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第一話 この胸キュンは誰のもの(承前)


「そんなあり得ない話に、やってみま~すなんて気軽に返事をできるなら、こんな人生送ってませんよ。第一、もし万が一、本当に時帰りができるとして、何か後遺症とかないって言い切れるんですか? だって時をさかのぼるんですよね? それに、今の私ってどうなっちゃうんです? よくあるじゃないですか、過去を変えたら今の自分が消えちゃうとか、大事な人の人生が変わっちゃうとか」
「おい、突然キレだしたぞ」
 雅臣が、面倒そうにぐっと眉間に皺を寄せた。
「おにいちゃん、失礼だよ。沙織さん、私たちが急ぎすぎました。もう少しくわしく説明させていただきますから、まずは一度座ってください」
「嫌です。帰ります」
 バッグを両手で抱え、大股で出口へと向かう。
「ああ、待ってください。何もしなかったら、今のままですよ」
「ぐ」
 痛いところをつかれ、沙織は思わず足を止めた。
「今のままで何が悪いんですか」
「だって、今のままが嫌だから、何かをお祈りしにきたんですよね。過去は、今に連なっています。つまり、過去を変えれば、今も変わるんです。そのチャンス、本当に見送りますか?」
「それ、一見ポジティブな言い方ですけど、ただの脅しですよね」
「まさか。でも単純に戻ってみたくないですか? 過去に」
 ずいぶん簡単に言ってくれる。おそらく汀子のような存在には、大切な相手から拒絶される惨めさなど想像もつかないのだろう。
 帰ろう。
 惨めさを抱えたまま、あらためて出口へふたたび向かおうとする。するのに、なぜか沙織の足は動かない。
 今のままですよ。
 呪いだ、脅しだ、神職のやることではない。
 そう思うのに、汀子のひと言が、いかりのように沙織をこの場に止める。
 大きくため息をついたあと、沙織はぐったりと席に座りこんだ。
「時帰りについて、聞くだけなら」
「ほんとうですか」
 汀子の顔が、わかりやすく輝いた。
 バッグをふたたびテーブルに置き、沙織は椅子に深く腰掛け直した。
 説明のために渋々といった様子で口を開いたのは、汀子ではなくそれまでほとんどしゃべらなかった雅臣のほうだった。
「さっきも汀子が伝えたとおり、時帰りできる人間はここのご祭神が選ぶので私たちは関与できません。それと、大きな歴史を変えるようなこと、人の生死に関わる出来事を変えることも無理です。たとえば、起きた戦争を止めることはできないし、家族やペットの死を避けることはできない。だから、誰かに悪影響が出るような大きな変化は、時帰りで起こすことはそもそも不可能なんです」
「なるほど」
「身体的な影響も今までの例からいくと、起きていない。ただ、過去の行動をやり直して変わった未来があるとすると、それまでたどってきた本来の記憶はぼやけていきます。まったく忘れてしまうわけではないですが」
 ということは、このつらい記憶もぼやけていくの?
 それまで拒絶するばかりだった沙織の心が、にわかに時帰りへと傾いた。まあ、どうせ嘘だろうが。
 雅臣が感情の読めない平坦な声でさらにつづける。
「もう一度だけ警告しますが、大きな出来事を変えようとすると、結果が変わらないだけでなく、結果に至るまでのプロセスがより悪くなることもあります。決して変えようとしないことですね」
「どういうことです?」
「たとえば誰か死ぬはずだった人間を助けたとして、その相手はもっとつらい死に方をする可能性があるということです」
 雅臣の瞳がほの暗く光った。
 時帰りなど信じていないはずの沙織の背筋が、ぞくりと冷える。
「これでわかったでしょう。時帰りなんて決していいことばかりじゃないし、遊び半分でやるものでもない。ああ、最後に付け加えると、時帰りができるのは一生に一度だけ。時帰りでしくじったからってもう一度帰ってやり直すことは絶対にできません」
 雅臣の語りが終わると、その場に沈黙が満ちた。
 この人、真面目に言ってるの?
 雅臣にしてみれば、沙織をこのまま帰らせようと、わざと凄味すごみを効かせたつもりなのだろう。しかし沙織のほうは、ここまで馬鹿馬鹿しい話を、さも本当のように話され、逆に好奇心が刺激されてしまった。
 帰っても、明日の同窓会のことを考えて憂鬱になるだけだし。こんな話、絶対に嘘だし。どうせ、退行催眠みたいなうさんくさい術でけむにまかれるに決まってる。
 興味本位とちょっとした悪意がないまぜになって、気がつくと沙織は答えていた。
「――やってみます」
「は?」
 面食らった雅臣に向かって、にっこりと笑みを貼りつける。 
「だから、やってみます。過去に戻してくれるんですよね? その時帰りとかいう術で。ぜひお願いします」
 もしかして、何か心理学的なセラピーでもしてお茶を濁すだけかもしれないが、それで気持ちが楽になるならもうけものではないか。
「わあ、ありがとうございます」
 喜ぶ汀子に向かって、念を押した。
「本当に、過去に帰してもらえるんですよね」
「もちろんです。その代わり、この神社のこと、SNSで投稿していただけませんか。それと、お賽銭さいせんを気持ちはずんでいただけたら助かります。もちろん、小銭でけっこうですから。あっ、でも時帰りのことはくれぐれもないしょにしてほしいんですけど。俺もやらせろとか、カルトだとか炎上しちゃうとこわいので」
「そんなこと、呟きませんよ。私だって頭が変だと思われそうですし」
 意地の悪い答えにもかかわらず、汀子はあからさまにほっとしていた。
「待ってください。俺はまだ認めません。どんな理由で、いつに帰りたいのか。それを聞いてからじゃないと、時帰りはさせられない」
 沙織をにらみつける雅臣の手の甲を、汀子がつねる。
 どうも、見た目と行動にギャップのある兄妹ふたりである。いったん立ちあがったものの、沙織はあらためてふたりと向き合ってテーブルについた。
「できるだけくわしく話してください」
 雅臣が圧迫面接の面接官のような態度で尋ねてきた。ただ、沙織も雅臣の威圧に慣れてきている。
「くわしく、ですか」
 さも面倒そうに尋ねてしまった。
「それが最低条件です。あまりにくだらない理由だったり、無意識にでも悪意のある理由だったらきっぱり断ります」
 後悔しているのは、沙織にとってぬぐってもぬぐいきれない黒歴史だ。少し躊躇ちゆうちよしたが、仕方がなく打ち明けることにした。
「高校三年の春に戻りたいんです。戻って、当時好きだった彼に告白するのを止めます」
「――告白、ですか」
 汀子が拍子抜けしたようにつぶやき、隣の雅臣もぽかんと口を開けた。ふたりとも、心なしか生暖かな視線を送ってくる。
「わ、私にとっては大事なことなんです。彼に告白したのを同級生に見られて、クラス中の男子からからかわれるし、モテる人だったから、女子からは総スカンを食らうし。彼からも、もちろん振られて避けられるようになって」
「あるあるですね」
「いや、あなたたちには、なしなしだと思いますけど」
 ふたりとも、振られた経験などおそらく皆無だろう。この世はあらゆる側面で格差社会である。
 差し出されたコップの水をぐいっと飲みほして、沙織はつづける。
「それからの人生は悲惨のひと言でした。傷心のせいで勉強にも身が入らなくて、第一志望どころか、合格確実だった第二志望群の大学にも全落ちして、ストッパーの第六希望の大学にかろうじて引っかかりました。不本意な大学だったから、あんまりキャンパスライフも楽しめないし、友達もできないし。就職だって誰も知らない小さな会社にしか内定が出なくて。男っ気なし、貯金なし、人生の希望なしの三重苦です。でも――」
 ひと呼吸おいて、神主と巫女を交互に見る。
「あのとき、告白さえ思いとどまっていたら、私、今はもっといい人生を送っていた自信があるんです。そしたら、明日の同窓会だって笑って出席できる」
 声が尻つぼみになった。コップを握りしめる両手を、じっと見つめてしまう。
「思ったとおり、くっだら」
「お・に・い・ちゃ・ん」
 雅臣の声を、汀子がさえぎった。
「わかったよ。でも、その出来事、日づけなんて正確に覚えてるんですか?」
「覚えてますよ。九年前の三月十三日。春休みになる一週間前です。振られてもあと一週間でクラス替えだしって思い切れたからよく覚えてるんです」
「へえ。でも振られてからの一週間って地獄――」
「お・に・い・ちゃ・ん」
「わかりました」
 ため息をついてかったるそうに立ち上がった雅臣が、出口へと向かう。
 兄の態度を謝罪したあと、汀子が沙織をうながした。
「さ、私たちも本殿へ。少しだけ注意事項をお話ししたら、時帰りの儀式を始めさせていただきますので」
「え、今からですか」
「はい。今からすぐに、九年前の三月十三日へお送りします」
「まさか本当に? 退行催眠とか、記憶の中をカウンセリングで整理するとかじゃなくて?」
 汀子は頭を左右に振って、沙織をいおりの外へとやや強引に押しだす。
「正真正銘、“あの日”に戻ってもらいます」
 汀子が沙織の背中をぐいぐいと前へ押した。
「え、いや、まだちょっと心の準備が」
「大丈夫、大丈夫。みなさんそうですから」
 汀子が向かったのは、先ほど参拝した本殿である。小綺麗な建築物からこちらへ戻ってくると落差が激しく、よりいっそう貧相に見えた。
 ご神体らしい鏡を背にして、雅臣がすでに正座して控えている。庵で相対していたときには美しいけれど俗物といった様子だったのに、同じ人物とは思えぬほどりんとした気を発していた。近づくにつれ、沙織の露出している肌の部分がぴりぴりと小さな刺激を感じだす。
 まさか。緊張して過敏になっているだけ、だよね。
「靴を脱いでこちらへ。今からいくつか注意があります」
「はい」
 雅臣のおごそかな物言いにごくりと唾を飲みこんで、板敷きへとあがった。雅臣の真正面に座したちょうどそのとき、風がぴたりと止む。境内の木々がこちらの様子を息を潜めてうかがっているようだった。
「今から俺が祝詞のりとをあげて、汀子が神楽かぐらを舞います。そのうち、竹林の向こうが光りはじめるはずです」
 雅臣の視線をたどって振り返ると、神社を囲む竹林が風に揺れている。当然ながら、今は向こうに光など見えなかった。
「同時に、利き手の手首の内側に、自分にしか見えない刻印が刻まれます。刻印は光の棒で、一本が一日を表しているようです。この光の棒の数だけ、過去に滞在できます。人によって棒の数が違っていて、七本の棒が浮きあがる人もいれば、一本だけの人もいる」
 思わず沙織は、右手首の内側を確かめた。当然、今は何も見えない。
「手首の棒を確認したら、小径をたどって竹林の向こうまで歩いていけば、あとは希望の日に戻っているはずです。ただし、戻るのは意識だけ。当時の自分の体に、今の自分の意識が宿ると思ってもらえればいいでしょう。時帰りのあいだ、今の肉体がどこにあるのかは、私たちにもわからない。竹林に残っていないことは確かですが」
「――あの、真面目に言ってます?」
 このにおよんでも、やはり尋ねてしまう。
「信じられないなら今から帰っていただいても」
「いえ、やります。やるって決めたので」
 づいたのだと思われたくなくて、つんと鼻をそらした。
「それじゃ、竹林のほうを向いて」
 雅臣は沙織に告げたあとすぐに、自らはご神体のほうへと向き直った。沙織も、竹林へと体の向きを変える。
 青々とした葉を茂らせた背の高い竹が、何十本、何百本と互いに身を寄せ合うように密集しており、奥に向かって空間を薄暗くかげらせている。先ほどから風が運んできていたさわやかな香りは、この竹の発するものだったのかもしれない。
 ここまで来ても半信半疑だ。ただ、それにしては、にわかに動悸がし、そわそわと落ち着かない。
 緊張なんてする必要なくない? どうせ過去になんて行けるわけないんだから。
 太鼓の音につづいて祝詞がはじまり、やがて、しゃん、しゃん、と鈴の音が響きはじめた。
 騒がしくなった心臓のあたりをそっと手で押さえながら振り返ると、先ほどのはかま姿から着替えた汀子が、鈴を手にして、たおやかに神楽を舞っていた。金の冠をかぶり、緋色ひいろの布地に金銀の刺繍が施された装束しようぞくに身を包む汀子は、人ならぬ神の遣いにも見える。一方の雅臣の表情は沙織の位置から確かめることはできなかったが、首筋をつっと汗が伝っていくのが見えた。
 本当に、過去に戻れるっていうの?
 自問するたびにまさかと否定してきたのに、なぜか今回はできない。
 もう一度、竹林のほうを向いた。今のところ何も起きず、ただ風が吹き渡るばかりだ。
 それでも胸が騒いで、竹林から目が離せなかった。
 しゃん、しゃん、と音が響くたびに、あの日の光景が思い浮かんでくる。雅臣の低くまろやかな声が、いつしか耳に心地よく響いている。
 やがて、本当にそれは起きた。
 竹林の向こう側から、光源でもあるように柔らかな光が漏れてくる。最初、バスケットボールほどの大きさだったそれは、やがて竹林いっぱいに広がっていった。じんわりと手首に熱を感じて見下ろせば、雅臣が言ったとおり手首にも変化が起きている。
 光る棒が三本。つまり沙織は、三日、過去に帰れるということらしい。
 っていうか、これ、現実なの? 
 振り返ると、ちょうど鈴を打ち鳴らした汀子と目が合い、かすかにうなずかれた。うなずき返して立ち上がり、靴をはいて竹林のほうへと踏み出す。
 浮き足だってしまい、ふわふわとした心地で竹林へと近づいていった。
 こわい。だって、こんなのおかしいよ。
 それでも、あの日へ戻れるなら。今を、もっと望む方向へと変えられるなら。
 震えながらも、一歩、また一歩と進んでいく。
 やがて、先ほど雅臣に指示された小径へと入った。左右を竹に囲まれた無舗装の道である。指示されなければ気づかなかったであろうほど、細く頼りない。視線を真正面へと向けると、光が、沙織を手招きするように柔らかに揺らいでいた。
 どこまで進めばいいのかな。
 つい先ほどまで確かに竹林がつづいていたはずなのに、途中で竹林の風景がふつりと途絶えた。
 次の瞬間、沙織の足が地面を踏みそこねたかのようにずるっと落下する。
 え?
 一瞬、胃の腑が持ち上がるような気持ち悪さを感じたあと、視界が暗転した。
 目が慣れてくると、沙織は真っ暗な空間を猛スピードで落下しているらしかった。不思議と恐怖はない。それどころか、母親の胎内にでもいるような心地よさに包まれている。
 やがてふたたび気持ち悪さに襲われて思わずぎゅっと目を閉じた直後、どこかにお尻から着地したのがわかった。
 その拍子に、ももで何かを上へ押し上げてしまう。
「きゃっ」
 小さく叫んだ次の瞬間、おそるおそる目を開くと、押し上げたのは机だったことに気がついた。
 この机って――。
 左端には、彫刻刀か何かでつけた覚えのある傷。ブレザーの袖口から伸びた右手が、条件反射かペンケースが落ちないようにひっしとつかんでいる。左手は、机の端を押さえていた。
 ブレザーにも確かに見覚えがある。この、午後の気だるげな空気も、窓から差す日の光も、かすかに甘い木材の匂いも。
 私、制服を着て教室にいる、よね?

 

(第3回につづく)