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第二話 想い出の苦いヴェール(承前)


「蒸すな」
 この体形になってから愛用しているタオルで額の汗を乱暴にぬぐいながら、あたりを見まわす。我に返って次のバス停で降りたはいいものの、この山間やまあいに見るべきものなどなさそうである。
 傘を差したまま、降りたことを後悔しながら歩いた。
 ときどき思い出したように洒落しやれた家や喫茶店が現れては消え、また視界が緑に埋めつくされる。
 気がつけばけっこう歩いたようで、かなり息がきれていた。膝頭も軽く痛みはじめている。
「じじいか、俺は」
 軽やかにジョギングをしていたころの自分は、羽でも生えているようにどこまでも駆けられる気がしていた。
 夢でもいい。あのころみたいに思い切り走れたら。
 ため息をついたそのとき、足元にまとわりつくふわりとした感触があった。
「わっ」
 驚いて飛びのくと、白猫がこちらをじっと見上げている。
 やけに美しい猫だった。薄青色の大きな瞳は木漏れ日を反射し、キラキラと光る。虹彩が時計の針のようにぐるりと瞳孔を囲んでいた。
「いつの間に晴れたんだ?」
 傘を下ろしてみれば、たしかに先ほどまでそぼ降っていた雨がぴたりとやみ、木々の緑が目に鮮やかだった。
 こんな景色を走り抜けるのはさぞ気持ちがいいだろうな。
「にゃあ」
 同意するように猫が鳴く。たったっと進んで、こちらを確認するように振り返った。まるでついてこいと言わんばかりである。
 ためしに大輔が一歩踏み出すと、白猫はふたたび歩きだした。
 
 揺れるしっぽに誘われるようにしてしばらく歩いたあと、竹林の細道へと曲がった。日差しは柔らかくかげり、あたりにはさわやかな葉の香りが満ちている。くさくさしていた心が洗われるようだった。   
 猫は木漏れ日とたわむれるようにして前へ、前へ進んでいく。追いかけるうちに竹林が突然とぎれ、開けた場所へとたどり着いた。
「にゃあ」
 白猫が、催促するように鳴く。
 気がつけば今にも崩れそうな社殿の前に立っていた。
「なんだ、ここ。神社だったのか」
 いくら山奥とはいえ、ここは鎌倉である。神社仏閣を目当てに訪れる観光客も多いだろうに、ここには人っ子ひとり見当たらなかった。
 雨に冷やされた風がふたたび首筋をなで、ぞくりと背中が震える。
 あたりを見まわすと、すぐそばに、古びた本殿には似ても似つかないモダンな建築物が目に飛びこんできた。入口に看板が出ており『こよみ庵』と書かれてある。ちょうど、引き戸が音もなく開いた。
「あっ、気づかず、申し訳ありませんでした」
 巫女さんだろうか。少し圧倒されるような美人である。破れ神社のそばにたたずんでいると、いつか見た幽霊画から飛び出してきたようにも見えてどことなく気味が悪かった。
「どうも」
「もう少し遅くいらっしゃるかなと思ったんですが、早かったですね」
「あ、いや、特に約束はしてないですが」
 はっとしたように巫女が立ち止まった。
「そうですよね、すみません。なんだか会ったことがあるような気になってしまって」 
「はあ」
 別の誰かと勘違いでもしたのだろうか。
 ちぐはぐな会話に、落ち着かない気持ちになった。
 なんだか、ここはおかしい。賽銭箱に十円でも放りこんでとっとと帰ろう。
 足早に本殿へと近づき、小銭を投じて形ばかり柏手を打つ。
 背後から小さなため息が聞こえたのは気のせいだろうか。
「それじゃ、失礼します」
 きびすを返して巫女の前を通り過ぎようとしたとき、先ほどの白猫が大輔の足もとにまとわりついてきた。
 無視して帰ろうとしたのに、巫女がここぞとばかりに声をかけてくる。
「たぶん、お抹茶を勧めているんだと思います。あの建物でお出ししてるんですけど」
 巫女のほっそりとした白い指が差すのは、先ほど見たこよみ庵だ。ちょうど境内を日が照らし、まるでスポットライトに当たっているようだった。抹茶よりもコップ一杯の水を思い浮かべ、大輔はからからに喉が渇いていたことに気がついた。
 明るい空のもとでは、ついさっき感じたような妖しさが、巫女からも、この神社からもまったく感じられない。
 馬鹿らしい。ただのちょっときれいな小娘じゃないか。乱高下する景気動向のほうがよっぽどおそろしい。
「お冷やも出ますよね」
「ええ、もちろん。さ、どうぞどうぞ。いおりからの景色は鎌倉でも人気の映えスポットなんですよ」
「へえ」
 乾いた相槌を打ってしまったが、巫女は笑みを崩さないまま若宮汀子と名乗った。
「お客さまのお名前をうかがってもいいですか」
「それ、必要ですかね」
「いえ、そういうわけじゃないんですけど」
 汀子は困ったように小首を傾げた。あらためて見ると、思ったより幼い印象を受ける。二十歳そこそこといったところか。
 とげとげとした自分の態度がやや恥ずかしくなり、ぽつりと告げた。
「雨野大輔です」
 こよみ庵の暖簾のれんをくぐりながら告げると、汀子がぱっと微笑んだ。
「雨野さんですね。ようこそ一条神社へいらっしゃいました」
「はあ」
 ついうながされるまま入店してしまったが、こよみ庵が映えスポットだというのは本当のようだ。
 壁一面がガラスになった庵の向こうは見渡す限りの竹林で、雨あがりの日差しに葉の滴をきらめかせている。部屋の中はクーラーも効いており、かなり居心地がよさそうだった。
 案内された席につくなり、ほうとため息が漏れた。汗がこめかみから際限なく吹き出してくる。上半身を支えていた膝頭が、しくしくと痛んでいた。
 あれくらいの坂など、昔は息も切らさずにのぼっていたのに。女性にだって、そこそこモテていた。バレンタインのチョコだって何個ももらっていたし、合コンに行けばかならずアプローチされていた。向こうからだ。
 たった十年前の自分は、まるで別人のような人生を送っていた。
 もしも今、あのころに戻れるなら――。
 出世なんて断固しない。ずっと平社員で責任もストレスも最小限に抑えて働き、運動は絶対にサボらずつづける。
 ぼんやりと眺めたガラスの面から、十年で脂肪を蓄えるだけ蓄えた肥満のおっさんが見返してきた。
 これが俺か。いや、まさに俺なんだ。これが今の――。
 尖った現実が、容赦なく目をつき刺してくる。
「あの、大丈夫ですか?」
 やや痩せすぎではないかというほどすらりとした汀子が、てたばかりらしい抹茶と和菓子を運んできた。小さな盆の脇に、境内に湧く泉からくんだという冷水もことりと添えられる。
 返事もせずに、抹茶ではなく冷水を手に取って一気に飲み干した。
「すみません、もう一杯もらえますか」
「ええ、もちろんです」
 ふたたび供された水を今度はゆっくりと味わいながら飲む。ずいぶんと甘みが強かった。
「お抹茶もぜひお飲みくださいね。今日のお茶請けは水無月みなづきです。小町通りで人気の老舗しにせから仕入れてるんですよ」
「そうですか」
 疲れているせいか、中身をひと口で飲み干したくなるのをこらえ、器を少し回してみた。理由までは知らないが、こうしてから抹茶をいただくはずだ。それくらいの作法はわきまえている。
 和菓子は白いういろうの上に小豆をのせて固めたものだといい、さっぱりとした味わいだった。
 ふと視線を感じて大輔が顔をあげると、汀子がすぐそばに立ち、心なしかギラつく目でこちらを見下ろしていた。
「あの、何か」
「今日はいったい、どうしてこちらまでいらしたのかなと思って。うちって参拝客もそんなに多いほうじゃないですし」
 たしかにこの寂れ具合では、おそらく一日に三、四人でもくればいいほうだろう。
「参拝に来て怪しまれるなんて心外だな。むしろ、こんなおんぼろ神社にこの建物って――。怪しみたいのはこっちのほうなんだが」
 言外に、税金がかからないのをいいことに、うまいことやっているのだろう、と嫌味をこめたつもりである。
 汀子の大きな瞳がにわかにつり上がり、だんっとテーブルを手の平で叩いた。
 さすがに言い過ぎたかと身構える。
「たしかに怪しいですよね。神主の兄はもと建築事務所で働いていて、その伝手つてでこの建物も、兄に言わせればかなり予算控えめで建てたんだそうです。とはいえ、それなりの金額ですよ? 余裕がないときにわざわざ自分の建築欲を満たすためだけにこんなことして。おかげで今うちは――」
 はっと気がついたように、汀子が咳払いをした。
「すみません。この建物のことになるとつい。そんなことより、ここまでいらした理由があるんじゃないんですか」
 気をとり直したらしい汀子が、ふたたび尋ねてきた。大きな瞳には、有無を言わせぬ圧力がある。
 突っぱねるつもりが、つい正直に答えてしまった。
「ここには来るつもりじゃなかったんだが、バスを降りたら白い猫が寄ってきて、まあ、なんとなくついてきただけだ」
「ああ、そうだったんですね。やっぱり」
「やっぱりとは?」
「うちの猫、神様に呼ばれて来る人を見つけるの、得意なんですよ」
 条件反射で、大輔は目をすがめた。
「申し訳ないが、俺はそういうのは信じない性質たちだ」
「でも、過去に何か後悔していること、おありですよね」
 ぐっと背中に力を入れたあと、大輔は鼻で笑ってみせた。
「ずいぶんあからさまなコールドリーディングだなあ。俺くらいの年齢で後悔がない人間なんてまずいない」
「コールドリーディングってなんです?」
「インチキ占い師が、相手の容姿や言動から情報を高い精度で推定して、あたかも占ったかのように告げることだよ。占い師と名乗っているだけの詐欺師の手口だ」
 せっかくの休みに、無益な時間を過ごしたくなかった。そう、時間だ。残念ながら自由な時間はあまりにも短い。
 抹茶を飲み終えるまで、汀子からの返事はなかった。少しきつく言い過ぎたかと大輔が汀子を見やると、相手はスマートフォンを熱心にのぞきこんでいた。
「あ、出てきました。へえ、ほんとだ。占い師や詐欺師が使うテクニック。面白いですね。でも、私のはコールドリーディングじゃないですよ。れっきとしたご神託です。雨野さんは神様に呼ばれてこの一条神社にいらっしゃったんです」
「だから、そういうのは信じられないし、信じたくもないし」
 大輔が、大げさなため息でいいかげん汀子を追い払おうとしたときだった。突然、入口のほうから低い声が響いた。
「お告げのとおり、ずいぶんといい方のようですね」
 白の羽織に水色の袴姿の神主である。先ほど汀子が話していた、この建物を設計した人物に違いなかった。背がすらりと高く、涼しげな容貌の持ち主で、こちらもかなり異性に人気がありそうだった。ひと言で表すといけ好かない。
 俺だって痩せていたころは、こいつに負けないくらいの男前だったんだ。
「兄で神主の若宮雅臣です。お兄ちゃん、ご挨拶を――」
「うちは、ご神力しんりきをいたずらに誇張などしておりません。コールドリーディングなどという侮辱は取り消していただけませんか」
 汀子の声をさえぎって雅臣が言い切った。気圧けおされまいと、大輔も言い張る。
「神様に呼ばれたとかなんとか、そういうのが苦手な人間もいるんですよ」
「こちらもあなたのような方が選ばれたのは不本意ですが、ご神託はご神託なので」
 汀子が雅臣のほうに咎めるような視線を向けたが、雅臣は涼しい顔をしている。
「お兄ちゃんはちょっと黙ってて。兄が無礼ですみません。それより雨野さん、後悔していることないですか? 過去に戻ってやりなおしたいこととか」
「それよりとはなんです、それよりとは」
 目をつり上げる雅臣をうっちゃって、巫女に返事をする。
「だから、さっきも言ったとおり、いくらでもありますよ。俺だけじゃない。普通の人間ならないほうがおかしいでしょ」
 汀子がさらに食いさがった。
「でも、強いていうなら、この日に戻れたら戻りたいなんていう日、ないですか」
「そりゃ、そう言われたら――」
 答えようとした大輔の声を、雅臣が冷たくさえぎる。
「いや、無理に答えなくていいですよ。ここは、考える間もなく、いつの時点に戻りたいか答えるような人が来るところですから」
「というと?」
 問いかけると、雅臣があからさまにしまったという顔をした。口元に手を当て、悔しそうに目を細めている。
 そんな表情でさえ絵になっているのが気に食わなかった。
 こいつ、ぜったいに男の友だちは少ないだろう。もし自分が同年代だったら、合コンでは超優秀な客寄せパンダだとわかっていても呼びたくない。
 歯がみしていると、雅臣があからさまに会話を終わらせようとした。
「いえ、お気になさらず。汀子、この方は違うんじゃないか」
「お兄ちゃんっ。たしかに雨野さんです。神様が間違えるわけないでしょう」
 きつく雅臣をにらみつけたあと、汀子が取りなすようにもういちど尋ねてくる。
「急がなくていいのでよく考えてみてください。帰りたい日、きっとありますよね」
 汀子の圧力のせいか、雅臣は不本意そうに沈黙していた。
 もう帰ろうと思うのに、大輔は、尻が椅子に張りついたように動けない。代わりに思考は、記憶をたどって過去へとさかのぼっていく。
 そうだ。戻れるなら俺がこんなにストレスを抱える前、平社員で生活も体もまだ軽やかだったころがいい。前しか見えなかったあのころに戻って、朝の川原沿いを走って、走って、思い切り汗をかけたら、どんなに爽快だろう。
 指の腹に贅肉ではなく、腹筋が触れていたころだ。会いたいやつなど特にいないが、腹筋には心の底から会いたかった。
 気がつけば、独り言のようにつぶやいてしまう。
「戻るなら昇進試験を受ける直前かな。ホノルルマラソンに出たくてかなり体をつくりこんでいたし」
 一瞬、テーブルに沈黙が降りた。兄妹が、仲良く目を見開いている。
「し、失礼だな。俺だって昔は細マッチョだったんだ。腹筋だってしっかり六つにっ」
「い、いや、疑ってなんて。ね、お兄ちゃん」
「それにしたって今のすが――」
「お、に、い、ちゃ、ん」
 失礼な兄妹である。この態度の悪さが原因で参拝客が少ないのではないか。
「神職のくせに、口が悪すぎるぞ。帰る」
 本当はそこまで腹を立てたわけではなかったが、今がチャンスである。大輔が席を立つと、汀子がさっと通路をふさいだ。
「そこをどいてくれませんか」
「帰れますよ」
「は? だから帰ると言ってるじゃないか」
「そうじゃなくて、戻ってみたい過去に、帰れると言ってるんです。うちの御祭神である聖神は、人を過去に戻すのが得意技なんです。時帰りって呼ばれてます。でも、誰でも時帰りできるわけじゃなくて、帰す人は神様が選んで私に教えてくれるんです」
「ほ、ほう?」
 これは、下手にマルチの販売会などに紛れこんでしまうよりまずい状況かもしれない。逃げるが勝ちの案件である。
「この神社の神様がすごいってことはよくわかった。それじゃこれで」
「待ってください」
「いや、待ってもらわなくていいだろう。帰りたがってるんだから」
「もう、お兄ちゃんっ」
 小さく叫んだ汀子が、雅臣の腕を強めにつまんだらしい。雅臣が、痛みに顔をしかめながらもつづける。
「このあいだの女性もやらずに帰っただろう? あれが普通だ」
「そんなこと、ないよ」
 唇を噛む汀子に雅臣が畳みかけた。
「時帰りなんてせずに、後悔を抱えたまま生きていく。人生っていうのは本来そういうものだろう? やり直しなんてきかないのが当たり前なんだよ」
「そのとおり。あなた方にご心配いただかなくても、俺の人生は俺が責任を――持ちます」
 最後のほうで大輔が言いよどんだのは、決して自信がないからではない。ただ、雅臣の言葉が胸に引っかかっただけだ。
 そう、そのあとも、後悔を抱えたまま人生はつづいていく。
 知らずに大輔は拳を握っていた。指が厚くなったせいで、うまく握りきれない。
「でも、でもですよ。ここなら、やり直せるんですよ? やり直したくないですか」
 まだ言いつのる汀子に向かい、大輔はつい同意してしまった。
「そりゃ、やり直せるんだったら、誰だってやり直したいですよ」
「じゃ、時帰りしましょうよ。ただですし、なんにも損はないじゃないですか」
「ただ、なのか」
 日々、景気の動向や株価と戦っている身のせいか、釣られるように尋ねてしまう。
「ええ。あとでお賽銭ははずんでいただけたらうれしいですけど任意ですし、基本的には無料でおこなっています。以前、それなりの金額をいただこうとしたら、境内の裏に落雷があって」
「神罰ってやつですか」
「はい。神様もこの神社を修繕するためなんだから、ちょっとぐらい協力してくれてもいいと思いません?」
 巫女らしからぬ俗っぽさで、汀子が口をとがらせている。心なしか、窓の外の竹の葉が、強めに揺れた気がした。
 過去に、戻る。高額な請求もなし。たしかに大輔にとって損はない。
 だったら、やってみようか――いや、考える余地もない与太話ではないか。
 我に返りかけた大輔に、駄目押しのひと言が飛んできた。
「痩せたくないんですか。過去に行けば、太らない未来だって――」
「汀子、過去を簡単に変えられるような誤解をさせないように。無責任が過ぎる」
「あ――ごめんなさい。私、つい」
 張り詰めた雰囲気に、大輔もつい気をのまれてしまう。
「まあ、個人が痩せる、太る、くらいの変更なら可能かもしれませんがね」
 皮肉に口元をゆがめられたときは、さすがにむっとしてしまった。
 歴史の流れにとっては取るに足らないことかもしれないが、大輔にとって、痩せる痩せないは、心の生死に関わる問題なのだ。
 そうか、俺の心はいま死んでいるんだ。だとしたら、これは起死回生のチャンスじゃないか。
 人生がどう変わるか知らないが、今より悪くなることなんてまずないだろうしな。タダだし、特に予定もない。少し変わった観光体験だと思ってやってみようか? 
 あらためて兄妹を見つめてみる。時帰りについて話すふたりの態度はごく真剣だった。本気で誰かを過去に帰せると信じていることがひしひしと伝わってくる。
「本当に本当なんですよ、ね」
「ええ、本当です」
 声のそろった兄妹の瞳が怪しく光り、大輔の背中に震えが走る。
「さ、本殿へ」
 ここぞとばかりに、汀子が大輔を本殿へとうながした。
 時帰りなど完全に信じたわけではないのに、気がつけば汀子のあとについて歩きだしている。
 雅臣の声が追いかけてきた。
「時帰りで人生が変わったら、今の人生の記憶は曖昧になる部分もありますよ。それでもいいんですか。今の人生には、二度と戻れないんですよ?」
「はいはい、時帰りできたらの話ですよね」
 顔だけ振り返って淡々と答えたが、やや動悸がする。
 信じてなんか、いないのに。
「どうなったって知りませんよ、まったく――」
 小さく毒づいた雅臣の声が、すぐ耳元で響いた気がした。

 

(第8回につづく)