうとしたところで、ふたたび彩花がすすり泣きをはじめる。
 ああ、この感じだ。
 手をつけたものすべてを、やり終える前に中断しなければならない。部屋は荒れ、気持ちがすさみ、出勤する人々を見ては社会から取り残される不安に焦っていた。
 ぜんぶひとりでやらなくちゃいけないって、思いこんでいたものね。
 区役所に相談すれば、家事代行のシルバー人材を派遣してもらえる。そうでなくても、手ごろな価格でごはんを作り置きしてくれたり部屋の掃除を請け負ってくれる人材派遣サービスもある。
 優先度の高い順からリストに書きだせば、和宏もメモを確認しながら何をしなければいけないのかわかる。
 特に、さまざまな家事や育児において、一部を手伝って終わりではないことを丁寧に伝えよう。たとえば、入浴の手伝いは、彩花を洗って終わりではないこと。服を脱がせて、洗い、拭いて、着替えさせる。ここまでやってようやく完了。濡れたままの彩花を「終わったぞ~」と手渡し、自分はそのあと、ゆっくり入浴を楽しむのが育児ではないのだ。
 洗い物も、拭いて戸棚にしまうまでがワンセット。洗濯も、洗って干して取りこみ、たたんでしまうまでがワンセット。
 一部だけに手を出して、家事を担っていると満足するのをどうにかしてやめてもらわなければ。
 仕事のときは驚くほど段取りよくタスクを完了させているらしいのに、家事になったとたん、その能力が消え失せるのが不思議だった。手を抜いているのだと、いつも和宏に対して腹を立てていた。
 しかし、あとから聞いたところによれば、和宏はただ、理解していなかったのだ。自分がやっていたあれこれは、それぞれの家事のつまみ食いに過ぎなかったことを。
 ようやく満足して眠った彩花をもういちどベッドに寝かせ、洗濯物を中に入れた。手早くたたんでクローゼットにしまい、ついでに奥にしまいこんでいたノートを引っ張りだしてくる。以前、日記を書こうと思い立ち、けっきょく白紙のまま保管していたものだ。
 ページをめくり、眠気と闘いながら、どうにか家事のひとつひとつについて、美弥子なりのやり方を絵つきで解説していった。ときどき、ミミズがのたくったような字になってしまったが、これで少しは美弥子の焦りや大変さをわかってくれるはずだ。
 二度目の人生は、きっとスムーズに行く。そうすれば未来もスムーズに変わるはず。和宏も、定期的に怪しい外出なんて――。
 胸の奥がずきりと痛む。先ほど雅臣が言いかけたのと同じ“浮気”を、美弥子も疑っていた。大学のSFサークルで出会った和宏は、誠実な人柄だし、SFオタクだ。浮気とは最も遠い人物だと思っていたが、そんな相手にも弱点がある。SF好きの女性に弱いのだ。
 美弥子のことも、ひと晩中SF文学について熱く語っていた姿に惚れたと臆面もなく共通の友人たちにのろけられて、ずいぶんと恥ずかしかった。
 もしも職場やそれともどこかで、美弥子と同じようにSF好きの女性と出会ったら? 彼女はきっと、美弥子のように産後すぐで神経質でもなければ、家事や育児の要求もしないだろうし、和宏の話にだって喜んで耳を傾ける余裕があるだろう。
 夫は、何かにのめりこんだら一途なひとだ。 浮気が本気になり、別れを告げられるのはこちらかもしれない。
 悔しさや怒りがないといえば嘘になる。いや、正直に言えば、歯ぎしりと涙の夜を過ごしたことも一度や二度ではない。
 それでも、和宏は彩花の父親で、美弥子の家族だ。もちろん愛情だってある。二人のときは夫婦というイメージで、正直にいうとあまり独身時代と意識は変わらなかった。そのぶん、和宏への愛情を示せてもいた。けれど、子どもが生まれてからは育児のことで頭がいっぱいになってしまい、和宏をおろそかにしすぎたのかもしれない。自分がいっぱいいっぱいだったように、和宏もそうだったのかもしれない。
 今なら、少しは思いやれる。妊娠期間もなくとつぜん赤ん坊が目の前に現れた和宏が、とうぜん母親である自分よりも自覚を持つのに時間がかかるということを。
 だから――ぜったいにあの言葉はもう言わない。おだやかに、やさしく、話し合うのだ。
 彩花を授かり、家族になれた。この奇跡を、そう簡単に諦めたくない。
 やってほしい家事のメモをもう少しで書き終えるというときに、ふたたび彩花がしくしく泣きはじめた。
 美弥子は静かにペンを置き、小さく息を吐いて席を立った。

 今夜、時計を見上げるのはこれで何度目だろう。
 夜の十一時。スマートフォンで送ったメッセージには既読マークもつかず、もちろん和宏からのメッセージはゼロ。着信もない。
「いったい、何時に帰ってくるつもりなのよ」
 昼間の決意などどこかへ吹き飛び、つい悪態をついてしまう。
 自分の食事は大きめに刻んだだけの野菜とコンビニで買った焼き魚、そして白米のみ。和宏のぶんは、自分で買ってきてもらうことにしているから、もしかして退社後、どこかで大好物のラーメンでも食べているのかもしれない。
 なんだか、記憶よりも短気になってる?
 心は半年後の自分でも、体の状態は産後すぐのまま。ホルモンバランスも精神の状態も、すべてが不安定な時期だ。そういえば物忘れもひどく、娘に関すること以外は注意力がかなり散漫になっていた。
「――いけないっ!」
 ソファからキッチンへ走る。
 かなり前、紅茶を飲むためにお湯を沸かし、そのあと紅茶を飲んでいない。
 急いでガスレンジを確かめてみると、沸かしていたはずのお湯は空になり、自動消火したのかスイッチがオンになったまま火も消えていた。
「ああ、なんか、やだやだやだやだ」
 こんな失敗を繰り返しに時帰りをしたわけではないのに。これではイライラの追体験をしに来ただけだ。気持ちをコントロールできない。家事もできない。彩花が寝ているあいだに、散らかり放題の部屋を片づければいいのに、眠い。とにかく眠い。
 こんなに疲れてるのに、どうして和宏は帰ってこないの? バカなの? わざとなの?
 そうと決まったわけではないのに、ひとりで優雅にラーメンを食べながらスマホをいじる夫の姿が目に浮かんできた。
 それなら私だって。
 腹立ちまぎれにコンビニに行ってカフェスペースでコーヒーでも飲んでやる。今なら彩花もぐっすり寝てるし、きっと三十分くらいなら――。
 衝動的に玄関に向かったが、まだへその緒がつながってでもいるかのように外出の気配を敏感に察知した彩花が、大泣きをはじめてしまった。
 今日だけでいったい何度目かわからないため息をつき、スマホを床に投げつけようとして思いとどまる。
「私、やっぱりおかしい」
 ひとりつぶやき、ソファにうずくまった。

 その夜、十二時を過ぎてからようやく和宏が帰ってきた。退社する際にメッセージも送られてきたが、美弥子は読んだままメッセージを返さなかった。正確には、文字を打とうとするたびに難癖にちかい恨み言ばかりが出てきて、返せなかったのである。
「ただいま。帰り遅くなってごめん」
 申し訳なさそうに寝室をのぞきにきた夫の声に、「大丈夫だから寝かせて」と険のある声で答えてしまった。
「ごめん」
 もういちどつぶやいて寝室のドアを閉めた和宏は、今、シャワーを浴びているらしい。
 ゆっくり浴びられて、いいご身分だよ。私は、いつ彩花が泣きだすかわからなくて、カラスの行水だったのに。
 またしてもイライラしている自分に気がつき、深呼吸を繰り返す。
 このままでは半年前と同じになってしまう。
 焦るのに、思考には相変わらず霞がかかったようで、具体的にどうすればいいのかまったくわからない。壁の向こうからかすかに響く水音が、ひたすらわずらわしかった。

 次の日の朝四時に、彩花の鳴き声で目を覚ました。寝入っていてしくしく泣きを聞き逃したのか、すでに大声で抗議の声を上げている。
 隣の部屋からは、和宏のいびきが響いていた。
 こんなに娘が泣いているのに、よく寝ていられるよね。
 心の中で毒づき、ベビーベッドから彩花を抱き上げる。本人は渾身の力で泣き、石のように体を硬くしていた。
「はいはい、ちょっと待って」
 授乳をしながらリビングを移動して、ソファに腰かける。いつもはにぎやかに響いている雀の声もまだしない。カーテンの隙間からはほんの少し明るくなった空がのぞいているが、まだ夜の色のほうが濃かった。
 ほわほわと毛の生えた彩花の頭頂はあたたかく、ミルクのいい匂いがする。
 授乳をしながら、ソファに頭をもたれかけてついうとうととしてしまった。はっと気がついて手首を確認すると、昨日は二本だった光の棒が一本に減っている。
 せっかくの時帰りなのに 、前と同じように授乳して、イライラして、それで終わり?
 自己嫌悪で、心が重く沈む。
 もう少し和宏が早く帰ってきてくれたら。仕事よりも家族を優先してくれたら。
 目を閉じて彩花の頭をなでていると、ドアの開く音がした。
「おはよう。もう起きたの?」
 和宏が、寝ぼけた顔のままリビングに顔を出す。
「毎日だけどね」
 とんがった返事をした美弥子に「そうか」とつぶやいただけで、和宏は寝室へと戻ってしまった。
 普通、何か手伝わない? 出社しなくちゃいけないからって、ほかがぜんぶ免除になるわけじゃないよね?
 あれほど冷静に、おだやかに伝えようと誓ったはずなのに、まるで巣にひな鳥のいる親鳥のように、昨日の夜から心の中でキーキーと叫んでばかりいる。
 ソファに座ったままイライラとともに眠りにつき、ふたたび目を開くと、七時になっていた。
「おはよ。朝食、自分でするからつくらなくていいよ」
 当たり前でしょ。こっちは今まで授乳してたんだから。
 声にならない抗議を上げたあと、朝から攻撃的になっている自分に嫌気が差した。
 落ち着こう。このままじゃ、ほんとになんのために時帰りしたんだかわからなくなっちゃう。
 ちょうどトースターに食パンをセットしている和宏の背中に声をかけた。
「私のぶんもおねがいしていい?」
「え?」
 和宏が意外そうにこちらを振り返った。
「だから、パン。パンを焼いてほしいんだけど」
「あ、ああ、もちろん。一枚でいい?」
「ううん、二枚ほしい」
「オッケー」
 もう一枚パンをセットし、和宏があらためてこちらを振り返った。
「今日って三ヶ月検診の日だよな」
「うん」
「俺、何か手伝うことある?」
「――別に」
 短く答えたあと、思い直して告げる。
「大丈夫。でも、今日じゃなくていいから、和宏も次からは積極的に行ってもらえるとうれしい」
 和宏の目が、パンを頼んだときよりもさらに大きく見開かれた。
「わかった。次の検診までにいろいろ教えて」
「ごめん、教えてる時間はない。自分で調べて」
 本当は時間くらいあるくせに、とげのある声。和宏はうろたえたように何度もうなずいている。
 違う。そんな顔をさせるために来たわけではないのに、感情を抑えきれない。これではただの八つ当たりだ。
 産後の自分がこんなにも神経をとがらせていたことに、美弥子はあらためて驚かされた。
「今夜は、早く帰ってこられるよね。育児のことで、ちょっと話があるから」
「うん、なるべく早く帰れるようにする」
「――」
 なるべくとは、なんなのだろう。会社の都合には一も二もなく合わせるのに、なぜ、家族の都合には合わせられないのだろう。
 際限なくふくらんでいく不満で胸をいっぱいにしながら、美弥子は彩花を連れて寝室へとこもった。これ以上、夫の姿を目にしていたら、言わなくてもいい言葉をぶつけてしまいそうだった。
 しばらく経って、和宏がそっと玄関を出ていく音が響いた。
 やさしくしたいのに、できない。
 監獄に閉じこめられているかのように、和宏への愛情は心の奥深くから出てこられなくなっていた。

 

(第14回につづく)