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第五話 だいすき(承前)


 娘の名前を呼ぼうとしたけれど、寝顔を見てこぼれた言葉は別のものだった。
「だいすきだよ」
 意識が体から抜けきる直前、必死に口元を引き上げて笑ってみせる。
 花音も、眠ったまま微笑んだように見えたのは気のせいだろうか。いや、きっと届いたはずだ。娘に捧げたさいごの声、愛の言葉は、花音の魂に聞こえたはずだ。
 あどけない寝顔が、ゆっくりと光に溶けて見えなくなった。

 下ってきたときと同じ光の世界を、ゆるやかな上昇気流に乗って美緒とともに引き上げられていく。
「笑ってなくちゃね」
「ああ。でも」
 こんなにシンプルで、こんなに難しい宿題ってあるだろうか。
 花音が生まれた日のことが、昨日のことのように浮かんできた。生まれたての、しわくちゃの顔。離乳食が気に食わず、吐きだしたときのしかめつら。小さなくっくをはいてもなかなか歩きださず、ただにこにこ笑って手を叩いていた姿。三歳の七五三ではじめての着物選びに真剣だったおませな横顔。五歳のころには美緒よりもパパに手厳しい注意をするようになっていた。
 ――パパ、おててあらって。
 ――パパ、こっちこないで。
 ――パパ、おふろに入ろう。
 ――パパ、だっこして。
 ――パパ、パパ。
 小さく、嗚咽が漏れる。
 花音と過ごすあいだこらえていた涙が、次から次へ、記憶とともにあふれだしてくる。隣では美緒も、泣いていた。
 ふたりで目を見あわせ、泣きながら、けんめいに笑った。
 そのうち、本当は経験していないはずの不思議な記憶まで脳裏によみがえってきた。
 事故は――やはり起きた。あれほど注意をしたけれど、防ぐことはできなかったのだ。
 異なるのはそのあとの夫婦の姿だった。
 悲嘆に暮れ、休日も引きこもりがちだったはずなのに、夫婦は休日、なるべく外にでた。花音とでかけた公園へ、遊園地へ、プールへ。なるべく目に入らないようにしていた三人だったころの記憶を、もういちどおさらいするようになぞって歩いていた。笑顔で。ときに、泣いて笑いながら。
 あの子と過ごしたすべての日々が、この贈り物の一日と等しく特別なギフトだった。愚かにもそのことに気づかずに、いや、そのことを忘れて自分たちは娘との時間を当たり前のように享受していた。
 だから、花音は伝えてくれたのかもしれない。
 この世にることが、奇跡であるのを忘れずに生きろと。
 ぎゅっと美緒の手を握ると、同じ強さで握り返してきた。
 さらに、さらに上昇していく。
 もう一滴も涙がでないほど泣き尽くしたころ、足の裏が唐突に地面を感じた。
 それは久しぶりに、自分が自分であるという感覚だった。半年のズレでも、やはり心と体は細かな違和感を感じていたのかもしれない。
 教也の隣で、美緒がぼんやりとたたずんでいた。あたりを見まわし「帰ってきちゃったんだ」と小さくつぶやく。くたくたとしゃがんでうつむいたまま、動かなくなった。
 震える肩に手をおいて答える。
「うん。そうだな」
 花音のいない世界に、また戻ってきてしまった。
 わかっていたことなのに、たとえようのない虚しさに襲われ、妻と同じようにしゃがみこんだ。
「お帰りなさい」
 顔を上げると、雅臣が別れたときと同じ姿で立っている。 
 整った口元がかすかに動いたけれど、結局なにも声を発しないまま閉じられた。
 代わりに口を開いたのは美緒だった。
「ありがとう、ございました」
 しゃくりあげながらも、しっかりと上がった口元の皺を、午後の日差しが照らす。幾夜も積み重ねた後悔によって刻まれた皺が、その笑顔をしなやかにみせていた。
「ありがとうございました」
 遅れて頭を下げた教也も、うまく笑えていただろうか。
「お茶を用意してありますので、こちらへ」
 こよみ庵へとふたたび招き入れられた。案内された席に、しばらくして雅臣がほうじ茶を運んでくる。
「お飲みください。時帰りのあと、ふらつく方もけっこういらっしゃるので。このお茶で防止できます」
 言いながら、ふたりの向かいに腰かける。
「本来であれば、時帰りした方々に色々とお話をうかがっているのですが――今回はご事情もあるでしょうし、もしご負担であれば控えさせていただきます」
「いえ、かまいません。話させてください。これから時帰りする方たちのお役に立つかもしれないですし」
 美緒が、雅臣の目を見据えて答えた。雅臣がいたましそうに目をすがめる。
「いや、本当に無理はしなくても」
「お話、聞かせていただいたら?」
 部屋の隅から、ほんの少し心配そうな声が響く。見れば汀子が、ひどく疲れた様子で腰かけていた。
「時帰りの神楽を舞うと、ああなるんです。見ないふりでもしてやってください」
「お・に・い・ちゃ・ん。話を逸らさないで」
 言葉はきついが、気遣うような表情をしている。
「もしよければ、本当に聞いてやってくれませんか。つらくないと言えば嘘になりますが、本当に時帰りをさせていただいて――感謝しているんです」
「わかりました。それではくれぐれもご無理のない範囲で」
 お茶を口にしたあと、教也と美緒は代わるがわる花音と過ごした一日のことを話した。誘惑にかられて事故に注意するよう諭してしまったことも含めて、一瞬の夢のようだったあの時間のことを包み隠さず話して聞かせた。
 花音がどんなにかわいかったか。
 あの一日がどれだけ美しかったか。
 時帰りのおかげで、その後の夫婦がどれほど救われてきたのかも。
 耳を傾けるあいだ、雅臣はほとんど口を挟まなかった。手にしていたボールペンも動いていなかったように見えた。ただ瞳だけが、ときおり大きく揺らいでいた。
 夫婦の声がようやく途切れて教也が小さく息を吐いたとき、初めて雅臣が尋ねた。
「後悔は一度もしなかったんですか。時帰りなんてするんじゃなかったとちょっとでも思わなかったんですか。だってあなたたちはいわば、お子さんを二度――」
「お兄ちゃんっ」
 悲鳴のような汀子の声がさえぎる。 
「いえ、大丈夫です」
 汀子に向かってうなずいてみせてから、教也はつづけた。
「実際、思いましたよ。もう理屈じゃなくて、ただただ苦しくて、のたうち回るほどの喪失感で――ネガティブな思いに飲みこまれそうになったことだってたくさんありますけど」
「あの子が、花音が、私たちが笑っていることを望んでいたから」
 美緒が、まっすぐに雅臣を見据えて言葉を継いだ。
「そうです。だから、夫婦で決意することができたんです。どんな日も笑って過ごそうって」
 事故を防ぐことはできなかったけれど、その後の自分たちのことを変えることはできているはずだ。
 少なくとも、またいつか花音と再会したときに、叱られないくらいには。
「神主さん、お母さまのために時帰りをされて、後悔しているとおっしゃってましたよね。かえって苦しませることになってしまったって」
 美緒が、まだ水気の残る声で雅臣に問いかけると、相手は身構えるように腕を組んだ。

 

(第41回につづく)