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第五話 だいすき(承前)


「どう、なったんですか」
 尋ねたのは美緒のほうだ。
「母は事故を避けることができたかわりに、重い病気を患って、最後まで苦しみ抜いて亡くなりました。まるで神罰がくだったかのような最期でした。ですから、脅すわけではなく事実に基づいた助言として、お嬢さんのことを思うなら余計な変化を起こさないことです」
「お兄ちゃん――」
 もう、地響きは止んでいる。
 苦い抹茶の香りが教也の鼻先をかすめていった。

 本殿に通され、雅臣から時帰りについてさらにくわしい説明を受けたあと、教也と美緒は竹林へ向けて座るよう、うながされた。
「それでは、時帰りの儀をはじめます。準備はいいですか」
「はい」
 夫婦の返事は、ほんのわずか時差があったようだ。おそらく教也のほうが一瞬遅かった。指の先が小きざみに震えている。
 これまで三十年と少し生きてきて、教也は幽霊を見たこともなければ、虫の知らせのひとつも感じたことがなかった。いわゆるスピリチュアルな出来事とは無縁の人生だったのだ。それなのに、今になって過去へ戻るなどという荒唐無稽な話にすがりつき、竹林に向かって正座している。
 俯瞰してみれば、滑稽な夫婦だ。詐欺のいいカモになっているのかもしれない。
 それでも、一縷いちるの望みにすがりたかった。
 頬にぴりっとした刺激を感じた直後、雅臣の低い声が朗々と空気を震わせた。しゃん、しゃん、と規則正しい音にあわせ、衣擦きぬずれの音も聞こえてくる。そっと振り返ると、汀子がきらびやかな衣装を身につけ、神楽を舞うところだった。
 ほんの一瞬目があい、教也を励ますようにうなずいてくれる。
 竹林に向きなおり、視界の奥を見つめつづけた。雅臣の説明によれば、かすかな光が漏れだし、同時にふたりの手首に光の棒が出るのだそうだ。長ければ一日、その半分で半日。
 それが半分かどうか、光の棒が一本だった場合はどうやって判じるのかと思ったが、次の説明に移ってしまったため尋ねそびれてしまった。
 これが大がかりな詐欺だとしたら、向こうに光を発する機材でも仕込んであるのだろうか。そして実際にはもちろん時帰りなどできず、その非は教也たち夫婦に押しつけられるに違いない。信じる力が足りなかった、覚悟が足りなかった、など言いがかりはいくらでもつけられる。仕上げは高額の請求。さっきは無料だなどと説明されたけれど、神楽代だの祝詞代だのと言って、驚くほど高額の請求をされるかもしれない。そうなったら、少し気が弱い人物なら払ってしまうはずだ。
 理性で考えればいくらでも否定できるのに、澄んだ空気と耳に心地よい祝詞に身を委ねているうち、この場所ならば時帰りなどという奇跡も起きそうな気がしてくる。
「あ」
 隣で美緒がかすかな声をあげた。教也も声こそあげなかったが、気づけば口を半開きにしていた。
 竹林の奥から、たしかに柔らかな光が揺らめきだしている。最初こぶし大だったそれは、しだいに強さを増し、みるまに竹林の奥全体に広がっていった。
 手首には、言われたとおり、光の棒が浮きでている。
「嘘だろう」
「いかなくちゃ」
 熱に浮かされたように、美緒がふらりと立ち上がった。教也も慌ててあとを追うのに、気がはやるのかうまく靴をはけない。過呼吸かと思うほど息が乱れていた。
 どうにか準備を整えて本殿をいちべつしてから、先ほど指示されたとおりに竹林に向かって歩いていった。一歩、また一歩ゆっくりと。小径に入ってからは早歩きで、美緒の背中を追いながらいつしか小走りになり、光に自ら飲みこまれていく。
 ふわり、と体が宙に浮いた気がしてとっさに先をいく美緒の手をつかむ。向こうも強く握り返してきた。
 それ以降、どんなに足を前に踏みだしても地面に触れない。
「私たち、落ちてるんだよね」
「ああ、そうみたいだな」
 美緒の髪が逆立ったようになっている。相当な速度で落下している証拠だ。にもかかわらず、まるでふわふわと風まかせに漂う綿毛にでもなったようで、ふたりともさほど強い重力を感じなかった。
 お互いの手首に、同じくらいの長さの棒がやはりたった一本だけ。
「なあ、これってなんだか短い気がしないか」
「そうかな。勝手に一日だと思ってた。たった一日――」
「うん」
 なあ、俺たち本当に過去に向かってるのかな。尋ねようとして口をつぐんだ。
 花音のあどけない笑顔が瞼に浮かび、掻きむしりたいほど胸が苦しくなる。そっと隣を見ると、表情がこわばっていた。
「あの子、きっと待ってる」
 美緒がつぶやいた次の瞬間、すとんと足の裏がどこかを踏んだ。

 

(第35回につづく)